カワトンボ (五月)

 「あなたのあのアマゾンの蝶、玉川学園の子供達にぜひ見せてくださいな」。ある日、玉川大学学術研究所の副所長をなさっていた飯塚先生からそんな一言をかけて頂いたのがミヤマカワトンボに出会うきっかけとなった。しかし、道楽で集めている虫を教育博物館で展示することはうしろめたく、なんとなくしばらくは受否を決めかねていた。けれども、その後何回か同じ誘いを受けるうちに、すっかりその気にさせられてしまった。それでもアマゾンだけでは子供達に馴染みが薄いだろうし・・・と考えあぐねていた。そしてふと思いついたのが、玉川学園内の昆虫も加えてみたらどうかということだった。この学園の中には自然の木がたくさん残されているし、池も何カ所かにあって、その気で見ればたくさんの種類の虫達が暮らしている。そのうちでも特に目につくのはトンボである。工学部前の池にはいつもコシアキトンボが悠々と飛んでいるし、知る人ぞ知る奈良池には、スジグロギンヤンマというめったに見かけない大型のヤンマも生息している。そうだ、トンボがいいかもしれないと思った。

玉川学園のトンボから薬師池公園のトンボに目標を広げ、ついには東京のいちばんはずれの高尾山の山麓まで捜索範囲を広げたとき、初めて出会ったのがミヤマカワトンボである。長年虫にうつつを抜かしてきた僕も、こんなにすばらしいトンボが東京都内に住んでいるなんて思ってもみなかった。ミヤマカワトンボはハグロトンボよりひとまわりもふたまわりも大きく感じられた。羽を一瞬全部閉じ次の瞬間全部開く。その動きをリズミカルに繰り返すカワトンボ特有の飛びかたで、渓流の上を真一文字に飛ぶ。そして岩や渓流にかかった橋などにピタリと静止する。見ていると、お気に入りの止まり場が何カ所かあり、そのうちの最も見晴らしの良い岩をめぐってオス達は争う。

 オスの金緑色の細い胴体は、ときどきもれる陽の光をキラリと反射させる。メスは密やかな銅色であまり目立たないが、前羽に白いポイントを付けている。オスに送るシグナルなのであろう。

 正面から見る顔はシュモクザメのように横長で、両端に大きな眼を付けている。この眼では前後左右どこに飛んでいる小虫も見逃すまい。眼が大げさなわりには、口はオチョボで愛嬌がある。足には姿に似合わず立派な刺毛を密生している。

bug05.gif  トンボへの郷愁は、小学生の頃よく父に連れていってもらった夏の川の光景につながる。「ひろせがわー ながれるきしべー」で始まるお馴染みのヒット曲青葉城恋唄。その広瀬川が実家の前を流れている。夏休みになると、父はほとんど毎日のように、松淵の名で親しまれている川の淀みに僕たち兄弟を泳ぎの練習に連れていってくれた。「昼寝をしてからだよ」と言われ、うきうきしながら寝たふりをしていても、いつも本当に寝てしまったことや、昼寝の後の川の冷たさは今でも懐かしくよみがえる。

 その淵の中程に、ほんの少し水面から顔をのぞかせている三角岩があった。そのてっぺんをいつも占領しているカワトンボが真っ黒な羽で金緑色に輝くスマートな胴体のハグロトンボだった。子供達の水しぶきを浴びそうになると飛び立ち、水面すれすれに一直線に飛んでは、またもとの岩にチョコンと止まる。

 夏に研究会で沖縄に出かけたとき、ハグロトンボを探しに平南川という川の上流まで溯ってみた。地図を見てあたりをつけたのだが、そのカンは的中した。やっぱりいたぞと、心ときめきながら採ってみると、それはハグロトンボよりさらに美しいリュウキュウハグロトンボだった。それでも正真正銘のハグロトンボに対する郷愁は断ち難く、高尾山の麓の谷筋を探し歩いた。そして九月になってとうとう博物館前の小川にその姿を発見したときは嬉しさがこみ上げてきた。

 カワトンボの仲間はいずれも、その幼虫時代を渓流の流れの中で過ごす。羽化の時期は種類によって異なり、ミヤマカワトンボは五月末から六月初め、ハグロトンボは七月から八月にかけてが最盛期である。これらのトンボの母虫は水草につかまりながら潜水し、その茎の中に産卵するという特異な習性をもつ。潜水時間は十分前後のようだが、カワトンボの中でも最も大型なミヤマカワトンボでは、時に四十分にも及ぶという。



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