ここは皆さんからよせられたメールをのせる場所です.質問,分かったこと,もっと知りたいこと,質問への答え,などがあります.

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目次

切り通しについて 鎌倉の地形について 頼朝さんのお墓について 頼朝さんのお墓はなぜ育った場所にないの?

砂鉄について 滑川について 鎌倉時代の海上交通について 鎌倉時代の道について 幕府の仕組みについて 

なぜ,鎌倉に幕府を開いたの 武器や戦争の仕方について 

元軍はなぜ戦いの時に「どら」や「かね」を鳴らしたのですか? 誰かご返事ください

授業の様子です

 


切り通しについて

釈迦堂切り通しをみました。当時は、ブルドーザーもないのに、よく、つくれたなあとおもいました。そして、どのようにして、切り通しをつくったのかが、疑問です。これから、帰って、みんなで調べたいと思います。   小学部 6年芙蓉組 愛 (2001.06.05)

よくそのことを考えましたね.とても大切なことだと思います.そこで先生は,多分調べるのが難しい「道具」のことと,簡単な方法だけについてお話したいと思います.もっと,大切な「だれ」が「どんな目的で」は,みなさんが調べたり考えて下さい.そうすると「なぜ鎌倉に幕府を作ったのか」の,一つの答えがでると思います.

あの切り通しは全部「人の力だけ」で掘ったのです.そのころの道具は木でできていて,先のところだけに鉄が使われていました.労作で使う「くわ」は,手に持つ柄(え)のところは木ですが,先の部分は全部鉄でできていたでしょう.でもこのような道具が作られたのは江戸時代からのことなんです.鎌倉時代には鉄が貴重品だったために,道具の先っぽの一部分にしか鉄は使われていませんでした.( ※江戸時代でも刃の部分が全部鉄でできているのは少なかったのです)

さて,なんでこんなことを書いたのかと言いますと,今日みなさんが行った「切りとおし」.あそこの壁をよく見た人は気がついたと思うのですが,切り通しの壁に「何か?」で掘ったあとが残っていたでしょ?あのあとを見れば「どんな道具で作ったか」が「分かるから」なのです.

ここまで歩いてきてホット一息・・・しかし,壁をよく見みると・・・

上から振り上げて穴を掘る道具は「鍬」(くわ)です.しかし,垂直な穴を掘ったり,壁のような垂直なところをけずったりすのは「鋤」(すき)という道具を使いました.切り通しについていたあとは「すき」のあとです.

これが「鋤」.(すき)黒いところが鉄の部分.

※「野にす〜き〜ふ〜る〜う〜」という玉川の校歌の「すき」はこの道具のことなのですぞ・・

ほらね!斜めの掘りあとは「すき」のあとだったんです.

切り通しを作るには,たくさんの人が「くわ」で穴を掘り,「すき」で壁をけずり.それを「もっこ」という縄を編んだ道具で土を運び,捨てて作ったものです.

ところで,鎌倉時代には鉄の刃を持つ農具が広がりましたが,それらの多くは「鋳物師」(いもじ)という日本各地を渡り歩いていた「鉄製品」を作る技術者が作ったものです.彼等の技術がその地域に根づいて,やがてその地域に専門の技術者がうまれました,つまり「村の鍛冶屋(かじや)」です.これらの道具もそうした鋳物師や鍛冶屋さんが作った道具なのです.

では,誰があの「切り通し」を作らせたのでしょう?

ここから先は自分達で調べたり考えたりしてみて下さい.ゲンボー先生 (2001.06.05)

誰か考えた人は意見をください.目次にもどる


鎌倉の地形について

午前中の見学を終えました。

見に行った場所で印象に残ったのは天園ハイキングコースです。僕達は軽装で歩きましたがとても疲れてしました。しかし、昔の鎌倉武士は重い鎧や兜を身につけて、色々な物を体に付けていました。僕達よりももっと疲れたと思います。また、三方が山で囲まれ一方が海に面しているため、とても攻めにくい地形だと思います。しかし、相手が一回攻め込むと逃げにくいと言う短所もあります。昔の人々は疲れたなどといわずに「いざ鎌倉」といって鎌倉幕府と将軍を守っていたと思います。

6年芙蓉組 晴彦 2001.06.05

このことについて誰か晴彦君に返事を書いて下さい.(ゲンボー先生)

芙蓉組 晴彦君へ

返答が遅くなってごめんなさい。

難攻不落(なんこうふらく=せめられても絶対にやぶられない)の自然の要害(ようがい=けわしく攻めにくいところ)と言われた鎌倉ですが、1333年新田義貞に攻めこまれ鎌倉幕府は滅びました。

1333年新田義貞は、極楽寺坂からの攻略をあきらめ、稲村ヶ崎を通り海岸から鎌倉入りをしようとしました。しかし、海には北条氏の船から弓矢で新田氏の軍勢を狙っている為、義貞たちは先に進めません。そこで、義貞は岬の上に立ち太刀を海に投げ入れ海神に祈ったところ、たちまち潮がひき、鎌倉軍の船は沖へ沖へと追いやられ、かわりに大きな干潟が現れ、新田軍勢はそこから鎌倉攻めを果たしたと言われています。

君の言うとおり、守りやすい地形であると同時に、いざ不意に突破されると弱い、と言う面もありました。そう思う当時多くの武将も君が歩いたと同じ谷戸を歩き、重い甲冑で攻められない、海は船からしか入れないと、あきらめていとのかもしれません。新田義貞の気転(きてん=別の方法を見つけて行うこと)が盲点を見つけ、歴史を変えたのでしょう。

