鎌倉幕府の置いた三機構についての考察

 白梅学園高等学校 2年生 香緒理

目次

幕府の支配機構  初代の長官  三機構の役割 

執事の地位  頼朝の真意  三機構の権力

はじめに

「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで知られる、鎌倉幕府。その成立年についてはさまざまな論議がある一方で、そのほかのことについては忘れられやすい。特に、成立当初の鎌倉幕府の仕組みについては、比較的知られている「元寇」などに比べて取り上げられることも少ない。当初の鎌倉幕府は将軍源頼朝の下に、三つの機構を置いている。その三つの機構とは、侍所・公文所(のち、政所)・問注所の三つである。これらについては後で詳しく見ていくが、大まかに言えば、侍を統率する部署、財務や政治をつかさどる部署、訴訟問題について担当する部署を作ったのだ。この時代は土地が何よりも大事で、ある一つの場所、否、土地を認めてもらうために命を懸けて戦うことから、「一所懸命」の語源ともなっているほどだ。故に、土地についての訴訟が絶えないため裁判所の役割をもつ機関が必要だった。そのため、後には土地訴訟専門の部署がおかれるようにもなった。

鎌倉幕府の支配領域は、日本全国には及ばない。西国では朝廷が権威を握っていることもあり、幕府の支配領域は関東を主としている。しかし、日本初の武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝らによって作られた、武家の、武家による、武家のための政治組織なのだ。

幕府の支配機構

 その鎌倉幕府の当初の組織を、教科書やそれに準ずるものでは以下のように書かれている。


 

幕府の支配機構は、簡素で事務的なものであった。鎌倉には中央機関として、御家人を組織し統制する侍所、一般政務や財政事務をつかさどる政所(はじめは公文所)裁判事務を担当する問注所などがおかれ、京都から招いた下級貴族を主とする側近たちが将軍頼朝を補佐した。(『詳説日本史B』 山川出版) 


また、次のような図で示されていることが多い。

 

 このようにしてみていくと、三機構の力量関係が並立で、三機構の役割がはっきりと分かれているので、その権限は等しいように思える。しかし、本当にそうなのだろうか。そう断言できないはずである。なぜなら、並立なのであれば、起こらないであろうことが起こっているからである。

 

 律令制では組織のトップを「長官(かみ)」と呼んでいた。ナンバー2に当たるものの名称は「次官(すけ)」である。当然、この三つの組織にも長官・次官に匹敵する役職が存在する。だが、「長官」「次官」とは言わず、別の名称を用いていた。侍所の長官を「別当(べっとう)」政所の長官も「別当」、問注所の長官のみを「執事」と呼び、次官については、侍所は「所司(しょし)」政所は「令(れい)」と呼んだ。これらを、出来た年代・初代長官を照らし合わせてみると、次の表のようになる。

 

 なお、侍所の別当は、次官にあたる「所司」(または侍所司(さむらいどころのつかさ)と呼ばれる)の中での最高位のものを指す。政所についても同じことが言える。したがって、次官は一人とは限らない。また、問注所の執事代は、臨時職である。

これらのことから見ていくと、同じ1184年に作られた政所と問注所の長官の名称が異なることが分かる。同時期に作られたのに長官の名称が異なることもおかしいのだが、並立の関係であるならば、全て同じ名称であるべきではないのだろうか。そこに三機構の関係の謎が隠されている。   目次に戻る

 

初代の長官

名称が違うことの要因の一つとして考えられるのが、初代長官の身分や立場である。まず、三人の初代長官の生い立ちや身分を見てみよう。

 まず、侍所の別当和田義盛。彼は三浦氏の一族であるが、所領の場所の名前から「和田」と名乗るようになった。幕府を開くまでの戦では活躍し、かねてからの念願どおり、侍所別当に採用された。頼朝の死後に起こった数々の乱を、北条氏とともに乱を治めてきたが、1213年に起こった建保の乱(和田合戦)で、北条氏により滅亡させられた。 

問注所の執事である三善康信。彼は、朝廷から「太政官の史」という訴論の問注に当たる官に任ぜられた経歴を持つ。つまり、太政官の書記官役を世襲する下級貴族であり、算道(算術)の家の出身である。母親は源頼朝の乳母の妹にあたる。当時の乳母は使えていた子供に対してとても大きな力を持っていたので、その縁から鎌倉に下り、頼朝を補佐するようになった。

