玉川学園・玉川大学

石狩平野は北海道にあります.札幌は北海道の道庁があり最大の町です.

北海道は日本の北に位置するため亜寒帯に属しています.したがって夏は涼しく,関東以南のように湿度もそれほど高くないため,とてもすごしやすいところといわれています.

しかし冬は厳しく,旭川周辺では日本における最低気温の記録をマークしています.北海道の人はよく「しばれる」と言いますが,体が何かに縛られたような大変厳しい寒さを表現した言葉ですね.
さらに石狩平野は日本海岸式気候に属すため冬季の積雪量が多く,亜熱帯の植物である「稲」の栽培にはとても向かない土地でした.

 

現在の石狩平野です.一面の水田が広がっています.

 

この広い水田が作られるには想像を絶する農民の努力がありました・・・


北海道開拓の歴史は明治維新とほぼ同じ,明治2年(1869)札幌に北海道開拓使が設置されてからでした.当初明治政府は北海道の地勢,あるいは亜寒帯と言う気候から,北海道においては西洋式畑作の大規模農業を目指していました.「少年よ大志を抱け!」で有名なクラーク博士はそのために札幌農業学校に来ていたのです.

当時の日本は明治維新による混乱期で,官軍(朝廷側)でなかった藩はとりつぶされ,禄(「ろく」藩主から与えられていた土地やこめなどの武士の収入)を失った士族(武士)や貧しい農民達が社会不安のもとになっていました.そこで,明治政府は北方の防備と開拓という2つの使命を担った「屯田兵」(とんでんへい)を北海道に植民させることになりました.当時の屯田兵村の位置をみると北海道の政治の中心である札幌とロシア人が来港することの多かった根室付近の海岸部に集中していることが分かります.始めの頃の屯田兵は士族が多く,北海道を防備する要素が強かったといわれています.しかし,明治24年からは一般平民の入植も盛んになり,屯田兵の性格も開拓を中心としたものに変わってきました.

特に空知・上川地域の石狩川流域への入植が多かったようです.この頃になると屯田兵より一般農民の割合が多くなり,屯田兵の人口比は7.2%になってしまいました.
開拓使は前にも述べたように西洋式の大規模農業を目指していましたが,以下のような理由によりうまくいきませんでした.

1.農民に新しい農具に対する知識が無かった.
2.北海道には森林が多く,伐採後の樹根が大型農具の使用をはばんだ.
3.入植者に小作農が多かったため資本が無かった.
4.同じくてっとり早く収益をあげるために,肥料をやらない略奪農法だったため,土地が疲弊(ひへい=栄養分がなくなりやせること)した.

と,言う訳で農民は開拓使の思惑とは別に,かつて故郷で作っていた稲作を目指すことになります.
その理由は
1.連作が可能.
2.交通不便な土地にあって米は保存もきき,換金(かんぎん=おかねにかえること)に有利な作物.
3.軍備の増強や国民生活の向上で米価が高騰(こうとう=高くなること)した.

でした.

さらに,明治25年(1892)北海道庁の財務部長として着任した酒匂常明は,稲作試験場を作り実質的な稲作のゴー.サインを出しました.そして明治35年(1902)には北海道土功組合法を発布し本格的な水田開発に乗り出しました.当時の土功組合は道庁がバックとなり,北海道拓殖銀行が資本投下し,支庁・町村長が組合長となる半官半民(はんかんはんみん=役所と民間の会社の半々でおこなうこと)の組織でした.
そしてこれにより,石狩川流域に用水路,灌漑溝,貯水池,排水路が建設されました.
しかし,石狩川流域には泥炭層が堆積し,これらの事業のみではとても水田を作ることは困難でした.  ※泥炭=寒冷地のため植物の分解腐食が進まず,土が炭化植物の状態のもの.戦前の農民は燃料に使っていた.したがって農耕には適さない.
そこで,農民は遠くはなれた山間地域から腐食土を運び客土をしました.当時はトラックもブルドーザーも無い時代です.人々は馬ソリに土を載せ日に何十回も遠い道のりを往復しました.もちろん子供達も作業を手伝いましたが,一日のカロリー摂取量が現在の平均である3500キロカロリーの半分にも満たなかったため,栄養失調や飢餓に苦しめられながらこの重労働を乗り越えていったのです.また,当時の北海道では4年半に1回の割合で冷害があり,想像を絶する困難と闘いながら開拓は進められていきました.