これ以後、鎌倉が歴史の中心になることがなかったのには、こんな事情があったからかもしれません。

ちなみに、「稲村ヶ崎」と書かれる場合は岬の事を指し、「稲村ガ崎」と表記されると鎌倉市の地名を表わすそうです。

小学部 父兄 久保田英男 (2001.06.06)

はじめまして!玉川学園高等部2年のかおりです。私も6年萩組の時、鎌倉見学に行きました。私の一番印象に残ったのはやっぱり「切り通し」です。広くて壁も意外と滑らかで、鎌倉時代の人って機械の力を使わずにこんなものつくっていたんだなあ・・・って思ったのを覚えています。そして学習の広場の色々な方々の文章を読んで、すごく勉強になりました。まだ知らなかったことが沢山あり、それがすごくわかりやすく書かれていて一気に鎌倉時代についての知識が広がりました。おもしろいページに出会えて良かったです!! 高等部2年かおり (2001.06.09)

晴彦君のメールに対して、思いました。気付いたら知っていたくだらない知識です。当時の鎧は、20〜30Lあったそうです。歩く人も大変なら、乗られている馬も大変だと思います。藤組 諒(2001.06.06)

諒君へ,くだらない知識ではありません.とても大切な知識だと先生は思います.そのことに気付くことだけでもえらいなあ・・・ところで当時の鎧を見たことがありますか?

下の絵を見てごらん.きれいな色をたくさん使っています.ふつうに考えたら戦争の時に「目立つ」と殺されちゃうのに,この鎧はどう見ても「目立つ」・・不思議だなあ???どうしてだろう?ゲンボー先生(2001.06.06)

これでもめだたないほうだからね・・・(碧水社「復元の日本史」より)

馬はえらい迷惑だったと思います。藤組 貴士(2001.06.06)

多分馬に乗ったので、あまり大変では無いとおもいます.でも、貴士君の言う通りだと思いました。Go(2001.06.06)

久保田さん、諒君どうも有り難うございました。目次にもどる


頼朝さんのお墓について

また、質問です。できれば誰か答えて下さい。

源頼朝の墓へ僕達の班はいきました。その時に、墓に島津氏の家紋がありました。しかし、島津氏ができる(できると言いますか?)のはもっと後だと思いますが、その墓に島津氏の家紋があると言う事は墓ができた後しばらくしてから再建されたと言う事になると思います。なぜ島津氏の家紋があるかと言うと、島津氏は九州にいた源氏だからだと思います。でも、昔は自分が平氏だとか源氏だとかと勝手に名乗っていました。有名なのは、徳川家康はたしか源氏を名乗っていたと思います。では、島津氏は本当に源氏だったのですか?(たぶん墓に家紋があるのだからそうだとは思いますが...) 芙蓉組 晴彦 (2001.6.8)

あのお墓,実は江戸時代に作ったものです.げんざい頼朝さんのお墓といわれている「あのお墓」は江戸時代に薩摩藩(さつまはん=今の鹿児島県)の第8代目の藩主,島津重豪(しまづしげひで)によって作られました.重豪さんは鎖国中の日本にあって,外国の学問をどんどん取り入れた,「進んだお殿さま」でした.

その島津さんがなんで頼朝さんのお墓を作ったのか?・・・・実をいうと島津家の祖先は源氏で,もしかしたら頼朝さんの子供かも知れないと言われているのです.江戸幕府の将軍「徳川家」は「源氏の子孫」を名乗っていましたが,実はその家系は新田義貞(にったよしさだ=鎌倉を攻めて幕府を滅ぼした源氏の名門)の子孫から「買った」ものなのです.みんな,そのことを知っていたのですが,表だって大きな声では言えませんでした.徳川家が恐いからです.

そこで,島津重豪さんは「俺のほうが源氏としちゃあ正しいんだぞ」と言うことを示すために,頼朝さんの住んでいた館の裏山に新しくお墓を作ったのです.だからお墓には丸に十の字の島津家の紋 つけたのです.その前に置かれている線香立てには江戸時代に考えられた源氏の紋である「笹竜胆」(ささりんどう)の紋がつけられていますが,こちらはもっと新しくなってから置かれたものですね.

お墓の形も丸に十の字の紋も明らかに江戸時代に作られたことを物語っています?では本物の頼朝さんのお墓はどこにあるのでしょう????一説によるとお墓の階段の下にある白幡神社だと言われています.明治時代に神社になりましたが,その前は亡くなった頼朝さんのために,奥さんの政子さんによって作られた「法華堂」(ほっけどう)という仏教の建物 があったのです.鎌倉時代の本を見ると「法華堂が最高のお墓」と書いてありますから,多分そこに頼朝さんのお墓があったのだと考えられているのです.ゲンボー先生(2001.06.11)目次にもどる


頼朝さんのお墓はなぜ育った場所にないのですか?

なぜ 源頼朝のお墓は頼朝が育った場所に作らないのですか?6年 芙蓉組 有里恵 (2001.06.15)

私の意見。多分頼朝はいろいろな所に移動していたから。その亡くなった場所にうめたのかもしれません。芙蓉組 彩乃(2001.06.20)

この時代の人のお墓ですが

一般のしょ民は穴を掘ってうめられるだけです.墓石も墓標もありません.

武士は五輪塔(ごりんとう)を供養塔(くようとう)にたてますが,名前や亡くなった年月日など「個人」のことはほとんど書かれません.ですから北条政子さんの「お墓だといわれている」ということになってしまうのです.

位の高い人は「法華堂」(ほっけどう)というお堂をたてます.頼朝さんは亡くなった後に奥さんの政子さんによって,現在の白幡神社(しらはたじんじゃ=頼朝さんのお墓といわれている場所の階段下にあります)のあったところに法華堂をたてたといわれています.

