鹿児島市立武岡小学校6年生の学習

 

鹿児島市立武岡小学校6年生のみなさんの学習です.武岡小学校では「源頼朝」や「北条政子」のこと,それに「どうして鎌倉幕府が滅亡したか」について勉強しました.
何人かの人が質問しているので,どなたか説明してあげて下さい.(ゲンボー先生より)

目次

源頼朝はどんな人?何をした人? 北条政子のしたこと. 源義経についてわかったこと.

鎌倉幕府が危うくなった一番の原因はなにか? 分かったこといろいろ


源頼朝はどんな人?何をした人?

12世紀の終わりごろ,源氏のかしらである源頼朝が34歳の時に,伊豆の豪族での北条氏や東国の武士の援助をえて,平氏をたおすために兵をあげた.
鎌倉に役所を置いて武士による政治を始めました.頼朝は,自分の家来に祖先からの領地を認め,武士達はこの領地を命がけで守り「一所懸命」と「いざ鎌倉の言葉が生まれた.(遥香)

34歳の時に平氏を倒すため兵をあげた.平氏に次々と勝ち壇の浦にほろぼしました.東国を支配するとその土地に守護と地頭をおきました.守護は軍事や警察の仕事にあたり幕府の命令を武士に伝えました.地頭は人々を指図して年貢を取り立てて領主に送りました.
他には幕府を開きました.46歳の時,征夷大将軍に任命されました.武士達に領地を与え御恩と奉公で武士と鎌倉幕府は成り立った.頼朝は時代を作るようなことをした中心人物だった.(美有紀)

鎌倉時代の創始者,初代将軍,源義朝の三男だった,資料から分かったことは弟をうつということはとてもざんこくだと僕は思った.兄弟なのに義経は戦の天才だったからといってうつことはないと思った.そして父の義朝をやぶった平氏を1185年に壇の浦でほろぼした.ここで僕は考えました.もしかしたら平氏をほろぼさせたのは義経の判断だったのかもしれないと思っています.
頼朝は実はとても卑怯なやつだと考えました.平氏を亡ぼせたのは義経の考えだったのかもしれない,それに弟の義経を殺そうとしてまで自分で偉い人になろうと考えていたのではないかと思うからです.でもそう言う頭を使う頼朝も天才かもしれない.(玄太郎)

1199-1174=52.頼朝は52歳で亡くなった.いがいと長生きしていない.平治の乱で敗れ,伊豆に流される.1180年に兵を挙げ,1185年に平氏をほろぼす.1192年には征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く.諸国に守護地頭をおき勢力を広げた.頼朝軍の70倍近い兵力を率いる者に対する,この堂々とした対応にひかれ,上総介は家来になったといわれています.
いざ鎌倉へ・・・頼朝が開き北条氏へと受けつがれた鎌倉には,そのころのものを伝えるものがたくさん残っています.源頼朝ってカッコよかったのか,悪かったのかなー.(美波)

 

北条政子のしたこと

承久の乱のとき北条政子(頼朝の妻)は次のような話をして御家人の心を一つにしました.「みなの者よく聞け.これは私の最後の言葉である.頼朝公は鎌倉に幕府を開いて以来,お前達に恩賞を与え領地を守ってくれた.この恩は山よりも高く海よりも深い.この恩にむくいようとは思わないのか.もし朝廷側につきたい者があればただちにこの場で申しでよ.」頼朝が死ぬと,その妻北条政子の実家である北条氏の勢力がのびていき,やがて執権として幕府を動かしていくようになった.僕は北条政子がいなければ,頼朝が死んでから鎌倉時代がなくなっていたかもしれないからだと思う.(信義)

