実朝さんの二つの供養塔が語るもの・・

北条氏が実権を握るために犠牲となった源実朝

一般に実朝公のお墓は母親である北条政子さんのお墓のとなりにあると言われています.寿福寺に行ってみると確かにそのようになっています.しかし,実は実朝さんの「首」は他のところにあるのです.なぜ?でしょう.そのナゾを考えてみましょう.

お墓らしいお墓がない一般民衆とはことなり,武士が亡くなると「お墓」が作られましたが,鎌倉時代のお墓は現在の私たちが持っているお墓のイメージとはちょっとちがいます.そのまま遺灰や骨壺の上にお墓を作る場合もありましたが,葬られていた人のゆかりのある場所に五つの石を組み合わせた五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)という供養塔を建てました.鎌倉時代の重要な記録「吾妻鏡」(あずまかがみ)には,政子さんの遺体は勝長寿院(しょうちょうじゅいん)のかたわらに,実朝さんは高野山の金剛三昧院(こんごうざんまいいん)に葬られたと記録してあります.

※勝長寿院=鎌倉滑川の大御堂橋付近にあった大寺院.頼朝の父「源義朝」と義朝と最後を共にした家臣の「鎌田正清」を弔ったのがはじまり.頼朝のお墓もはじめはここにあったといわれています.後に尼将軍となった北条政子が御堂に住んだため,大御堂の名が付いたと言われています.その後,勝長寿院は応永12年(1405年)に火災あって現在その姿を見ることは出来ません.

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北条政子さんと源実朝さんの供養塔がある鎌倉市「寿福寺」の山門

山門の碑の上でたまたま昼寝中のネコ 

 

政子さんの五輪塔(ごりんとう=お墓だったり供養塔だったりします)(左)と実朝さんの五輪塔(右)どちらも「やぐら」という横穴の中に供養されています.

 

ではもう一つの供養塔はどこにあるのか?

 

神奈川県秦野市は鎌倉市から約30キロメートル離れています.その秦野市の郊外に「御首塚」(みしるしづか)がありました.

記録によると,三浦義村の家臣「武常晴」(たけつねはる)がここに実朝さんの首を葬ったと伝えられています.三浦義村は実朝を討った公曉(くぎょう)をそそのかした張本人と言われている人で,実朝暗殺と北条氏打倒の企てがばれたために実朝の首を持ってきた公曉を殺したと言われています.処分に困った「実朝公の首」は家臣である武常晴に渡されました.そして,三浦氏と仲の良かった波多野氏に頼み,波多野氏の領地内に墓所を作ったと考えられています.その後,武常晴が御首塚の近くに金剛寺というお寺を作ったと伝えられています.しばらくして御首塚は荒れてしまいましたが,700年たった1919年に近隣の人や秦野市民の手によってきれいに復興しました.実朝さんも安らかに眠っていることでしょう.※金剛寺建立にはいくつかの説があります.

神奈川県秦野市にある「実朝公首塚」(みしるしづか)の墓域

実朝さんの首が葬られている墓所.うっそうとした木々の中にありました.


というわけで,800年たった今でも実朝さんの首と胴体は別々の所にあります.現代人の私達からするととても理解できないことです.政子さんはどうして自分の息子の遺体を一つにしなかったのでしょうか?

このことについては,いくつかの理由を考えることができます.

1.鎌倉時代の人にとって(特に武士),首に対する特別な思いがあった.「首には魂が宿っている」と考えられていたため,戦の時にとった敵の首も大切に扱っていました.ですから一旦葬られた首に対する尊敬や,恐れの感情があって掘り返すことはしなかった.

2.実朝公の暗殺にはいくつか謎があります.まずおそらく,北条氏は事前に暗殺計画を知っていたということです.この事件は大豪族三浦氏と北条氏の権力争いが背景にあると言われています.三浦義村は実朝と北条義時を一緒に殺すように公曉をそそのかしたふしがあります.成功の曉には公曉(くぎょう=二代将軍頼家の子.つまり実朝の甥)を新将軍として,北条氏にかわって三浦氏が政治の実権を握ろうとしたのでしょう.その証拠に実朝と一緒にいた源仲章(みなもとなかあき)も実朝と同時に殺されています.源仲章は本来そこにいる人間ではありませんでした.本来は北条義時が「そこ」いなければならなかったのです.

事件は建保7年1月27日におきました(1219年).実朝公が右大臣に任ぜられ,その祝賀のための鶴岡八幡宮に参拝する公式行事中での出来ごとです.なぜこの時に狙われたかというと実朝と義時が無防備で一緒にいるからです.

義時はこのクーデターを事前に知っていたと言われていますから,直前になって「調子が悪い」といって源仲章に役を交代させ,自分の屋敷に帰ってしまうのです.もちろん本当に具合が悪いわけではありません.北条氏側の豪族との打合わせや戦の準備を整えていたに違いないのです.つまり北条氏は実朝が殺されることを知っていたということになります.政子が知っていたかどうかは不明ですが,少なくとも義時は知っていたはずと言われています.

源頼朝は武士政権の基礎を作った人ですが,子供の頼家や実朝は豪族どうしの権力争いに利用されてしまう危険な存在でした.おそらく義時の頭の中には「将軍はかざりものでいい」「京都から貴族をよぼう」「北条氏が実権を握る」という方程式が出来上がっていたと思われます.

移り変わる幕府の組織(変化する東国の武士政権)に行く

当時の人は「祟り」(たたり)ということを信じ,心のそこから恐れていました.一族の繁栄にとって不要な実朝の死を「事前に知っていた」北条氏は,負い目を感じて,霊魂が宿る「首」は鎌倉に戻さなかったのだとも考えられるのです.そして後の人が母である政子さんの気持ちをくみ取って,寿福寺に二人の供養塔を建てたのではないでしょうか・・

実朝公暗殺に関係する系図

実朝公の暗殺現場.今と昔

鶴岡八幡宮の階段脇にある「大銀杏」お話ではこの木に隠れていた公曉が実朝を殺したことになっていますが,愚管抄(ぐかんしょう)という本には階段の下で殺されたと記録されています.

つまりこの階段の下です.

ついでに北条氏と三浦氏の屋敷あとをお見せしましょう.

北条氏の屋敷あと.鶴岡八幡宮のすぐ近くにあります.最初に政所が作られた場所の斜め前です.今はラッシュの名所です.

三浦氏の屋敷あと.今は元気な声がこだまする小学校です.
ところで,二つの屋しきは百数十メートルしか離れていません.

ついでに政所あと

今はマンション.写っているのはゲンボー先生1号

 

実朝公暗殺に関係する地図

当時の政治の中心地「政所」を守るように北条氏と三浦氏の屋敷が配置されています.彼等が有力豪族であることがすぐに分かりますね.この地図の1辺は500メートルですから両者はずいぶん近くに住んでいたのです.

実朝の首を持った公曉は一たん隠れますが,そのあと三浦義村の屋敷に向かう途中で殺されたと「吾妻鏡」に書かれています.1219年1月27日の大雪の夜の出来ごとでした.


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制作・ 著作 玉川学園 多賀 譲治