しかし,不思議ですね???どうして政子さんや頼家さん,実朝さんというように,家族で一ケ所に葬られなかったのでしょう?それはこの時代の「死者」にたいする感じ方が現在の私達とは大きくちがうところからきているんだと,ゲンボー先生は考えます.

※北条政子と源実朝のお墓

実朝さんは胴体と首が別々の場所に葬られています.由比が浜で掘られた庶民のお墓はちょっとあとの人によって掘り返されて,骨はそこいらへんに捨てられています.ただし,頭の部分だけは集めて丁寧に葬られています.

災害や病気,あるいは戦争でたくさんの死者が出た昔は,今の人とは「死ぬ」という感覚がちがいます.でんせん病がはやれば,道ばたに死者が転がっている時代です.幕府のおふれにも「みなし児」や「病人」の死体を道に捨てるなというのがあります.法律を出さなければならないほどそういうことがあったということなんですね.

武士にとっては「死んだ土地」が永遠に眠る土地なのだったと思いますが・・・このことはもう少しくわしく研究してみる必要がありますね.みなさんはどう考えますか?ゲンボー先生(2001.06.25)

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砂鉄について

今日社会科の時間に、渡瀬先生が「砂鉄を昔の人はどうとっていたか・・・・」といっていたので気になったので送ってみました。知っている人は、どうとっていたか教えてください。鹿島(2001.06.06)

武士達は、砂鉄を使って、刀や、戦いの時に使う道具を作っていた。農民達は、日頃使う道具等を作っていた。だったと思いますが・・・。渋谷(2001.06.08)

鎌倉時代には農業が発達しました.当時の絵を見ると川の水面より高い田んぼに水をやるのに「水車」を使ったり,長い水路を作って,それまで原っぱだったところを水田にしていきました.また畑や水田に肥料をまいて収かく量を増やしたのもこの時代です.水車の大切な部分も,水路を掘る道具も,畑や田んぼを耕す道具も,稲や麦をかる道具も,み〜〜〜んな「鉄」でできています.

生活する上で必要な包丁だって,家をつくる時に必要な釘だってぜ〜〜んぶ鉄です.他にはどんなものがあるでしょう,君も考えてみてください.

3月に由比が浜遺跡から出土した鉄器(多分なべの一部)他に包丁も出たそうです.

鎌倉時代はお金が使われるようになり,商品の行き来が盛んになってきた時代でもあるのです.定期市といって決まった数字の日に市場が開かれるようになりました.4のつくに日に開かれれば四日市,5のつく日なら五日市と言う具合にね・・・そうした市は人がたくさん集まるような場所に開かれました.

 

こんなかんじですね,これは現在の岡山県にあった福岡の市のようすです.鉄製品はこんなところで盛んに売られていました.また,「かま」や「すき」や「くわ」などは鍛冶屋(かじや)さんが注文を受けて作りました.中にはお店や工場をもたないで全国を渡り歩いて鉄製品を作る人もいました.これらの人を鋳物師(いもじ)といいます.もちろん,武士のための「刀」や「なぎなた」などの武器を作る刀匠(とうしょう)とよばれる人もいました.鑵倉にはこうした鉄製品を作る人がたくさんいたようです.

では,鹿島君のはじめの質問「砂鉄を昔の人はどうとっていたか・・・・」にもどりましょう.どうやって砂鉄をとるのか??

答え.島根県の斐伊川(ひいかわ)では,川の水に含まれる砂や砂鉄を水ごと「とい」(あまどいの大きいやつ)を通して,砂と砂鉄の重さの違いを利用して,そこに沈んだ重い砂鉄だけを集めました.この方法を「鉄穴流し」(かんなながし)と呼びます.さて,稲村が崎のような浜辺ではこの方法をどう応用したら砂鉄が沢山とれるか,これは皆さんで考えてみてください.

集めた砂鉄は「たたら」という鉄を溶かす炉の中に入れます.燃料は炭です,まっかに燃えた炭に「ふいご」という空気を送る道具で大量の空気を送ると,中の温度はさらに高くなって,やがて砂鉄が溶けだして底にたまります.これを「けら」と呼び,特に質のよいものを「玉鋼」(たまはがね)といいます.ここまでくるのに数日かかります.

鉄はその使い道によって質が決まります.日用品はそれほど質の高いものは使われませんでしたが,刀は違います.刀は武士にとっての命を守る大切な道具であると同時に,「たましい」でもあったために,特に質のよいものが求められたのです.

だって.相手と戦っている時に曲ったり折れちゃったら負けちゃうでしょ.相手にまけると言うことは確実に首をはね落とされるのですから「刀」は大切だということがわかりますね.ゲンボー先生(2001.6.8)

関連するページ「かんな流し本場址」

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滑川について

きのうの鎌倉見学で滑川を通りました。家に帰って見学の手引きを読み直していたら、「見学のポイント」の、滑川のところに,「船でいろいろなものを運ぶこともできたらしい。」と書いてありました。例えば、どんなものを運んでいたのですか。教えて下さい。渋谷(2001.06.06)

君たちが見たように滑川は小さな川です,川底もそれほど深くありません・・ということは大きな船は入れなかったということになります.だいたい日本の川は川底が浅いために,船底も外国の船のように底がUやVの形ではなく平らでした.滑川を行き来していたのもそうした船です.

これは滑川よりはるかに大きい宇治川の様子を描いたものです.小さいですね.

では,海を渡ってものを運ぶ船はどんなだったのでしょう.

古い絵なので見にくいのですが,上の船よりはるかに大きいですね.これは瀬戸内海を行くお米を運ぶ船です.

何年か前,鎌倉時代の滑川の河口と思われるところから,太い柱が発掘で発見されました.これは海からやってきた大型船をつないでおく柱だと考えられています.当時鎌倉には沢山の人が住んでいて,食べるものや着るもの,それに陶器をはじめとする日用品が大量に運ばれていました.特に遠方から大量にものを輸送するのには船が多く使われていたのです.