泥炭地の改良と同時に稲の品種改良もの努力も行われていました.江戸時代にも函館の近くで細々と稲作は行われていましたが,明治6年(1873)札幌の農民である中山久蔵が,夜も寝ずに水田にお湯を注ぐなどの努力の末についに耐寒品種,「赤毛」の栽培に成功しました.これがきっかけとなりやがて「坊主2号」「坊主6号」などの優れた耐寒品種を生みだすことになります.

1.品種の改良

2.技術の進歩

春が遅く夏の短い北海道でお米を作ることは,時間との闘いでもあったのです.稲の生育にとって大事な開花の時期や,実が成長する時期に冷たい気温にさらされると,籾はできてもお米が入っていない状態になってしまいます.いくら寒さに強い品種を作ってもおのずと限界があります.したがっていかに早く田植えを行うかが重要なこととなるのです.つまり,開花や結実の時期を暖かい気候のときにうまく合わせるように工夫しました.
たとえば,田んぼに残っている雪の上に土や黒く焼いた籾殻をまくというのも,古くから雪の多い北陸や東北地方で行われていた方法をとりいれたものです.石狩地方ではこの方法の他に「苗代」を作る時間を省き,一度に多くの籾まきが可能な「たこ足」という籾の直蒔(じかまき)機が使われました.この機械を使うと一度に24粒の籾まきが出来たそうですから,広い水田には大変に便利な機械であったわけです.

「たこあし」を使った籾の直蒔の様子
昭和25〜6年頃(5月)

しかし,直蒔だとどうしても発芽しない籾がでるために,石狩の農民たちは何度も失敗を重ねながら新しい栽培技術を生みだしていきました.
農民たちは確実に早く,そして全ての籾が発芽し株が育つようにと次に「温床苗代」を取り入れました.これは秋田県地方などでも行われていたそうです.つまり苗代を覆い,冷たい外気にあてないようにしたものです.『なあんだ,それならビニールハウスのことじゃないか』と,皆さんは思うでしょうが,当時はビニールなど無く,はじめの頃は油紙を使っていたそうです,つまりこの油紙の温床苗代が現在のビニールハウスの御先祖様というわけです.
こうして河川の改修や泥炭地への客土,あるいは品種の改良や温床苗代など,多くの工夫と努力の末に広大な湿地帯や原野が豊かな水田へと変わっていった.

温床苗代から苗を取り出す
昭和29年頃(6月)

こうして今日石狩平野を主産地とする北海道は全国一の米の収穫量を誇る地域となったのです.しかし,米あまりや米の自由化を決めたウルグァイラウンドの条約を守るために,政府は減反政策(げんたんせいさく=お米を作る水田の広さを制限すること)を実施し,この石狩地方にもその数値目標を達成するよう,自治体や農協を指導しています.そのために祖先が血と汗と涙で作り上げた水田が牧草地や飼料作物の畑になったり,荒れ地になっていくところが増えているそうです. 今後,この地域の米農家が生き残るためにはどのようなことが必要なのでしょう? 石狩の米農家は以下のようなことを考えています.

1.機械化や効率化をはかり生産費を低く抑える.
2.「きらら」に代表される,銘柄米の開発.
3.無農薬や有機栽培などの自然思考栽培に基づく米作り.
などです.

しかし,石狩平野はもちろんのこと日本の米作りは,現在大きな曲がり角にきているといわれています.今後,主食である米を日本人はどうするのか,これは大きな問題と言わざるを得ません.君もそのことについて良く考えてみてください.

制作・著作 玉川学園 多賀譲治

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