【6月のトピック:暗黙知と形式知】

98年6月のトピックは,暗黙知と形式知を取り上げました.このトピックは毎月アップデイトしていく予定です.取り上げて欲しいテーマがありましたら,遠慮なくお申し出でください.

 

1.知識創造企業

野中郁次郎氏らは「知識創造企業」という本を東洋経済新報社から,1996年に出版しました.この本の中での彼らの主張は「日本企業は,『組織的知識創造』の技能・技術によって成長してきた」ということです.同書が出版される6年前の1990年には日本経済新聞社から「知識創造の経営」という書物を著わしています.

私は最近のキーワードとして「創造」という言葉が気になっています.知識の創造だけでなく,価値の創造も大切なことではないかと考えています.野中郁次郎氏の著わす書物にはいつも目を止め,購入し,読んできました.氏も最近の書物では創造という言葉をよく用いているようです.

サービスや新製品開発について研究している立場で,いつも突き当たる壁が「天才」です.例えば,問題解決をする場合,QCストリーという考え方は役立ちますが,対策案の立案となるとどのようにして案を出すかの方法は明確でありません.対策案は現状をよく把握すると出てくる,というしかないのです.新製品のアイディアもそうです.出てくるという答えしかできないのです.そこで,「天才が一人いればいい」ということになりますが,天才がそれほどいるとは思われませんし,科学的とはなりません.

何故か,どのようにすればシステマチックにでてくるのか,様々な発想法も提案されています.ブレーンストーミングに始まって,ゴードン法,KJ法,NM法,ワープロ発想法あげればきりのないほどの発想法があります.しかし,確実に必ずヒット商品が生まれるという方法があるわけではないように感じられるのです.

過去のヒット商品についても,いろいろと調査しました.いろいろな方の話も聞きました.こじつけて理由付けをすることはできますが,同じように進めれば,必ず確実にヒット商品が産まれるかというと,どうもそうではないようです.「ヒラメキ」がなければダメなようです.しかし,「ヒラメキ」があってもヒットしなかった商品も多数存在しているようです.

創造という活動というか行動というか作業というか,何といったらいいのか分かりませんが,創造は頭の中で自然に産まれて出てくるようなもののようです.しかし,このような答えでは自分自身納得がいきません.科学的管理法を研究している者として,自分自身でも納得できる回答が欲しいのです.

その一つの回答として「暗黙知(tacit knowledge)」と「(形式知explicit knowledge)」との2つの「知」に分けて考える話に興味を持ったのです.

 

2.暗黙知と形式知

同書の中で,「知」についてマイケル・ポランニーの「暗黙知」と「形式知」の話が書いてあります.そして,ポランニーは「我々は語れる以上のことを知っている」と言っているそうです.さらに,日本企業の知識創造の特徴は暗黙知から形式知への変換にあると結論づけています.それでは,「形式知」「暗黙知」とはどのような「知」なのでしょうか.

形式知とは「文法にのっとった文章,数学的表現,技術仕様,マニュアル等に見られる形式言語によって表すことができる知識である.この種の知識は,形式化が可能で容易に伝達できる」と説明されています.「形式的・論理的言語によって伝達できる知識である」とも説明しています.

暗黙知とは「人間一人ひとりの体験に根ざす個人的に知識であり,信念,ものの見方,価値システムといった無形の要素を含んでいる」と説明されています.「特定状況に関する個人的な知識であり,形式化したり他人に伝えたりするのが難しい」とも説明しています.この暗黙知が日本企業の競争力の源泉であり,西洋人にとって日本的経営が謎となった理由であろうと推測しています.

日本的経営の特徴として,集団主義であることがよく言われます.日本人は農耕民族ですから,定住の地にしがみついて働きます.昔から「村八分」となることを嫌い,「赤信号皆で渡れば恐くない」式の行動をしてきました.個人ではなく集団で行動するという意味でです.

一方,狩猟民族は,定住の地にしがみつくことなく,場所を転々移動して行動します.個人主義的になります.遊牧民は今いる土地の草が無くなれば,他の草が生えている土地を探して移動します.

どちらが良い,どちらが悪いということではなく,日本人の場合は集団で行動してきたのです.日本人は就職ではなく,就社すると言われますが,仕事を聞かれるとまず会社名を答えます.そして会社で何をしているのかを答えます.欧米人は自分の専門とする職を答え,次にどの会社に属しているのかを答えます.日本人にとっては,職が何であるのかというよりも,属している所の方が重要なのです.