滑川の河口まで運ばれたものの大部分は,そこで荷揚げされますが,あるものは小さな船にのせ変えて上流に運ばれたと思われます.また上流(といっても,川底が浅いので中流)からも「何か」が川を利用して運ばれたはずです.さあ,その「何か」ですがなんでしょう?記録がないのでこれ以上は分かりませんが,それは人が運ぶより船で運んだ方が便利なもののはずですね.皆で考えてみてください.ゲンボー先生(2001.6.8)目次にもどる


鎌倉時代の海上交通について

鎌倉時代に宋と貿易をしていたので、船が使われたと思います。主に宋から輸入されていた物は、茶わんなどの焼き物(日本よりはるかに良い焼き物があったので)、本、書き物、宋銭という貨幣(日本ではこのころ貨幣は作られていなかった)などです。

日本から輸出していた者は、絹、麻、綿などの布や生糸、水晶、めのう、漆、銀、銅、などでしょうか?宋だけでなく日本各地で(九州とか?)に商品を運んでいたという事もありますよね!?

6・萩  彩理(2001.6.12)

特に蝦夷地(現在の北海道)にも送っていたかと思います。その頃、北海道はアイヌ人が住んでましたから・・・・・

藤組 諒(2001.06.12)

彩理さん 諒君 ご返事をありがとう.昔の人の旅行やものを運ぶ運送というと,つい,陸上交通のことだけを考えてしまいがちですが,古代より日本は水上交通の発達した国でした.特に鎌倉時代になって関東に大きな町ができ,東北地方の人口が増えると,水上交通はますます発達しました.

以下に水上交通に関係する昔の資料を2〜3紹介します.

文治元年(1185年)3月.頼朝は兵船32そうを平氏と戦うために伊豆の国鯉名と妻良から「はけん」した.船にはお米も沢山つまれていた.

同年二月 駿河(するが=静岡)・上総(かずさ=千葉)のお米を海路で京都に送った.

文治3年8月20日

土佐の国(高知県)から弓100張りと魚や鳥の干物をのせた船が鎌倉についた.

下の地図を見てください.良く見ると分かるように,主に瀬戸内海と日本海側がおおいですね,これは当時西日本が東日本より人口も多く発達していたことをあらわしています.

これらの港には各地の荘園から集めた年貢としてのお米や,特産物がつまれたり,おろされたりしました.近江(滋賀県)は内陸なのになんで港があるかというと,大きな琵琶湖と淀川があったからです.また彩理さんや諒君が書いているように,博多や十三湊(とさみなと),隠岐は外国との貿易にも使われた国際港でした.

特に十三湊は最近になって発掘が進み,日本海側でも最大級の港だったことが分かりました.中国の製品も沢山出土しています.またアイヌとの交易も盛んに行われていました.アイヌの遺跡からも中国製品がずいぶん発見されています.

北海道からは昆布やシャケなどの干物が全国に運ばれたようです.「おぼろ昆布」は鎌倉時代に京都で作られたそうですが,元々は北海道産の昆布で作られました.

また,12世紀になるとものを運ぶ専用の廻船(かいせん)が活動しはじめました.中には船に乗って諸国を回る「鍛冶屋」(かじや=鉄製品を作る技術者)の集団もあらわれました.

このように鎌倉時代は,平安時代よりもさらに水上交通が発達したのです.鎌倉は大都市でしたから,それこそ日本中のものや,中国の珍しい品物が沢山はいってきたと思います.

ずいぶん沢山あるでしょう.本当はもっとあるのです.これらの港を線で結ぶと航路が分かりますね.

ゲンボー先生(2001.6.13)このやりとりは「鎌倉時代の勉強をしよう」にものせます.目次にもどる


鎌倉時代の道について

鎌倉見学の時に先生から「昔のメインドーロは、鶴岡八幡宮の所にはなく、この辺にあったんだよ!」とおっしゃってその横の長く伸びた道がそうだった、と教えてくれましたがどうして真ん中ではなくその横に作ったのですか?教えてください。後どうして切通しをもっとすくなくしたりしなかったのですか、そしたら逃げにくいという短所はあったけど、すごく守りやすかったのにどうしてですか?

藤組 真下(2001.06.12)

頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、鎌倉をとおるメイン道路は、2本ありました。1本は、極楽寺(ごくらくじ)から由比ガ浜にそって逗子(ずし)方面にいく浜の道(現在の311号線)です。

もう1本は、由比ガ浜から北におれて、小町大路(こまちおおじ)をぬけて大倉御所(おおくらごしょ)の前をとおり、六浦(むつうら)にいく六浦道(むつうらみち、現在の204号線・金沢街道)です。

頼朝のころは、小町大路がメイン・ストリートでした。小町大路には、比企(ひき)氏や北条(ほうじょう)氏の館(やかた・家)がありました。現在、比企氏の館のあとは妙本寺(みようほんじ)、北条氏の館のあとは宝戒寺(ほうかいじ)となっています。

日蓮(にちれん)が辻説法(つじせっぽう)をしたのも、この小町大路でした。辻説法とは、人がたくさん通るところで自分の教えをみんなに話すことですから、人通りが多かったのでしょう。

この小町大路と六浦道に平行して滑川(なめりかわ)が流れ、船がたくさんの荷物をはこんでいました。このようなことから、頼朝のころは小町大路がメイン道路だったことがわかります。

八幡宮から由比ガ浜にむかう若宮大路(わかみやおおじ)は、13世紀の初めになって鶴岡八幡宮が大きくなり、また御所が若宮大路に移ってきてから、鎌倉のメインストリートになりました。でも、若宮大路は京都の朱雀大路(すざくおおじ)とおなじような「特別な道」で、だれでもが気楽に通れる道路ではありませんでした。

さらに、鎌倉の人口がふえて、今の鎌倉市役所から寿福寺(じゅふくじ、政子と実朝の墓があります)をとおり、八幡宮にでる今小路が、もうひとつのメイン道路となっていきました。

鎌倉幕府から室町幕府になっても、鎌倉には関東地方をおさめる幕府の役所がおかれています。なぜ鎌倉に幕府がおかれたのか。そのころの交通路も考えてみましょう。

ゲンボー先生(2001.06.14)

鎌倉街道と航路(中期〜後期)

 

緑色が主な街道でが船の航路です.

頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、鎌倉をとおる道は2本あったことを説明しましたね。

この道の鎌倉への出入り口は、はじめのころは極楽寺切通、名越(なごえ)切通、朝比奈(あさひな)切通の3か所しかありませんでした。

その後は、北条氏の領地だった山内の荘と鎌倉を結ぶ巨福呂坂(こぶくろざか)をつくったぐらいで、鎌倉を守るためにたくさんの切通はつくらないようにしています。大仏坂切通や釈迦堂(しゃかどう)切通,化粧坂(けわいざか)などがつくられたのは、もっと後のことです。

そうすると、巨福呂坂を入れても鎌倉への出入り口は4か所しかありません。

新田義貞の軍は、極楽寺切通から鎌倉をせめています。それが成功しなかったので、引き潮のとき、稲村ガ崎から海岸ぞいに鎌倉をせめて、やっと勝ったのです。

ですから、4つの出入り口を少ないとみるか、多いとみるのか、君たちはどう思いますか?考えてみてください。

ゲンボー先生(2001.06.14)目次にもどる


幕府の仕組みについて

こんにちは!またおくってしまいました。聞きたい事があります!それは、鎌倉幕府の政治のしくみの事をおしえて下さい!

小学部 萩組 祐子(2001.06.18)

鎌倉幕府の仕組みの前に,いちばん基本的な将軍と御家人(ごけにん=将軍の家来になった武士)の関係をもう一度おさらいしましょう.

将軍と御家人は「御恩」と「奉公」の関係で結ばれています.奉公とは将軍の命令にしたがって戦争で敵と戦うことと.鎌倉や京都にいって「役人」としてはたらくこと.守護(しゅご)や地頭(地頭)※あとで説明します.としてはたらくことでした.

御恩とは,御家人の持っている領地を認めることと,戦のはたらきぶりによって新しい領地をあげることなのです.

武士にとって領地はとても大切なものでした.日本では明治時代より前は,お米が経済の基本でした.

お米をお金にかえて生活していたからです.鎌倉時代の武士は自分の領地に自分の畑や田んぼを持っていて,家族や使用人を使ってたがやしていました.

また領地内の農民を支配してそこから税をとっていました.

その収入で家を建てかえたり,服を買ったり,武器や馬を買ったりしました.食べ物以外のほとんどがその収入で得ていましたから,領地を・・(というより農地)をとても大切にしていたんです.このことは分かりますね?

ですから鎌倉時代の武士は自分の領地のことを「一所懸命の地」とよびました.一生懸命の語源はここにあります.

ところが,幕府ができる前の関東地方は,新しい開拓地だったために領地の境界線もはっきりせず,となりとの争いがたえませんでした.また,京都からやってくる役人は,自分がもうけようとして,高い税をとったり,ちょっと弱い豪族だとみると,その領地をうばったりしたのです.

 

こうしたことがよくあったために,農民が刀を持って自分達を守ろうとしたのです.これが武士の始まりですね.

 

特に関東地方の豪族(ごうぞく=有力な農民=武士) はほとんどすべてが武士団を作り,自分達の領地を守っていました.

そこへ,頼朝さんがあらわれて「あなたの持っている領地の境界をはっきりさせて,持ち主を明確にしましょう」「いざこざがおきたらさいばんで公平に決めましょう」「あなたの領地がうばわれそうになったら,幕府が助けましょう」「敵と戦って頑張ったら新しい領地をあげましょう」とやったわけですから,我も我もと将軍との主従関係を結び御家人となったのもわかりますね.

※領地を認めることを「本領安堵」(ほんりょうあんど)

※新しい土地をあげることを「新恩給与」(しんおんきゅうよ)といいます.

国地頭が守護のことです.仕組みについてもっとくわしく知りたい人は,ここをクリックしてください.

ここでもっとも大切なことをはなします.「鎌倉幕府」ということばは鎌倉時代にはなかったということです.それは江戸時代の学者が,この時代のことや鎌倉の武士政権(ぶしせいけん=武士の政府)をよぶ時に都合上つけた名前なのです.鎌倉時代の武士は自分達の政権を「幕府」とよんではいなかったのです.※頼朝の頃に幕府といえば,それは将軍の住む館のことでした.

では僕らが「鎌倉幕府」とよんでいるものはいったいなんなの??ということになりますが,それはこれから説明する仕組みの説明のあとに話しましょうね.

さて,頼朝さんがはじめに作った役所は「公文所」(くもんじょ)と「侍所」(さむらいどころ)です.公文所は領地から入る収入と,戦争にかかる出費,それに建築にかかる費用など経済にかんすることをまとめる役所でした.はじめのころは源頼朝という個人の役所という性格が強かったようです.

後に「政所」(まんどころ)よび名をかえて,幕府全体のお金に関係する仕事をしました.

「侍所」は御家人を統率(とうそつ=まとめること)して戦にそなえたり,戦の時に指令を出す役所です.はじめのころは木曽義仲や平家の軍隊と戦うなど,常に戦争状態でしたから,とても大きな役割を持っていました.