「頼朝のご恩と,妻政子の決心」北条氏をたおせという朝廷の命令が鎌倉にいる武士に密かに伝えられました.おどろいた武士達が幕府に集まってくると政子は決心を告げました.「昔,頼朝どのが平氏をほろぼして幕府を鎌倉に開いてから,そのご恩を振り返ってみると山よりも高く海よりも深いほどです.それが今,よからぬ者のはかりごとのために朝廷は幕府を倒せと命令しています.ご恩に感じて名誉を大切にする武士ならば,よからぬ者を討ち取って,源氏3代の将軍が残した後をりっぱに守ってくれるにちがいない.もし朝廷につきたい考えの武士がいるなら,今すぐ申しでて立ち去りなさい.」頼朝の妻政子は頼朝のご恩をこのように説いて武士達の団結をうったえました.この演説に武士達はみな心に奉公を誓い京都にせめ上りました.
北条政子の決心は最初はそんなにすごくないと思っていたけど,すごかった.なぜ北条政子はこのような決心をしたのだろう.(舞)

北条氏を倒せという朝廷の命令が鎌倉にいる武士達に密かに告げられた.そこで政子は決心を告げた.「昔,頼朝どのが平氏をほろぼして幕府を鎌倉に開いてから,そのご恩を振り返ってみると山よりも高く海よりも深いほどです.それが今,よからぬ者のはかりごとのために朝廷は幕府を倒せと命令しています.ご恩に感じて名誉を大切にする武士ならば,よからぬ者を討ち取って,源氏3代の将軍が残した後をりっぱに守ってくれるにちがいない.もし朝廷につきたい考えの武士がいるなら,今すぐ申しでて立ち去りなさい.」と,このように説いた.政子の演説に武士達は奉公をちかい京都に攻め上った.
政子の演説にとてもすごいと思った.なぜなら武士達は政子の演説で奉公をちかい,京都に攻め上ったから.「山よりも高く,海よりも深い」といってるほどだからかなりのご恩だと思った.また,京都に攻め上がってからどうしたのかなどを,もっとくわしく調べてみたいなあと思いました.今の時代でも女の人よりも男の人の方が活やくしている.だから北条政子のように女人も活やくできたらと思った.(有希)

承久の乱の時,北条政子は次のような話をして御家人の心を一つにしました.「みなの者よく聞け.これは私の最後の言葉である,頼朝公は鎌倉に幕府を開いて以来お前たちに恩賞をあたえ領地を守ってくれた.この恩にむくいようとは思わないのか.もし,朝廷につきたい者があればただちにこの場で申し出よ.」
この言葉によって武士が活気づけられ朝廷軍に勝ったと考えてよい.(健太郎)

 

源義経についてわかったこと.

1180年 兄の頼朝が兵を挙げると黄瀬川に駆け付け参戦しました.
1184年 源義仲を宇治川の戦いでやぶってからは(一の谷の戦い)(屋島の戦い)(壇の浦の戦い1185年)と次々に活躍し,平氏をほろぼしました.
戦いの名人といわれ,源平合戦のヒーローでした.しかし頼朝に信用されず藤原氏をたよった.(奥州藤原氏)
1189年 頼朝に終われ,藤原氏にも裏切られて平泉で自刃しました.
(考えたこと)頼朝に追われ藤原氏にも裏切られて大変だしかわいそうだと思った.いっしょに戦ったからには最後まで仲間でいた方がいいと思う.戦いは一番えらくなるためにしているけど,強い人がえらくならないで,みんながいい人と認める人はいいと思う.(はるか)

 

鎌倉幕府が危うくなった一番の原因はなにか?

1199年(建久10年)頼朝は53歳で突然死去.楽譜がはじまり7年目.落馬が原因の病死ともいわれているが本当のことは分かっていない.
1221年,後鳥羽上皇は鎌倉幕府をたおそうとして兵をあげました.政子は御家人に向かって頼朝の恩をとき,幕府を守ることを誓わせた.そしていろんな人の協力をえて朝廷側の軍をやぶる.これを承久の乱といいます.
モンゴル(元軍)が攻めてきた.命をかけて活躍したが(武士が)うち(領地)をもらえなかった.ご恩と奉公がくずれて幕府に不満を持つようになった(御家人が).
幕府はなんで御家人達にほうびを与えなかったんだろう?不満さえ持たせなければ鎌倉幕府はつぶれなかったんじゃないかなあ?僕はそう思いました.足利尊氏はすごいなあ,だって強い武士はたくさんいると思うのに,それなのに目立ってというか,首相みたいになったんだから.(公平)