このような背景がある企業で働いているということを前提に考えると,日本人は様々な職を経験しながら1企業で育っていきます.営業を経験し,生産現場の作業も経験し,資材も経験し,場合によっては経理も経験したりして勤めていきます.欧米企業のように,マーケティングならマーケティングだけということはありません.

また,日本では,職を変わらないことがよいことと考えられています.職を幾度も変わると「尻が軽い」とか「落ち着かないやつだ」といわれます.最近はこの考え方も変わり,欧米のように経験が豊であるという理解がされるようになりましたが,欧米では多くの職を経験していることを善しと判断します.

日本の企業ではこのような様々な経験を踏んでいく過程で,様々な「暗黙知」を体化させているのです.職場が変わると引き継ぎがあり,マニュアル書などによって「形式知」も体化されますが,「やっていくうちに覚えるよ」といわれて,その気になって仕事を進めていきます.いわゆる「身体で覚えていく」のです.これが「暗黙知」です.

「暗黙知」は主観的な知で個人知,「形式知」は客観的な知で組織知,「暗黙知」は経験知で身体的,「形式知」は理性知で精神的,「暗黙知」は同時的な知で今ここにある知,「形式知」は順序的な知で過去の知,「暗黙知」はアナログ的な知で実務的,「形式知」はデジタル的な知で理論的という説明もあります.

 

3.知識変換の4つのモード

「形式知」は文章化が可能で,コンピュータにも蓄積できる「知」で,「暗黙知」は個人の「知」で正確には本人しかわからず,本人も説明できないような「知」であることは,想像がつきます.そして,この2種類の「知」があるであろうことも理解できます.

「形式知」は文章化が可能な「知」ですから,我々も多くの知識を「形式知」として獲得してきました.そして,「暗黙知」については「見習い」と自らの経験を踏むことによって獲得してきたのです.スキーは何故滑るのか,どのようにすれば曲がるのかなどについて,「シーハイル」などの書物を通して「形式知」を得ました.「スキーの板と雪の間の微粒な水が,スキー板と雪の間の摩擦をなくし,スキーは滑る」とか,「スキーを履いて足首を前方に曲げると,スキーのテールがながれてスキーは曲がる」など,知識としてスキーの滑り方を獲得しました.

しかし,実際にスキーを履いて,雪の上に立って滑れるかというとそうではありません.スキーは勝手に自分の意図と反した行動をします.自分は右に曲がりたいのに,スキーは勝手に崖に向かって進んでいきます.自分の足に履いているスキーであるにも関わらず,滑り方を知識として知っているはずなのに,思うように滑れません.「身体を前に!!」

「足首を曲げて!!」といくら教えられても,スキーは自分の意志とは関係なく行動しているように感じたものです.

「暗黙知」と「形式知」の2つに「知」を分けて,どうするのかというと,暗黙知から暗黙知へ変換し,次に暗黙知から形式知へ変換し,そして形式知から形式知へ変換し,さらに形式知から暗黙知へと変換するスパイラルが考えられています.この各々の変換のモードを共同化(socialization),表出化(externalization),連結化(combination),内面化(internalization)という名称で説明しています.この4つの知識変換モードによって知識が創造されるといっています.共同化は暗黙知から暗黙知への変換で,表出化は暗黙知から形式知への変換,連結化は形式知から形式知へ,内面化は形式知から暗黙知への変換です.

共同化という暗黙知から暗黙知への変換は「経験を共有することによって,メンタル・モデルや技能などの暗黙知を創造するプロセスである」と書かれています.私は日本の古来からある「見習い」ということでなされているのではないかと考えています.一緒に行動することによって,強制的な共体験がなされ,別の人に体化されていくのではないかと思います.

表出化という暗黙知から形式知への変換は「暗黙知を明確なコンセプトに表すプロセスである」と書かれています.私はマニュアルの作成や文筆活動によってなされてきたものであり,共同作業ではなく個人の作業によることが多いのではないかと思います.

連結化という形式知から形式知への変換は「コンセプトを組み合わせて一つの知識体系を創り出すプロセスである」と書かれています.私は多くの本を読んだり,異分野の本を読んだりすることによって,発想の異なる知識を獲得することではないかと思います.

内面化という形式知から暗黙知への変換は「形式知を暗黙知へ体化するプロセスである」と書かれていますが,内面化という言葉が示しているように個人への知識の体化をいっているのではないかと思います.

これらの考え方を元に,組織的知識創造のモデルとして,5つのフェイズからなるモデルが考えられています.その5つのフェイズとは,(1)暗黙知の共有,(2)コンセプトの創造,(3)コンセプトの正当化,(4)原型の構築,(5)知識の転移というフェイズです.