やがて,問注所ができました.ここは主に御家人どうしの争いをあつかう裁判所でした.さっきも書いたように武士は一所懸命の地である領地をとても大切にしていましたから,公平な裁判をしてほしかったのです.それまでそういう役所はなかったのですから,武士にとっては非常に大切な役所といえますね・・・

頼朝さんはどんな「ささいな争い」でも必ずお互いの話をよく聞いてから公平な判断をくだしたと記録に残っています.ですから,御家人は頼朝さんのことを「鎌倉殿」(かまくらどの)とよび,尊敬しながらもしたっていたのです.

それ以後,将軍のことを鎌倉殿とよびますが,息子の頼家は御家人どうしの領地争いなどには無関心で,あるときなど「面倒くさい」といって,領地の書いてある地図の真ん中に線をひいて「これで文句いうな」とやったそうです.これではとても公平とは言えませんね.そこにいた人達はあまりのことにあきれはてたと記録に書いてあります.

弟の実朝も和歌を作るのには興味がありましたが,政治には全くといってよいほど関心がありませんでした.頼朝が死んだあと,二人の将軍が早くに殺されてしまうのもこうしたことに原因があるといわれています.

さて,役所とならんで大切な仕組み・・というか御家人の役割に「守護」「地頭」があります.

守護は国(今でいう県単位)ごとに一人が決められて,その国全体の警察の仕事をしました.地頭は守護の下にあって,領地内の警察の仕事をしました.警察の仕事といってもそれは表向きで,実際には幕府に反対する者を見張ったり,御家人以外の領地の地頭になって土地を奪ったり,税をとったりしました.

つまり,幕府という大きな武士団の力をバックに,幕府側ではない人の領地を奪っていったというわけです.こうした地頭は関東にはなく(必要もなかった),朝廷の力が残っている近畿地方や西日本の荘園(しょうえん=貴族に税をおさめる領地)や国衙領(こくがりょう=朝廷に税をおさめる領地)にはいちされました.

こうして関東地方の武士達は強力な軍事力(ぐんじりょく=軍隊の力)で,じわり,じわり,と西日本にも支配地を広げていったのです.

さて,こうしてみると私達が「幕府」とよんでいる「そしき」の性格がわかりますね.島田さんはこの説明をよんで,鎌倉幕府ってどんなものだと思いましたか?

また,他の人はどう思いますか?意見をください.ゲンボー先生(2001.06.18)目次にもどる


なぜ鎌倉に幕府を開いたの?

社会の時間に本を見ながら「なぜ鎌倉に幕府をひらいたか」というのを調べたんですが、僕はあまり社会に詳しくないので本にかいてある「なぜ鎌倉に幕府をひらいたか」についての理由が少し難しかったので、だれかもう少しかんたんな説明を教えて下さい。6年藤組 貴士 (2001.06.18)

具体的に、どの記述のどの部分がわからないのかを明らかにしないと、答えるのが難しいです。それを書いて下さい。

渡瀬先生(2001.06.19)

「鎌倉は東国と京都をむすぶ交通上、重要な土地だったから」についてなんで重要だったのかです。あと、本に書いてあった「平氏の失敗」という言葉がのっていたんですが、平氏の失敗とはなんですか?「関東には源氏とのつながりの深い武士が多かった」という文章がのっていたんですが、なぜ関東に多かったのかと疑問に思いました。これらの事について教えて下さい。6年藤組 貴士 (2001.06.19)

「鎌倉は東国と京都をむすぶ交通上、重要な土地だったから」→外国(宋や高麗)から来た品が、それをもった商人が東海道を通って珍品が鎌倉に入って来た。「平氏の失敗」→京都の美しさに見とれて、武士から貴族化してしまう(藤原氏は別)

「関東には源氏とのつながりの深い武士が多かった」→頼朝の先祖、義家(八幡太郎)が東北の清原氏を滅ぼした時、源氏だけでなく、源氏の家臣(家来)も同じ関東に領地を貰った。藤組 諒(2001.06.19)

諒君、どうもありがとう。貴士君、これでわかりましたか。平氏は藤原氏とかわらないような貴族的な生活をしましたよね。そのために力が弱まったことを失敗と言っているのでしょう。

 また、京都への交通路を確保しておかなければならなかったのはなぜでしょう。それを考えると、京都から距離をおきながら、でも何かあった時にすぐに京都へ出られるような場所である必要があったのだと思います。渡瀬先生(2001.06.19)

もうひとつ.頼朝のお父さんである義朝(よしとも)が関係した戦争(保元の乱/平時の乱)のときに,義朝の家来として戦争に参加した武士が多かったのです.相模(さがみ=神奈川県)最大の豪族「三浦氏」も上総(上総=千葉県)最大の豪族「上総氏」もそうした豪族です.面白いことに北条氏も含めてそうした関東の有力豪族のほとんどは「平氏」の親せきだったのですよ.

関東地方の多くの豪族達は,平氏とか源氏とかに関係なく頼朝さんを支持したのです.それは,なぜでしょう?ゲンボー先生(2001.06.22)

諒君ありがとうございました.1番の問題に役立てようとおもいます。 6年藤組 貴士 (2001.06.19)

平氏は武士でありながら,それまでの藤原氏と同じように娘を天皇の后(きさき=奥さん)にして,うまれた子供を天皇にしました,この子供は安徳天皇といい,わずか二歳で天皇になりました.二歳の天皇が政治を行うことなんかできっこありません.では誰が政治を行ったのでしょう・・・・・そうです,平清盛(たいらのきよもり)です.清盛のこうしたやり方は藤原氏の摂関政治(せっかんせいじ)とまったくかわりません.つまり平家は朝廷の中で,貴族とかわらない政治を行おうとしたのです.

