弓馬の道   玉川学園・玉川大学      


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  鎌倉時代の武将が着ていた甲鎧(かっちゅう:よろい.かぶと)は見たとおりとても目立つ色をしていました.これは,その人の働きが遠くからでも良く分かるためなのです.じつはこの時代の甲冑は味方の目を意識して作られています.とにかく目立たなくてはならないのです.後の時代,特に戦国時代の甲鎧が色も地味で動きやすく,体を矢や刀から守る機能に徹していたのとは大きな違いですね.

では,なぜ鎌倉時代の甲鎧はこんなに目立つのでしょうか.それは,戦での働きによって新しい土地がもらえたからなのです.土地がもらえるということはその土地を支配して,とれた農作物を農民から税としてとって豊かになります.ですから,この時代の武将は先頭をきって敵陣に突っ込んで勇敢(ゆうかん)なところを見せました.しかも互いの名前を名乗り合う一騎討(いっきうち)ちでした.なぜ,名前を名乗るかというと,倒した相手の身分よってもらえる土地の面積や場所がかわるからなのです.互いの身分を確かめあってそれから戦うというのですから,僕達が知っている戦争のやり方とはずいぶん違いますね.

こうして得た土地を「一所懸命の地」(いっしょけんめいのち)と呼びました.現在私達が使っている「一生懸命」(いっしょうけんめい)ということばの語源(ごげん=ことばのもと)ですね.

刀のかたちもも後の時代とは異なり細身で反りが大きかったのは,馬の上で戦うために片手でもって戦うのに便利だからです.刀の差しかたも江戸時代の時代劇,たとえば「水戸黄門」の助さん,格さん達の差し方と違いますね.やはり,それも馬に乗って戦うのに便利なためなんですね.


鎌倉時代の武士は,いつ戦があってもよいように戦いの訓練をしていました.この絵はそうした訓練の一場面を描いたものです.いまでも「やぶさめ」といって,鎌倉のお祭りに行事として残っています.もしかしたらニュースやなにかで見たことがある人もいることと思います.
このように,常日頃の訓練といつでも幕府や一族のために戦う気構えのことを「弓馬の道」(きゅうばのみち)と呼び,武士が最も大切にしていました.(資料/男衾三郎絵詞より)

 

 


矢の威力(いりょく)

      
左上は杉板3枚.右上はフライパン.左はブリキのバケツを射抜いたところです.鎧は杉板やバケツよりは強度がありますが,フライパンほどではありませんでした.したがって,弓矢は実際の戦闘でとても有効な武器だったのです.ですから,馬の練習とともに武士が最も大切にしていたのが弓の練習だったのです.

(写真資料/碧水社「復元の日本史」より)


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