そして、政所の別当である大江広元。大江氏は文章道を家学とする家柄の出である。最初は朝廷に仕える下級貴族の官人であった。しかし、頼朝からの要請で鎌倉に下り、鎌倉幕府のブレーンとなり、鎌倉幕府の創設に貢献した。広元はとても切れ者で、様々な献策をしている。有名なものとしては、各国の守護・地頭の配置がある。頼朝の死後は北条氏の専制体制確立に寄与した。このようなことから、鎌倉幕府は「大江幕府」と呼ばれることもある。

 先ほど引用した文中に『京都から招いた下級貴族』という言葉が出てきたが、表、および前述の通り大江広元と三善康信のことである。戦ならお任せの頼朝であっても、政治、京都にある朝廷に対してどのようにすればいいのか分からない。となれば、蛇の道は蛇、ということで、下級貴族言えども実務者である彼らを呼び寄せたのである。

 武士をまとめる侍所の長官を武士が、政治を担う政所・裁判を行う問注所の長官を貴族が担当する。一見、何の変哲もないように見える。しかし、二つの問題点が出てくる。一つ目は、「別当」というのは、もともとは、「本官のあるものが臨時に職に当たる」の意味であった。その点から見れば、三善康信が別当であるべきではないだろうか。そしてもう一つ、身分が違う和田義盛と大江広元が同じ名称の職についているのである。故に、身分によって長官の名称が違うということは出来ない。  目次に戻る

 

三機構の役割

 

次に、各組織のもつ役割をみてみよう。時がたつにつれ、各部署の持つ役割が変わっていくが、長官の名称がつけられた、設置された当初の役割を中心に見てみる。

 侍所は御家人召集にあたっての到着確認・軍陣における軍目付・随兵供奉の奉行行事の警備、罪人の収監などを行った。今で言う、警察の役割・戦時における軍令司令部であり、作戦を立てたり、御家人を派遣したりしていた。なお、十三世紀後半より、検断沙汰(刑事事件)の担当も侍所であった。「裁判=問注所」のように分かれていたわけではないのである。また、長官は「別当」であったが、和田合戦で和田義盛が滅んだ後、執権がかねたとされている。

 政所が、初め公文所と呼ばれていたことはすでに述べた。「政所」とは鎌倉幕府に始まったものではない。もともとは、皇族・従三位以上の公家の家政を担当する役職であり、それ以下の宅では「公文所」という名称を用いていた。そのため、当初は「公文所」だったが、頼朝が従三位以上の公卿に許される、政所開設の権利を獲得したことにより、「政所」と改名した。これにより、頼朝の統治機構が律令制に基づく公的性格を帯びるようになった。仕事内容は、幕府の政務・財政である。

これに対し、問注所は訴訟事務を所管する。もともと「問注」には、訴訟の当事者から審問した内容を文章記録する、の意味がある。当初、問注所は訴訟に対する裁判は行わずに、頼朝へ訴訟事案を進達することを仕事としていた。名前どおり働きをする機構だったのである。後に、東国の裁判を担当するようになったが、土地が重要視される時代ゆえに、時代がたつにつれて訴訟が多くなる上、判決が出るまでにかかる時間の短縮化が求められた。そこで、「引付」と呼ばれる土地訴訟にかかわる裁判を引き受ける部署が作られた。これにより、問注所では雑務沙汰(その他の民事訴訟)や、訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱う事務機関になった。その後、鎌倉での民事訴訟は政所が担当することとなり、問注所の果たす役割は、引付の設置とともに縮小されていった。

 このようにしてみると、政所と問注所はきっても切れない縁にある。当初は似たような点はないが、時代がたつにつれて、問注所の仕事内容が政所に移っているからだ。訴訟を扱う、という点から見れば侍所と問注所は共通点を持つ。だが、当初は裁判を扱っていなかった政所は、侍所とは共通点が無い。その上、この二つの機関の長官の名称は同じである。故に、侍所と政所での優越は無いといえる。

 以上のことから推測できることは政所・問注所はどちらかが上・下という関係におかれていたのではないか、ということである。つまり、長官の名称が、侍所と政所は「別当」であるので、その二つの力量関係が同じであり、問注所が両者の下、もしくは両者の上に立つ機関であると考えられるのである。では、上なのか、下なのか。そのポイントとなるのが「執事」という名称にある。   目次に戻る

 

「執事」の地位

 

「執事」という名称の位は、政所にも存在する。政所は

  

