大江広元(おおえのひろもと)の供養塔

大江広元は頼朝にとって無くてはならない人でした。もともとは京都にいた下級の貴族で役人をしていました。しかし頭の良い人で、幕府の仕組みを考えたり、朝廷をうまく利用したり、守護や地頭を全国に配することを考えたりしました。頼朝の行った政治のかなりの部分が広元のアイデアといわれています。そのお墓は「頼朝の墓」がある、白旗神社(しらはたじんじゃ)付近からすぐそばにあります。階段を上ると平らなところに出ますが、多分ここに本来の広元のお墓であったお堂があったものと思われます。

言われている広元の供養塔(五輪塔)はそこから更に上の階段を上っていきますが、左側の二つが大江氏の供養塔、二つあるうちの右側、つまり階段を上りきった正面が大江広元の五輪塔になります。左側は大江広元の子孫である毛利季光のもの、石の垣根の右の五輪塔は薩摩藩の島津忠久ものです。頼朝の墓と同じように幕末に薩摩藩が作ったものと言われています。

この場所で興味があるのは鳥居の近くにある「三浦一族のやぐら」です。三浦氏一族は北条氏との権力争いにやぶれ、最後は頼朝の法華堂に立てこもって自害したと言われています。そのとき、およそ500人と言われています。1247年のことで宝治合戦(ほうちがっせん)といいます。