鎌倉時代の米作り

玉川学園・玉川大学



鎌倉時代に日本の米作りは進歩しました.


広大な開拓地であった関東平野や東北地方では農民が自らの土地を守るために武装し「武士」となりました.
これらの武士は都から役人としてやってきた貴族や皇族の子孫を「棟梁」(とうりょう=組織をまとめる主人)として結束を固め「武士団」を形成しました.平氏や源氏はその代表といえます.
このように武士が力を強めると,今まで貴族や寺社の所有物だった荘園に地頭という形で武士が進出してきました.
武士は自分達の取り分を増やし,経済力を強めるために当時最大の産業であった農業の生産高をあげるために努力しました.
その結果として「農業技術」が進歩し,西日本では二毛作が始まったのです.

灌漑(かんがい=農業への水の利用)施設が発達しました

「石山寺縁起絵巻」より
それまで川の近くの湿地帯や中・下流域の平地だけで行われていた稲作が,水車や溜め池,水路などの灌漑設備が整い水田が広がっていきました.この絵では川から水車で田んぼに水をいれていますね.


牛馬を利用しました

「松崎天神縁起絵巻」より
ちょっと見にくいのですが,上の絵のように,それまで人力に頼っていた開墾を牛や馬の力を利用して耕すようになりました.これにより,より広く早く効率的に農作業をおこなうことができたのです. 牛馬には犂(すき=カラスキ、長床犂)がつけられましたが,これは中国から伝えられたものといわれています.


農機具が発達しました

鍬(くわ)や鋤(すき),鎌(かま)や鉈(なた)といった,農機具の発達は開墾や田んぼを深く耕すのに大変に役立ちました.この時代の鍬/鋤は土を切る刃の部分だけが鉄製でした.

今日,柄を除いた全ての部分が鉄製になるのは江戸時代になってからのことといわれています.


肥料が発達しました.

草や木の灰や腐葉土,あるいは家畜や人間の「し尿」(ウンチやおしっこ)を発酵させて肥料に用いるようになったのも鎌倉時代からでした.
少し後の時代になって(室町時代),日本を訪れた朝鮮の人が『日本では人糞や家畜の糞を肥料とし,農作物の生産高が非常に高い』と書いているくらいですから,これは日本人の大いなる発明といえるかもしれませんね.
ただし,そのために「寄生虫」や「疫病」の発生源になったのも事実ですね.


田植えがおこなわれました.

「大山寺縁起絵巻」より
田植えは多くの株を作り出すために日本人が考えだした大いなる知恵といえます.それまで稲作は「直蒔き」(じかまき)といって,種もみを田んぼに蒔いていました.
これだと労力は軽減されますが,一粒あたりの収穫量は低いのです.上の絵のように「田植え」はとても大切な農作業ですが,重労働のために回りで鐘や太鼓を打ち鳴らしながら調子をとっていました.そして,見てもわかるように田植えは主に女性の仕事となったのです.


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制作・著作 玉川学園 多賀譲治