 と、役職を置いている。「令」とは、次官であり、仕事内容は文書の連判役である。初代令は二階堂行政が務めた。なお、政所執事は、二階堂氏が世襲するようになり、室町時代には伊勢氏へと引き継がれる。「執権」は、別当の中での責任者を指す。後の時代に北条氏が政所と侍所の別当をかねた「執権」となるのも、ここに由来する。

「案主」は文書作成、記録を担当する下級役人である。「知家事」も下級役人が務め、連署を担当していた。北条氏による執権政治が行われるようになり、三代執権北条泰時の時に、執権を補佐する「連署」という役職が置かれた。それは、幕府の公文文章に執権と並んで署名をしたことに由来する。この政所の知家事の行った「連署」も、読んで字の如く、「署名を連ねる」、つまり、政所の公文章に署名を連ねていた。また、その下に位置する「寄人」は雑用を担当していた。

問題の「執事」である。別当と令から選ばれる「執事」は問注所の執事と区別するために、「政所執事」とも言う。これは、別当・令の、合わせて二人から九人の中の一人の責任者のことであり、その責任者を「執事」と呼んだ。執事というのは秘書的な存在であるが、この政所執事は、政務にも関与し、会計を担当していた。その執事の代理・補佐として、執事代という役職もあった。

 政所にも「執事」があった。しかし、その「執事」というのは長官ではない。しかし、問注所の長官は「執事」である。同じ名称でありながらも、政所の「執事」の上には令・別当といった役職がある。そして、別当は長官であるので、どのように考えても「執事」は下、となる。故に、問注所が政所の上か下か、という点から見れば、当然、下に位置するといえる。

 しかし、注目すべき点がある。「政所執事」というのは、別当や令の中から選ばれ、別当の責任者は執権である。執権といえば、北条氏である。源氏の将軍亡き後、勢力を振るった北条氏は、執権の地位についていた。別当とは、北条氏が就いた「執権」という高い地位に着く可能性を秘めた役職なのである。それ故、執事と同じく別当からも選出される「政所執事」に就いていた人物の身分や家柄が低いとは考えられない。

 これらのことを踏まえると、問注所の「執事」というのは、名称から考えれば別当ほどの権力を持たなくとも、実際の立場が低いかというと、そうでもないという結論に達する。

 

以上の内容まとめると、次の図のようにあらわすことができる。

問注所の執事というのは、それなりに身分のある者が「長官」であるにもかかわらず、名称から見てみると、その権力等は、政所・侍所の長官より低い。しかし、前述のように、身分が低いわけではなかったのである。

 そうであるならば、当初の仕事が秘書的だからといって、問注所の長官を「執事」にする必要があったのだろうか。創設者である頼朝は、三機構をどのようにみていたのだろうか。  目次に戻る

 

頼朝の真意

 

先述のように、名称から見た問注所の執事の権力は低かったが、立場・身分は低くは無かった。では、何故頼朝は問注所の長官の名称を、わざわざ「執事」としたのであろうか。頼朝は、問注所を他の二つの機構とは違った扱いをしていたのだろうか。それを解明すべく、長官の権力ではなく、単純に、頼朝が置いた機構としての「問注所」として他の機構と比べてみよう。

 冒頭部で述べたように、鎌倉時代は土地が何よりも大切にされていた時代である。そのような時代に、「土地訴訟」を扱う機構の地位が低いのだろうか。

 先ほど触れたように、「引付」が出来た後、土地訴訟について扱わなくなった。引付は、1249年、五代執権北条時頼のときに、「評定衆」の下に置かれた。引付には、裁判の迅速と公正さを求めたため、有力御家人がその長官に任ぜられたが、次第に北条一族の若年者がその職に当たり、評定衆への出世への道への第一歩となっていった。評定衆は1225年、三代執権北条泰時により置かれた。当時、すでに源氏の将軍がいなかったため、北条氏が着々と権力を握りつつあった。そのため、幕府の最高機関として置かれた評定衆だったが、そのトップは代々北条氏が世襲した。

 さて、引付の置かれた以降のことであれば、問注所が下に位置しても仕方が無い。しかし、この問注所が置かれたのは、鎌倉時代の幕開けのころである。何よりも大切にしていた土地に関することを扱うからこそ、重く見られるべきではないのだろうか。また、問注所を設置した頼朝は、問注所を他の二つよりも下の機関として設置したのだろうか。

