フユシャク (一月)

 暖かい東京でも時に大雪に見舞われる一月。そんな季節は、草木も虫もすべて活動を停止し深い眠りについている。と思いきや、まさにその冬の季節をわざわざ選んで活動する変わり者がいる。通称フユシャクの名で呼ばれている蛾たちである。

 フユシャクとは、シャクガ科に属する目立たない蛾で日本には二十五種類ほどが知られている。蛾全体の種類数からみれば取るに足らない数ながら、散り忘れの枯れ葉以外動く気配のない雑木林にあって、雪の上を結構まともに飛ぶ姿にはハッとさせるものがある。変温動物のはずのこのか弱げな蛾が、どうしてこんな酷寒の季節に飛べるのか、大層不思議なことではある。血液が凍ることを防ぐ秘密と、低温でも働く特殊な筋肉駆動の仕組みを隠しもっているに相違ない。しかし飛ぶことができるのはオスだけで、メスにはこれまた不思議なことに羽がない。メスは桜の幹や石の上など、灰色ででこぼこした場所がお気に入りらしくチョコンと止まって溶け込んでいる。フユシャクのオスたちは、音も立てずにただひたすら待ち続けている、なんとも目立たぬ(いや失礼)こよなく魅力的な恋人を、香ぐわしいフェロモンだけを頼りに探し当てているに相違ない。退化ではなく進化によって惜しげもなく羽を捨てたフユシャクのメスたち。無駄なエネルギー消費をカットして産卵に備え、同時に捕食者の目からも逃れる最善の索ではないか。これぞあっぱれ逆転発想と拍手を送らずにはいられない。

 真冬に、しかも暗くなる頃フユシャクの採集に高尾山に登るなどというマニアックな行動は、思いがけないきっかけから始まった。

bug01.gif  平成九年の正月、玉川大学脳研の顧問、養老孟司先生のお宅へ新年の御挨拶に伺った。その折、先生のタイへのゴミムシ採集旅行の計画を知り、あつかましくも同行を申し出たところ、弥次喜多道中をすることに話が進んだ。ところが決行直前の三月初め、先生には予期せぬ仕事が舞い込み、計画を変更せざるを得ないとのこと。超売れっ子の先生であってみればいたしかたない。がしかし僕は大いに慌てた。様子を知らないタイにたった一人で行くはめになってしまったわけである。いっそやめてしまえばとも思うのだが、大学には届けてしまったし家族の許しも得ている折角のチャンス。むざむざ反古にするてはない。あれこれ思案するうち、ふと、大学時代の同級生にタイからの留学生がいたことを思い出した。ワラにも縋る気持ちで早速年賀状を引っぱり出すと、なんと目的地に選んだチェンマイ市の近郊に住んでいるではないか。しかも有名企業の常務さん。ラッキー!!出発日の直前になってミツバチ科学研究所の吉田、中村両先生がチェンマイ大学農学部と研究交流をもつ間柄であることも判明。両先生はさっそく昆虫学教室のピチャイ先生に連絡をとってくださった。これまたラッキー!!幸運は重なるもので初めて顔を出した蝶と蛾のアマチュア学会では、昨日チェンマイから帰国したばかりという御婦人に出合い、その紹介で現地の昆虫採集ガイドにまで渡りがついてしまった。

 さて、その学会の懇親会の席。三十名ほどが狭い居酒屋で押しくら饅頭。当時高尾の自然科学博物館に勤務されていた松田邦雄先生と向い合わせになった。そこで「高尾の蛾でぜひとも欲しいのがいるんですけど、あすこは虫を採集しちゃいけないんでしょうか」とたずねてみた。すると「由緒ある神社があるので一般の人は虫なんか採っちゃいけないと思い込んでいるようですね。しかし法的には何ら問題はないんですよ」との返事である。そこで同行者を募ったところ、即座に四〜五人が名乗りをあげた。こうして週一回の高尾の蛾採集会が始まった。

 常連の筆頭は松田先生。東京都の小学校の学校長、高尾自然科学博物館の非常勤研究員を経て現在は女子大の先生。秋篠宮家の眞子様、佳子様の虫の御指南役でもある。次に精勤賞ものの福嶋美恵さん。家業は電話屋さんとのことだが、オオカミの生息調査から、はてはヒグマの調査まで、ボランティアで世界を飛び回る恐いもの知らずの元気おばさま。そして一年後に仲間入りした神保さん父子。父君一義氏は日本蛾類学会の会長さん。その道では有名な高山蛾の権威で、立派な本を著されている。御息子宇嗣さんは理学部昆虫学教室の大学院生。通称ミクロと呼ばれる米粒程もない微少な蛾を美しく展翅する名人。それに、松田先生に採集されてしまった生き物好きの少年少女達が時々加わる。当時中学生の川口悠太君は第一回採集会から参加した熱心な少年。ただ、この時飛来した蛾はドクガの仲間が一頭だけで、たまたま地球に接近していたヘール・ボップ彗星の撮影会になってしまったのだが。二人目はその年高校に入学した早武真理子さん。彼女はヘビを見るなりいいこいいことだっこしてまうので、ヘビ少女の綽名を頂戴している。三人目は塩田忠利君。彼は草でも虫でも採集したら味をみてみたくなり、手当りしだい口に放り込んでしまうというつわもの。もう一人。ときどきひょっこりライトトラップに舞い込む原田慈照君。高校生。彼は昼となく夜となく高尾を歩き回り、主にカミキリムシを集めている。カミキリムシには未明にしか飛ばない種類もいるとのことで、それを目当てに高尾に野宿することもしばしばとか。こんな天下無敵の変人奇人が土曜日の夕方五時に高尾山麓の蕎麦屋に集結し、腹ごしらえを済ませていざ出陣。見通しの利く峰に750ワットの強力な発電機を担ぎ上げ煌々と明かりを灯す。まるで討ち入りである。

 この年は、四月に始めた採集会を十一月末で打ち切り、春までしばしの休息に入ることにした。ところが、年が明け、正月気分もまだ抜け切らないある日「今日高尾を歩いていたらフユシャクをたくさん見ました。先生ぜひ一緒に採りにいきましょう」と松田先生からお誘いの電話。禁断症状を見破られたのであればいたしかたない。かくてフユシャク採集とはあいなった。これまで三十年以上も一人っきりで虫を採ってきたが、高尾の蛾採集会をきっかけにすばらしい友人に巡り合えた。このままいくと、家にべったり張り付いて家人に疎まれる‘濡れ落ち葉’になりかねない僕を救ってくれた救世主の夜の舞姫達に心から乾杯。 



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