朝廷は幕府をたおす命令を全国に出したが,東国の武士が幕府のもとに団結して攻め上り朝廷をやぶった.(その後力をつけた)地頭が農民を休みなく働かせるなどの仕打ちに対して,これを領主にうったえるなどして,はねのけようとした.
(地頭は)なぜ農民を休みもなく働かせたのだろうか.奈良時代も農民がいろいろなことにつかわれていた.農民とえらい人(武士)との差が大きすぎるので(つかうのだが),農民は家来ではないから農民を休みなく働かせるのはやめた方がいいと思う.他の時代もそうだけど戦争はやっていていいきもちにならないからよした方がいい.(ゆりえ)

1.(領地を与えない,ご恩と奉公がくずれる)といった元冦の後の幕府の態度.
2.北条氏
3.後醍醐天皇の命令
三つあげてみたが,一つめの出来事は元冦に勝っても土地を与えない幕府の態度が武士の不満を招いたこと.二つめは出来事とはいわないが北条氏の勢力ばかり強くなって政治の失敗が多くなったこと.三つめは天皇が幕府にだんだん不満になって東国の有力な足利尊氏らも天皇の味方になったため,天皇が幕府をたおす命令を出したことの三つです.いろいろあってどれが原因でもおかしくなさそうです.
最初は「ぜったいこれだ!」というのは考えにくかった.なぜなら元冦の後,武士にとって良くないことや,天皇の頭をなやませることがたてつづけにおこっていることがあるからだ.ご恩と奉公がくずれてきたのも土地を与えない幕府から武士がはなれていったからで,その後北条氏が一族も勢力ばかりのばして政治の失敗が多くなって天皇をなやませていた,ということを考えると,幕府が何も武士達にできることがなくなったということになると思う.
幕府の北条氏も足利尊氏らとともに天皇の味方になった新田義貞軍のこうげきに追いつめられて自害して,140年間続いた鎌倉幕府は滅亡したのだから,幕府は自分でご恩と奉公の関係をこわして不満を多くして天皇の怒りをかったのだと思う.
それからすると元冦の後の幕府の態度が過m名倉時代のポイントになる「ご恩と奉公」をこわしたわけだから,鎌倉時代を危うくしたのは元冦の後が原因だと思います.「ご恩と奉公」さえくずれなければ鎌倉時代はもっと長くなったと思います.(ゆとり)

元との2度の戦いにより北条時宗を中心とした幕府は多くの費用を使い財政が苦しくなった.幕府からほうびのもらえなかった御家人たちは幕府に不満を持つようになり,「ご恩と奉公」の関係がくずれていった.足利尊氏らが不満をもつ武士を集め鎌倉幕府を倒した.
幕府に不満を持ち,武士は幕府まで倒すなんてすごくて,この時代は武士がキーワードの時代だということが分かった.
北条政子が決心して決めた「ご恩と奉公」で結びついていた幕府飛ぶしとの関係がくずれはじめたのが残念だった.
人と人が殺しあう争いはしない方がいいのになあと思った.(翔太)

鎌倉時代が危うくなった一番の原因は,鎌倉幕府ができ朝廷は幕府をたおす命令を全国に出したが,幕府のもとに集まった武士たちがたちまち京都を攻め上って朝廷の軍勢をうち破ったから.鎌倉時代は幕府をたおそうと武士どうしの戦いがとてもはげしかったんだなと思った.幕府のために戦った人もたくさんいるんじゃないかと思った.幕府のために戦った人はとても勇気のある人だったんだと思う.(礼奈)