 頼朝が、「打倒平氏」と旗揚げしたのは1180年のことである。当時、力も何も無かった頼朝が旗揚げをし、見事に平氏を倒せたのは頼朝に人徳があり人が集まったからではない。当時、関東地方の武士たちは、やりたい放題の平氏政権に不満を抱いていたが、旗揚げするにいたらなかった。そこに、平氏に恨みを持つ、後胤源氏の頼朝がいたため、頼朝に従う、いう形で平氏に対抗した。いわば頼朝を利用した周りの御家人たちの力があったからこそ、成功したのである。

 それ故、頼朝は何よりも御家人を大切にした。御家人達は、頼朝に土地の保証を求め、頼朝自身も御家人の期待に沿おうと、御家人の土地を認める「本領安堵」、戦での働きぶりに応じて新たな土地を与える「新恩給与」を徹底した。それをしなければ、平氏政権のときと同じとみなされ、頼朝自身に矢が向くことになるからである。

 そういった意味から、頼朝にとっても、土地に関することは大きな問題だった。訴訟結果により、その一族の繁栄にかかわるため、御家人達の納得のいかない結果となれば、すぐに頼朝への批判や不満となる。そういった御家人が結束して、いつ頼朝にとって代わろうとするかも分からない。そのため、頼朝にとっては、土地にかかわることを全て自分で管理したほうが都合がよかった。裁判で下した結果を聞いた頼朝が、その判決の誤りを指摘したことがあることからも、御家人・土地問題を常に気にしていたことが伺える。また、頼朝の前で裁判が行われることもあったのである。。

 代表的な例を挙げてみよう。吾妻鏡にものっている、有名な話がある。 1187年に起こった出来事である。熊谷次郎直実は、不仲だった伯父の久下直光と、境界争いが続いていた。この熊谷直実は、かの石橋山の戦いで平氏方であったにもかかわらず、その後源頼朝側についたとして有名な人物である。その熊直実と直光、両者の口頭弁論が頼朝の御前で行われた。優れた武将であった直実だが、頼朝の質問に答えられず、自然と直実に質問が集中する。それに対して直実は怒り、「梶原景時が直光をひいきにしているので、自分の敗訴は決まっている。これ以上申し上げても無駄だ。」と怒鳴った。そして席を立ち、裁判の証拠書類を投げ捨てて、刀を抜いて髷を切り、逐電してしまった。これには、さすがの頼朝も呆気にとられたという。ただし、かの平家物語で描かれた直実の出家は嘘であるが、それとは別に、直実はこのときすでに出家していたということを物語る史料もある。しかし、ここでは関係ないので深くは触れないでおこう。

 他にも例は多くあるが、これらのことから分かるのは、問注所ができた後のことであるにもかかわらず、頼朝がいる場所で裁判が行われたということである。これは、頼朝が裁判を自分で執り行おうとしたことを意味している。前述の通り、「当初問注所は訴訟に対する裁判は行わずに、頼朝へ訴訟事案を進達することを仕事としていた」のである。そのようにして、土地訴訟は頼朝が取り仕切っていたのである。つまり、将軍である頼朝が直接力を振るえるような仕組みになっていた。実質的な問注所のトップは「長官」ではなく、「頼朝」になっていたのだ。

しかし、頼朝は「将軍」である。そのため、頼朝が問注所の「長官」につくことが出来ない。そこで、三善康信を問注所の長官に置き、その役職名を「執事」とした。当初の問注所が「頼朝へ訴訟事案を進達する」仕事をしていた、つまりは頼朝の秘書的な役割だっためである。問注所の長官だけ名称が違うのもそのためである。

 

 

 

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三機構の権力

 

頼朝は、問注所を自分で指揮をとるほど大切にしていた。執権政治に移った後も、幕府の最高機関直属に、引付が置かれた。土地は鎌倉幕府の原動力であり、土地訴訟を扱うということに、とても重きを置いていた。土地一つで、一族の生存が決まる時代である。力をつけてきて、反抗勢力となりうる御家人から領地を削ったり、恩賞を与える立場にある幕府の最高権力者は、御家人を統率するためにも、土地問題について、すぐに対応する必要があった。そのため、幕府の最高権力者が土地訴訟にかかわる問題を扱う部署のトップを務めたのも、当然といえる。そういった面から見れば、問注所というのは他の二つよりも上に位置する。しかし、実際には頼朝が権限を握っていたため、問注所の「長官」の役目は低かったのだ。