1990年に著わした「知識創造の経営」の時には,個人レベルの知識創造,集団レベルの知識創造,組織レベルの知識創造という過程を示しています.そして,組織的知識創造モデルは,(1)解釈の多様性,(2)暗黙知の共有,(3)概念化,(4)正当化,(5)形態化,(6)意味ネットワーク化によって,暗黙知から形式知へのプロセスをモデル化しています.

 

4.QFD(品質機能展開)との関係

私は同書を読んで,QFDとの関係を考えました.QFDも新製品を開発するための設計的アプローチといわれています.しかし本当にQFDフ実施によって,全く新しい斬新的な新製品を開発することができるのかという問いに答える必要があるからです.

私が野中郁次郎氏の話に同感を感じたのは,氏が日本企業は暗黙知に傾斜しがちで,形式知をないがしろにする傾向があることを指摘しているからです.品質機能展開の指導において,顧客の要求品質を把握することの重要性を話すと,多くの方々が「顧客の要求は十分に把握している」ということをおっしゃいます.そして,問題を顧客の感性がまちまちであることの指摘から,暗黙知の部分が把握しにくいということにすりかえているのです.

私は要求品質展開表を作成するということは,顧客の要求という暗黙知を文字媒体で形式知化することと考えています.そして,この作業を新製品の開発に携わる人達が共同で作業することによって,暗黙知の共有化がなされ,天才でなくても創造という活動ができると考えているのです.

さらに,品質表を作成するということは,要求品質展開表と品質特性展開表の二元表を作成することですが,形式知からより具体的な形式知に変換することと考えています.この作業を品質機能展開では「市場の世界を技術の世界に変換すること」といわれており,このことに異論はありません.この作業を形式知の形式知化という連結化と考えることもできると思います.それも,要求品質という抽象的なことがらを品質特性という具体的な形式知である技術特性に変換する作業と考えられると思います.さらに,この作業によって対象とする開発製品についての具体化が進み,原型の構築ができるのではないかと思います.

既存改良型の新製品ではなく,全く新しい新規開発型の新製品の開発は,品質表などの作成過程での形式知の暗黙知化によってなされると考えられます.顧客の混沌とした要求を要求品質展開表にまとめる作業,そして,要求品質展開表から品質特性展開表を作成し,品質表を作成するという作業を通じて,形式知が個人の暗黙知として体化されます.つまり形式知が内面化されるわけです.

その上で,つまりある程度共有化した暗黙知を持ちよって共同化という暗黙知の暗黙知化が行われて,新規開発型の新製品ができるのではないかと思います.野中郁次郎氏は,暗黙知から暗黙知へという共同化から説明されていますが,私はQFDの考え方から言って,暗黙知から形式知への変換という表出化から始めるべきではないかと考えています.

共同化・表出化・連結化・内面化というスパイラルは4つの変換モードが循環されるわけですから,共同化から始まらなければならないとか,表出化から始まらなければならないということもないと思いますが,品質展開という考え方では表出化から始められているのではないかと思います.

 

5.今月のトピックのまとめ

今月は野中郁次郎氏の著わした「知識創造企業」という書物の「暗黙知」と「形式知」に焦点をあて,知識創造の過程をかいま見,品質展開との対比を考察しました.

品質機能展開という考え方は,多くの企業で導入・実施されて効果を上げている反面,「膨大な表を作成しなければならない」とか「新規開発型の商品はうまれない」などの声も耳にします.批判することは簡単なことです.私はどのような考え方であっても,使う人が前向きに考えれば役立ちますし,使う人が前向きでなければ役に立たないと思います.

いつも皮肉を込めて「QFDは使える人には役に立つけれど,使えない人には役に立たない」と言っています.「使える人」というのは,「役立つ人」の意味で,「考え方を使える人」という意味ではありません.

品質機能展開に限らず,知識を活用するためには多くの知識を必要とします.それまでに得た知識を活用して創造ができるのです.その創造は価値がある創造であることが必要だと思います.価値があるというのは他の人達にとってだけではなく,本人にとっても価値があることが必要だと思います.

創造とは白紙のキャンパスに絵を描くことに似ていると思います.無から有を産み出すことだと思います.白紙のキャンパスに絵を描くことは,誰にでもできることだと思いますが,その絵が本人にとって価値あるもの,そして,他の人達にとっても価値のあるものであることが必要なのではないでしょうか.特に生産活動という場においては,価値ある知識創造ということが必要だと思います.