ご恩と奉公でつながる武士たちは頼朝から受けたご恩に対して奉公することを誓いました.たたかいがおこると「いざ鎌倉」とかけつけ,幕府のために戦い,鎌倉や京都を守る役目につきました.
(元冦で)幕府からほうびのもらえなかった御家人たちは,幕府に不満をもつようになり「ご恩と奉公」の関係がくずれていった.足利尊氏らは不満を持つ武士を集め,鎌倉幕府を倒した.
最初は「ご恩と奉公」でうまくつながっていた幕府も武士も,幕府からほうびがもらえなかったことに不満を持つようになり,武士が集まって鎌倉幕府を倒したので,鎌倉時代が終わったんじゃないかと思った.(美咲)

1274年に元軍がせめてきた(文永の役).中国の元の皇帝フビライが日本を占領しようと九州の博多にせまってきた.元軍の力は大きく,多くの日本の兵は傷ついた.しかし暴風雨がおそい日本は敗北をのがれた.
1281年に再び元軍が日本を攻めてきた(弘安の役).そしてまた文永の役と同じように暴風雨で敗北をまぬがれた.文永の役,弘安の役で幕府にたくさんのお金を使わせたばかりで利益がなかった.戦いに活躍した武士たちも土地もお金も与えられなくなり,不平不満を持つようになった.そして鎌倉幕府の力はゆらいだ.
その後,幕府によって流罪にされていた後醍醐天皇と幕府に不満をもつ足利尊氏と新田義貞らが手を組み,1333年幕府の権力者「北条高時」をおいつめた.そしてついに頼朝から140年続いた鎌倉幕府が終わった.
昔は軍をまとめるために命がけだったなんてすごいと思った.このことを調べただけで鎌倉時代のいろいろなことを知った.また自分で,鎌倉時代だけではなく向いのことをたくさん調べていきたい.(奈央美)

鎌倉幕府の執権である高時が飲酒にふけり政治の仕事をしなかったので,近臣の長崎高資らが政治をまかされた.しかし,高資けらは権力をふりかざし,悪い政治をおこなったため「正中の変」が起こり,つづいて「元弘の乱」となった.後醍醐天皇を隠岐に流し,光厳天皇を即位させたが,これを機に各地に反北条の軍が起こり,上野に兵をあげた新田義貞に攻められた高時が鎌倉で自刃し,鎌倉幕府はほろんだ.
僕は,高資が悪い政治を行ったのはなぜか知りたくなった.このことを調べて鎌倉時代の政治がめちゃくちゃだったことが分かったのでよかった.僕は鎌倉幕府がほろんでよかったと思う.(卓)

鎌倉幕府ができて80年余りたった時,大陸から元という大きな国の大軍が2度にわたって北九州にせめてきました.元軍は暴風雨にあうなど,大損害を受けて大陸に帰りました.ところが出陣した武士たちはご恩として新しい領地をもらえないために,幕府に不満を持つようになりました.このころから,ご恩と奉公で結びついていた幕府と武士の関係はくずれはじめていきました.
わたしは,元軍と北九州の戦いが原因で幕府と武士の関係がくずれていったのなら,ちゃんと領地をあげればよかったのになあと思った.現は日本をしたがえさせようとしたのは,かなり元はずるい国だと思った.でも元はどうして北九州をせめてきたのかが不思議だ.それと幕府と武士との関係がくずれはじめていった後はどうなったのかが気にかかる.(梨沙)

後醍醐天皇が政権を朝廷に取り戻すため,鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗し隠岐(島根県)に流されたが.1333年に新田義貞・足利尊氏らの協力で鎌倉幕府をたおし建武の新政を始めた.しかし,武士の不満は大きく新政は失敗に終わり,(後醍醐天皇は)尊氏に追われ吉野(奈良県)にのがれて南朝を立てた.
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとしたけれど失敗して隠岐に流されたのに,また倒そうと新田義貞と足利尊氏らをつれて鎌倉幕府を倒しにくるから,よっぽど政権を朝廷に取り戻したかったのだろうと私は思った.こんど,どうやって鎌倉幕府を倒したかを調べたい.後醍醐天皇はすごくラッキーな人である.鎌倉幕府は後醍醐天皇が原因で危うくなった.(麻奈)