 現在、「幕府」に近いニュアンスを持つ語句は、「政府」だろう。政府といえば、政治機構のことである。ならば、頼朝は政治を行う政所を重要視していたのではないか、という見方も出来る。確かに、政治をないがしろにすることは出来ない。政治そのものも大切だが、朝廷とのかかわり方も大切である。だからこそ、京から貴族出身の大江広元を呼び寄せたのである。そして、彼は幕府のブレーンとして働いた。鎌倉幕府の別称が「大江幕府」であることが、それを示している。もし、問注所のように、頼朝自身が実質上トップとして権威を振るっていたのであれば、そのようなことは起こらないのではないだろうか。むしろ、頼朝が政治で実質上トップであったなら、政所の執事こそ、秘書である「執事」の名称を用いるべきだったのではないだろうか。

 侍所については、頼朝が別当に一任していた、と見ることができる。それは、頼朝が戦下手であったためである。頼朝は、朝廷が弟の義経に官位を与え、それを義経が頼朝に無断で承諾したために怒ったとされている。しかし、中にはこれを「頼朝は戦下手だったから、戦に天才的な義経に嫉妬していた」と見る説もあるほどである。

 三人の初代長官を見ても、頼朝とかかわりの深い二人は「別当」の職に就いている。その点から見ると、頼朝が二人に各機構を任せても大丈夫であると確信していたのではないか、と思える。ともに戦を経験したり、乳母繋がりであったり、いわば「仲間内」で固めている。かかわりも持たない大江広元と扱いが違うのも納得できる。

 

以上のことを踏まえ、三機構の関係・仕事内容は、明確に分かれていない、ということが出来る。時代がたつにつれ、ある機構で果たしていた仕事内容が、他の機構へとうつる。特に、「裁判」は細かく分かれ、侍所・問注所・政所の全ての機構が行うようになる。その上、問注所は当初は実際に裁判を行っていなかった。前述のように、頼朝は問注所の実質上のトップであり、自身で裁判を執り行おうとしていたからである。頼朝は、問注所を軽視していたわけではなく、重要視していたがために、長官の名称を、他とは変えなければならなかったのである。

勿論、頼朝が最も重視していた問注所以外の二つ、政所と侍所にもそれぞれ果たすべき役割があり、欠くことは出来ない。幕府成立以前から付き合いもあり、出来る者であるからこそ、任せることも出来た。むしろ、この二つの機構の長官は、実質上の「長官」が頼朝ではないだけに、問注所の長官よりも、責任は大きかったはずだ。

 政所・侍所の長官は、頼朝の信頼できる部下であり、問注所の実質上の権力は、頼朝が握っていた。三機構が役割別に置かれた当初でも、その権力は頼朝、つまりは中央に集中しているのである。それは、当初の鎌倉幕府の諸機構のおかれた場所をみても分かることである。頼朝は、1180年に鎌倉の大蔵(大倉)の地に屋敷を構えた。そしてそこに、侍所・公文所・問注所を置いていたのである。1199年に、問注所は大勢の人が訪れ喧嘩になることもあり、その喧騒をきらった源頼家が問注所の場所を移してしまう。後に、北条氏により幕府の中心である将軍の館は宇都宮辻子(ずし)、若宮大路と鎌倉内でありながら、場所を移す。それにより、三機構との場所での関係は変わってしまうが、成立当初は二百メートル四方の土地の中に、頼朝の館である寝殿と、三機構がそろっていたのである。

 律令制においては、中央集権体制が一般的であった。鎌倉時代初期、貴族、つまりは古からの律令制を重んずる朝廷をモデルとして幕府の仕組みを整えていったために、鎌倉幕府は「中央集権体制」という、古代の律令制の伝統的気質を強く受け継いでいるのではないだろうか。    

                                       平成20年5月20日

 

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 この小論文は平成20年3月にきた一通のメールが切っ掛けとなり、都内の高校生とやり取りの上できあがったものである。彼女(香緒理さん)には以前に幕府の事についてお答えしたのだが、彼女はその後もそのことについて考えて、自分なりの考えを持つに至ったのである。当初、ホームページに載せることはまったく考えていなかったのだが、原稿の添削を何度かしていくうちに「高校生と言えども、ここまで深く追求することができるのだ・・」という思いから、同世代の人たちはもちろんのこと、若い人も、年長の方にも見ていただきたいと本人を説得して公開する運びとなった。通っている学校もそのことに理解をしていただき、バックアップもしていただけたと聞いている。私は香緒理さんには一度もお会いしたことはないが、多分ごく普通のお嬢さんにちがいない・・

 本人の能力はもちろんの事だが、ネット上のやりとりだけで、これだけのことができることを証明したよい例になると確信している。  

                                                       ゲンボー先生

鎌倉時代の勉強をしよう