萩組 祐子さんの質問の答えにある「幕府の仕組み」を読めば分かるように,頼朝は「関東の武士団」をまとめて鎌倉に幕府を開きました.つまり,出発からして大きくちがっているのです.頼朝の幕府は,それまで不安定だった関東の武士の生活を安定させるという仕組みでしたね.

ここで,考えてください.

1.平氏は他の武士の生活が良くなることを考えていたでしょうか?

2.頼朝が京都に幕府を開いたら関東の武士にとってプラスになるかマイナスになるか?です.

ゲンボー先生(2001.06.21)目次にもどる


武器や戦争のしかたについて

戦いの時に、互いにどのような武器を使いどのような鎧兜を付けて戦をしたんですか?。教えて下さい。お願いします.kenya(2001.06.24)

武器やよろいを調べると「戦争のやりかた」がわかります.戦争のやり方がわかると武士と将軍との関係がわかるのです・・・では・・・

これが,戦争する時の姿と武器です.「よろい」は手足や胴体を守るものです.「かぶと」は頭を守ります.外から見ると布やヒモでできているように見えますが,大切な部分は鹿の皮や鉄で作られています.「はでな色」をしているのは,自分のはたらきが目立つからです.それは良く働いた者ほど恩賞がもらえたからです.恩賞とは敵からうばった領地のことです.

武器の一番は「弓矢」です.鎌倉時代の武士がはげむこととしての第一を「弓馬の道」(きゅうばのみち)といいました.馬を自由自在に乗りこなすことと,弓がうまくなることです.いまでも「流鏑馬」(やぶさめ)といって,馬にのりながら次々に的をうっていく行事が各地の残っています.(テレビで見たことがあるでしょう?)できるだけ早く矢をつがえて,正確に的に当てていくことが大切なのです.これがちゃんとできないと戦争で「死ぬ」ことになります.

武器の第二番目は「太刀」(たち)です.鎌倉時代の刀は戦国時代や江戸時代の刀とちがって,細身でそっています.これは馬にのりながら片手で相手を刺し殺すための形なのです.

馬から降りて戦う時にはまず,太刀で切りあいますが,最後は相撲のように相手をたおして組み伏せて「よろいどおし」(腰刀=「こしがたな」ともいいます)で相手の首を切ったり心臓をさして殺します.

相手を殺したら必ず「首」を切り落とします.その首が証拠になるからです.もちろん戦う前に互いに名乗っていますから相手の名前も知っているわけですね.敵のくらいが高ければ高いほど恩賞も良かったのです.

さて,家来は何を持っていたかといいますと「なぎなた」でした.なぎなたで馬を切ったり馬にのっている武士を落としました.そのあとは主人どうしの一騎討ちです.鎌倉時代の武士は位が高ければ高いほど一対一で戦いました.その間家来達は応援したのです.・・・おもしろいでしょう・・日本の武士が集団で戦うようになったのは戦国時代になってからのことなんです.

馬にのっているのが位の高い武士,けらいは「なぎなた」を持っています.しかも「はだし」です.

では,最後に弓矢のいりょく(いりょく)を見せましょう!

 

バケツや杉板3枚は,ほら,このとおり・・・・軽く貫通します.

 

フライパンや厚さ1ミリの鉄板だとやじりの先が出る程度・・よろいとおなじです.


元軍はなぜ戦いの時に「どら」や「かね」を鳴らしたのですか?

質問です。元との、戦いについてです。元軍は、どら、や、太鼓を、ならしながら、大勢でせめると、資料に書いてありましたが、なぜ、『どらや、太鼓を、ならしながら、せめるのを、得意とするのですか?私は、太鼓とかの音で、自分達を、(元軍)勇気ずけて、いるのかな、と、おもいました。他にも、理由は、あるのですか?みちこ(2001.06.26)

面白い質問ですね.よくそのことに気がつきましたね・・これは,日本の武士の戦いかたと元軍の闘いかたの差からくるものなのです.日本軍は司令官はいても「あっち」「こっち」くらいの指示は出しますが細かいことはいいません.戦いはあくまでも御家人一人一人が家来をつれて行いました.常に一騎討ちなのです.

ところが元軍は集団戦法です,「あっちから攻めてきたから,こっちへ回れ」とか「右」「左」「退却」と,細かい指示を出していました.しかし,戦いの最中では声が届きませんね.そこで「どら」や「かね」を使ったのです.

元軍との戦いのはじめ,日本の武士は「やあやあ,我こそは〜」と名乗りをあげました.その間にうたれた武士が相当いるのです.ふつう戦いの前に行う「鏑矢」(かぶらや=音の出る矢.ブーンと音がする)の儀式も元軍の笑いの種でした.日本では鏑矢をうって互いに矢の届くところまで寄ってから,「矢あわせ」(矢を互いにうち合う)を行いました.その後,騎馬がつっこんで,互いに名乗りあいながら一騎討ちをするのです.

なぜでしょうか?どうしてそんな「のんき」な戦いかたをしたのでしょう?これってじつは大切なことなんです.

ゲンボー先生(2001.06.26)


誰かご返事ください

質問です。「ハイトップ小学6年社会」の96ページに、「武士に消費生活をおくらせないで、兵農一致させるためわざとせまい鎌倉をえらびました。」と書いてあります。消費生活をおくらせないため、農業をさせるのはわかるけど、なんで、せまい鎌倉をえらんだのですか?おしえてください。玉川学園小学部 芙蓉 愛(2001.06.13)

鎌倉時代の後半になるとそれまで自給自足(じきゅうじそく=自分達で使うもの(食べるものも)は自分達でつくること)だった多くの武士達が「おかね」でものを買うようになりました.これが消費生活ということですね.農地から得られる収入は決まっているのにお金お使うことが多くなれば,とうぜん生活が苦しくなります.そのうえ多くの武士が子供達に領地を分け与えたために,一家族あたりの収入がさらに減ってしまい,借金に苦しむ武士もたくさん出てきました.これは幕府にとって大変なことです.なぜなら幕府を支えていたのが御家人だったからです.