元との2度の戦いにより北条時宗を中心とした幕府は,多くの費用を使い財政が苦しくなった.幕府からほうびのもらえなかった御家人たちは,幕府に不満を持つようになり「ご恩と奉公」の関係がくずれていった.
足利尊氏らは不満を持った武士を集め鎌倉幕府を倒した.鎌倉幕府を倒した後次の時代に室町幕府を作った.これからも調べていきたいと思っている.(恵美)

1274年・1281年に中国の元の大軍が2度にわたって日本をせめた.しかし2回とも風によってたおれ失敗した.ご恩と奉公の仕組みがくずれたりすると幕府はほろびたりすのだなあと思った.ご恩とは幕府の家来の武士が領地をおさめることを認められたり,てがらを立てたらまたあらたに領地を与えられること.奉公とはご恩を受けたら幕府のために命がけで働くこと.(永人)

 

分かったこといろいろ

頼朝は鎌倉幕府が開かれた7年後に死んでしまった.まだ52歳だった.
頼朝の死後御家人の反乱があいついだ.この混乱に乗じて後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵をあげ幕府と戦った(承久の乱)
やがて元冦がおき,文永の役では竹崎季長はかつやくを認められ領地をもらいましたが,ほとんどの武士はほうびをもらうことができなかった.南宋をほろぼしたフビライは今度こそ日本をこうふくさせようと1281年14万人の大軍を日本に送ってきました(弘安の役).幕府は再度のしゅうらいにそなえて御家人を九州にはけんしたほか,博多わんえんがんに石塁を積み上げた堤を作るなど,準備をととのえていました.元軍は苦戦しました.しかし,しだいに日本軍はおされて負けそうになりました.
頼朝は御家人に対して,いままで持っていた領地をそのまま認め,その上に新しい領地を分け与えるなど,さまざまな権利や保護をあたえました.それがご恩です/そして御家人の側から行わなければならない義務が奉公です.
僕が頼朝だったらもうちょっと鎌倉幕府をやっていきたかったなーという気持ちです.
元冦で,元は強いなーと思いました.人は多いし何もかも日本よりまさっているし,でも日本はそういうことは知らなかったのかなー.
鎌倉時代はご恩と奉公で結びついていたんだなーとあらためて思った.(謙太)

頼朝は1192年に鎌倉幕府を開いて1199年に52歳の時に死んだ.
源頼朝の死後,御家人の反乱があいついだ.この混乱に乗じて後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵をあげ幕府と戦った.(承久の乱)
武士たちから「一所懸命」という言葉がうまれた.戦いがおこると「いざ鎌倉」とかけつけ幕府のために戦った.(ご恩と奉公9)
鎌倉幕府が開かれて80年余りたった時,大陸から元の大軍が2度にわたってきた九州にせめた.(元冦)
・頼朝の死は戦いでなくなったとずっと思っていた.
・承久の乱の最後の乱という文字はどういう意味なのかな.
・ご恩と奉公はこの時代の大切な役割だなあと思った.
・2度にわたってくる元軍はレベルが弱いと思っていたけど,じっさいに調べてみると「神風」のおかげと書いてあった.ぼくは「神風」の命の恩人だと思った.(貴之)

(源頼朝は)北条時政にうらまれて北条時政に暗殺された1192年(という説もある)
源頼朝の死後,御家人の反乱があいついだ.この混乱に乗じて後鳥羽上皇が幕府を倒そうと兵をあげ幕府と戦った.(承久の乱)
日本を従えようとした元(モンゴル)のフビライ皇帝は,1274年と1281年の2度,多くの軍船でせめ寄せてきた.これを元冦といい,1274年の元冦を文永の役,1281年のを弘安の役と呼ぶ.日本は集団戦法や火薬を使った戦法に苦しんだが,嵐のお助けもありこれを退けた.(元冦)
将軍の家来である御家人は領地を認められて保護を受け(御恩)そのかわりに合戦では命をかけて将軍のために戦った(奉公)
僕は戦わなくてもいいと思う.殺しはやめた方がいいと思う.(良太)

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