お堂の見える風景

 

  

通りのむこうに「お堂」が見えます(左) お堂は町の人の心のよりどころでした(右)

  

お堂の中には「じぞうぼさつ」がまつられていました(左) お堂の脇には,亡くなった人を供養する五輪塔(ごりんとう)と宝筺印塔(ほうきょういんとう)もありました.(右)

  

木で作られた卒塔婆(そとうば)と宝筺印塔.死者を思う気持ちは今も昔も変わりません.

さて,このお堂は建てられてから30年後に風雨でいたんだために,番匠(ばんしょう)と呼ばれた大工さんや屋根葺き(やねふき=屋根を作る職人)によって作りなおされたことが分かっています.下は番匠の仕事場ととなりの「うり畑」す.

 

  

番匠の仕事場,「ちょうな」や「槍がんな」(やりがんな=今のかんな)が置いてあります(左) 当時の人が好んだマクワウリと,入れ物に加工したヒョウタンを作っています.

では,草戸千軒の全体を見てみましょう.

千軒と言われるくらい,草戸千軒は大きな町でした.人の良く集まる街道沿いや船着き場の周りには商店や作業場がありました.ちょっと離れたところには農家や畑がありました.中世の町はこのように周りが開けてしかも交通の便の良いところに発達したのです.特に中国地方は日本最大の都市「京都」と産業や商業の発達した北九州を結ぶ重要な地域で,陸上交通や海上交通がもっとも発達した地域でもあったのです.草戸千軒はそうした町のひとつでした.


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 制作・著作 玉川学園 多賀譲治