しかし!これは鎌倉時代の後半で経済が発達してからの話です.頼朝が鎌倉に幕府を開いたころは(武士=農民)だったのです.農民といっても御家人になる人達は広い領地を持った豪族です.豪族は自分の領地内に屋敷(館=たち,といいます)をつくり,自らの農地を使用人を使って耕していました.(御家人=豪族=武士=農民)というわけですね.ですからわざわざ鎌倉に住む武士はいませんでしたし,その必要もなかったわけです.鎌倉に住んでいた御家人は,北条氏や三浦氏,和田氏,比企氏といった直接政治を行う有力な御家人だけです.こうした有力御家人だって,それぞれ自分の領地があってそこに本来の家があったのです.ですから「武士に消費生活をおくらせないで、兵農一致させるためわざとせまい鎌倉をえらびました。」というのは結果としてそうはなっても,理由にはならないと思います.皆さんはどう思いますか?

また「せまい」というのは理由になるでしょうか?なぜなら,三方が山,一方が海,しかも「せまい」というところは日本中にたくさんあるからです.なぜ鎌倉でなくてはならなかったのかを考えることが大切だと思います.

鎌倉は御先祖様の八幡太郎義家から頼朝の父親である義朝まで代々源氏の土地でした.頼朝は関東の武士の支持をえて,鎌倉に幕府をつくったわけで,なぜ関東の武士が頼朝を支持したのかは「幕府の仕組み」をよんでください.ゲンボー先生(2001.06.22)

こんにちは、はじめまして私の名前は、祐子です。

私達は今、(なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか)の事を調べています。それで、一つ気になった事があります。質問です!鎌倉の地形は、狭いから攻めれても、もうすぐにお終まい(だから攻められにくい、守りやすい)という事はほんとうですか?教えて下さい! 

6年萩組 祐子(2001.06.14)

祐子さんへ.愛さんに書いたのと同じですからあなたもこのことを考えてみてください・・・ゲンボー先生(2001.06.22)

はじめまして。小学部6年萩組の由佳です。

鎌倉の事についての質問ですが私は今、社会の時間『ハイトップ小学6年生』という参考書で「源頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたか」という事を調べています。その条件の中に頼朝は地形が良く狭い土地を選んだと書いてありました。どうして頼朝は広い土地ではなく狭い土地を選んだのかが疑問です。

私なら多分もっと広い土地を選ぶと思います。なぜなら戦で成功した御家人などに土地を与えたりすればもっと家来は、働いてくれると思ったからです。答を書いていただけると幸いです宜しくお願いします。(2001.06.14)

由佳さんへ.祐子さん,愛さんと同じですから,あなたも愛さんのところをよんで考えてみてください.

もう一つ.広い土地を選ぶといっても「どこ」にすればいいでしょうか?

考えてみてください.新しい(土地=農地)をもらう時はどんな時でしたか?その土地は元々は誰のものでしたか?

ゲンボー先生(2001.06.22)

頼朝は、なぜ三方が山一方が海の鎌倉に幕府をつくったのでしょうか?北海道や東北などは鎌倉より朝廷から離れてもいたしまた土地条件も良いところであったのでそっちの方で作った方が良かったのではなかったのでしょうか。やはり文化などが問題でしょうか?それでも鉄などは運べば良いのではないのでしょうか?

玉川学園小学部 芙蓉  健(200106.14)

愛さん.祐子さん.由佳さんの質問と関係していますね,まず愛さんへの説明をよんで君も考えてください.また鎌倉以外のところへなぜ幕府を作らなかったのか?ということで考えてみてくださいゲンボー先生(2001.06.22)

健君の質問に対してですが、北海道などは冬とても寒いので、米が育たなかったのではないとおもいます。それにかえ鎌倉は、気温も穏やかで、米がよく育ったし、頼朝のお父さんや、弟が住んでいたので、鎌倉に幕府を開いたのではないでしょうか?藤組 真下

鎌倉には鶴岡八幡宮をはじめとして,幕府や問注所といった役所,それに北条氏や三浦氏,比企氏や和田氏といった有力な御家人の建物がいっぱい建っていました.当時のメインストリートである小町大路にはそうした豪族の館や商店がならんでいました.

鎌倉時代の鎌倉には最大で24万人が住んでいたと考えられています.今の鎌倉市の人口は全体で約16万7千人,鎌倉の町だけでは45534人(今日現在)しか住んでいません.つまり,現在よりも6〜7倍も沢山の人が住み,家がたくさん建っていたというわけです.そんな鎌倉に田んぼがあったでしょうか?お米を作っていたでしょうか?考えてみてください.ゲンボー先生(2001.06.22)

僕の想像では、鎌倉には水田などはなかったと思います。米なら全国の御家人から集められると思います。6−藤  諒(2001.06.24)

諒君 意見をありがとう.では御家人からどのくらいお米をあつめたのでしょうか?また,頼朝さん家族の収入はどこから得ていたのでしょうか?調べられますか?これが分かると「鎌倉幕府の仕組みの基本」がわっかちゃうのです・・・・皆さんも調べて分かったらメールをください.ゲンボー先生(2001.06.25)

 質問ですが、源氏はなぜ三代だけで滅んでしまったのでしょうか?参考書では基本的な事 しか載っていませんでした。でも私はもっとほかに理由があると思います。他の理由があれば教えて下さい.六年萩組の由佳(2001.06.25)

 

 

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