元寇「文永・弘安の役」

   CG.「時のふし穴・鯉塚氏提供」   玉川大学・玉川学園
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これは元が九州に攻めてきたときの絵です.元は現在のモンゴルですから,海はありませんでした.では,なぜこんな船で日本まできたのでしょうか?

それは,当時元が支配していた南宋(なんそう:中国)に命じて作らせたからです.元は弘安の役ではこのような船を4400隻も作り,14万人の兵隊を送ってきました.下の絵を見てください.対する日本軍は小さな船で元軍と戦い,そして勝ちました.

元はなぜ日本を攻めたのでしょうか?どうして,日本は勝つことができたのでしょうか?

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(竹崎季長絵詞より)

左の絵は文永の役の時に描かれたものです.左側にいる元軍は持ちやすく威力の強い短弓(たんきゅう)で右側の日本の武士を攻撃しています.良くみると大砲の弾のようなものが爆発していますが,当時の記録をみると「てっはう」(鉄砲)と呼ばれる爆弾でした.この絵にも確かに「てっはう」と書いてあります.

鎌倉武士たちは生まれてはじめて見る「てっはう」にびっくりしました.馬も驚いて戦いが思うようにいかなかったと記録に残っています.ちなみに,右端の人は「竹崎季長」(たけざきすえなが)という人で,このとき左胸と左膝(ひざ)を弓で撃たれ怪我をしたと書かれています.

この絵のように元軍は集団戦法で,対する日本側は一騎討ちと,武器や戦法の上ではるかに劣っていたのです.

 

文永の役では,はっきり言って日本軍は惨敗でした.しかし,次の理由で勝ちました.

1.昼間の戦いは絶対に日本軍の負け.ところが夜になると元軍は船に戻って寝ていた.ここをゲリラ戦で夜襲をかけて相手を悩ませた.

2.元軍は海を越えてきたので,食糧や武器あるいは補充の兵隊などの補給に不安があった.

3.元軍といってもその大半は朝鮮の人や中国の人で無理やり連れて来られた人が多かったため,士気(しき=やる気)が元軍本体より低かった.

4.日本軍を甘く見ていた.武士は手柄をたてて恩賞をもらうために必死になって戦いました.一対一になると絶対に日本の武士の方が強かったといわれています.

5.何といってもこれ!一夜にして元軍がいなくなった.これには二つの説があります.一つは「季節はずれの嵐がおきた」そして船の多くが沈没してしまった.もう一つは「おどしのつもりできた元軍は,目的を達したので帰った」.さてどちらでしょう?

(「嵐」に関しての福岡市在住 yasuyukiさんからのメールを紹介します.)

(元寇が起こったのは,今の暦でいえば,一方が台風シーズン,もう一方が11月にあたるはずです.実際福岡に住んでおりますが,11月ごろ台風並の低気圧が発生し,秋の嵐ともいうものが起こります.2度の暴風雨が元軍を退けたことは確実ではないかと思います.)

(参考)

文永の役(文永11年10月05日)西暦1274年11月04日

弘安の役(弘安04年07月01日)西暦1281年08月16日

下にyasuyukiさんが新聞から調べた11月の天気に関する表を示します.確かにこの時期の北九州には低気圧が多く発生し,海が荒れることがわかります.文永の役ではこの嵐で元軍が大打撃を受けたものと思われます.yasuyukiさん,有難うございます.

1999年/2000年11月の福岡地方の天気

1999年の11月1日は,996hpの低気圧が東に遠ざかり,雨,雷を伴うとの記事.

2日は北よりの風強いとの記事あり.12日には1008hpの低気圧が対馬付近を通過,午前中まで雨.

16日は,曇りで北よりの風強く,海上は波が高いとの記事.

26,27日には,季節風強く,しぐれる.海上は波が高いとの記事.

29日も海上は波が高いとの記事.

2000年の11月1日は,台風20号の影響で雨,雷雨を伴い1時間に30mm以上.気圧は1016hp.気象災害に注意との警告が出されています.これは,2日には温帯低気圧に変わっています.

11日,15日,17〜19日は海上は波が高いとの記事.

15日夜は,雨で雷を伴い,低気圧の動きは速いとの記事.

弘安の役ではだいぶ様子が違いました.日本軍も十分に準備ができたからです.

1.北九州の海岸線に防塁(ぼうるい)を築いた.

防塁(石垣)の前を馬で進む武者(竹崎季長ご本人)と防塁の上に並ぶ武士達.「竹崎季長絵詞」より

2.集団戦法に対する戦い方がうまくなった.防塁の構築もあって元軍の上陸を許さなかった.

3.そして決めうちはやはりこれ!「嵐がおきた」です.たぶん大きな台風でしょう.

東路軍=4万人/江南軍=10万人,合わせて14万人の元軍で,生き残って帰れた兵の数は3万数千人足らずといわれています.日本の武士達は溺れているもの,既に死んで浜辺に打ち上げられているものの「首」を切り落としまくった,と言われています.それはもちろん「恩賞」を貰うためでした.しかし,前にも述べたように「恩賞」は貰えませんでした.それにしても,遠く異国の地で首をはねられて死んだ元軍もあわれでしたね・・・今も「元軍兵士の首塚」が北九州にあります.

文永の役/弘安の役で吹いた嵐のことを人々は「神風」(かみかぜ)と呼びました.以後日本人には『日本は神国』という考え方が生まれ,困ったときには必ず『神風』が吹くと思われるようになりました.

第2次世界大戦の終わりごろ,アメリカ軍と戦って負けそうになっていた日本軍が,国民に対して「必ず神風が吹く」などと宣伝したのも,鎌倉時代に2度も元の軍隊を打ち破ることのできた最大の原因である,この幸運の嵐が吹いたことからきているのです.


CG.「時のふし穴・鯉塚氏提供」

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制作・著作 玉川学園 多賀譲治