2003.6.16更新

6年生のみなさん、今日は鎌倉見学、お疲れさまでした。雨も少し降りましたが、どのグループも、予定通り見学してくることができたと思います。今日、アップされた質問や気がついたことのメールを読ませてもらいました。どれもがなかなかよい質問で、これから学習が深まることが期待できます。野島さんのお母さま、早速のお返事、ありがとうございます。とても参考になるメールでした。

 せっかくよい質問などがたくさん出されましたから、みなさん同士でネットワーク上で話し合ってみたり、調べてわかったことを答えてみたりして学習を深めて下さい。また、お父様、お母さま方からの参考意見も聞けるかもしれません。大学の先生からの御意見も聞けるかもしれません。これから鎌倉時代の学習が1学期の間、続きます。どうぞネットワークを活用して、疑問を解決しながら学習を深めて下さい。そして源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由や、当時の武士の生活の様子について勉強してください。 渡瀬


誰が書いているかを鉛筆アイコンの色で分けました.

みんなの質問 みんなのアドバイス 父母のアドバイス 渡瀬先生 

ゲンボー先生 他校の先生 他校の子供たち


目次

頼朝のお墓のこと  鎌倉の地形のこと 幕府を支えた関東の武士のこと 大きな建物の材木はどうやって運んだの?

砂鉄のこと.製鉄のこと 段葛(だんかずら)のこと 北条氏はなぜ力を付けたのか? 切り通しのこと

頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか? 敵と味方の区別はどうしたのか? 鎌倉幕府はいつできたのか?(成立の年)


私たち萩組B班は、源頼朝の妻と息子の墓をみました。ここで質問です。なんで名前も書いてないのに源頼朝の妻と息子の墓だと分かったのでしょう?分かった人は教えてください。 萩組B班 唯 2003.6.4

政子さんの本当のお墓は勝長寿院にあり,寿福寺ある供養塔(くようとう=霊をなぐさめる石の塔.君たちの見た五輪塔はその一つ)や,安養院(あんよういん)の供養塔は記録や言い伝えで「ここだ」と言われているものです.同じように実朝さんの供養塔も言い伝えです.実朝さんの供養塔は神奈川県の秦野市に「御首塚」(みしるしづか=暗殺された実朝さんの首を安置したらしい五輪塔)と奈良県の高野山にもあります.ゲンボー先生 2003.6.5


源頼朝の本当の墓はどこにあるのですか?藤組 貴愛 2003.6.4

記録によると,頼朝さんのお墓も奥さんの政子さんのお墓ももとは勝長寿院(しょうちょうじゅいん)というお寺にありました.場所は釈迦堂切り通しに行く途中で滑川を渡ったと思いますが,大御堂というあのあたりだそうです.その後頼朝は法華堂(ほっけどう)に移されました.当時の身分の高い人のお墓は石ではなく,お堂をたててその中に葬ったのです.ですから頼朝さんの本当のお墓はその法華堂ということになります.ゲンボー先生 2003.6.5

頼朝さんお墓と言われる江戸時代の「供養塔」

天園ハイキングコースの途中にある墓などの近くにある、人の形の石に頭がないのですか?知ってる人は教えて下さい。(^ー^)見学で疲れた.欅A班 悠 2003.6.4

江戸時代のお地蔵様もよく頭がとれています.一番の原因は首の部分が細くて,地震の時などに倒れたとき折れちゃうんですね・・まして鎌倉時代となると・・どうでしょう?ゲンボー先生 2003.6.9


今、雨が降ってきましたこっちは、これから天園ハイキングコースに今から行くので大変だと思いますところで質問なんですが頼朝の墓にちゃんと頼朝の骨があるんですか? 欅組 星珠 2003.6.4

飯田君と陳さんの質問についてですが、去年の学習のページを読んでみてください。頼朝の墓については、いろいろな説があって面白いのですが、昨日見たものは、鎌倉時代に作られたものではないことは確かなようです。いつ、だれによって作りなおされたのでしょうね。渡瀬 2003.6.5

今回の鎌倉見学を終えて疑問に思った事があります。それは、鎌倉時代のお墓の建て方は、「五輪塔」と言われていますが、何故、源頼朝のお墓は「五輪塔」ではなく、江戸時代のお墓の建て方なんですか?ヒントでも良いので、教えて下さい。 萩組B班 唯 2003.6.5

ということは、鎌倉時代に作られた墓ではないのかもしれませんね。江戸時代のつくり方なのだとすれば、江戸時代に作り直されたということでしょうか。いつ、誰によって作り直された墓なのでしょうね。渡瀬 2003.6.5

みんなが言っている「頼朝の墓」はお墓と書いてあるから間違っちゃうので,供養塔(くようとう)だと思えばいいのです.案内の道標も「頼朝供養塔」とすればいいのにね〜.誰が作ったんだろう・・今のお墓じゃなかった供養塔・・ゲンボー先生 2003.6.5


鎌倉見学を終えて質問です。

1.釈迦堂切り通しは、落石の注意が必要な危険なところです。しかし、ここを開いた理由は他の地域との貿易のためと聞きました。わざわざ危険なところを貿易に使う道として使う必要はないと思います。確かに敵は攻めにくいとは思いますが、自分の地域の産業の発達の速度が遅くなると思います。

2.源頼朝は幕府を山に近いところに建てていました。しかし、敵が万が一山や海を越え、鎌倉に攻め込んだときに山の近くにあると逃げ道を失いやすくなると思います。切り通しはいくつかあったようですが、もしも敵にそこを封鎖されてしまったら、まともに戦うしか手段がなくなると思うのですが。藤組 Ryotaro

井端君のメールにも、同じようなことが書かれていましたが、よい所に目をつけています。そうですね。実は、それが裏目に出て、最後は幕府が滅びています。だから、幕府が滅んだ時のことも調べてみて下さい。そして、そう考えていくと、頼朝は、「三方が山、一方が海」という地形だけの理由で鎌倉を選んだのではなさそうですね。渡瀬 2003.6.4

今僕は、鶴岡八幡宮にいます。僕が疑問になったことは源頼朝は敵に襲われにくい地形に幕府を作ったと言われていていますが、僕が歩いたところは地形が悪く敵に襲われにくそうだったけど、襲われたときに迎え撃つときに味方も状況が悪かったと思います。欅組 康博 2003.6.4

攻めにくい所は守りにくい所でもあるのです.鎌倉の地形のことだけではなく,鎌倉の回り・・特に相模(さがみ=今の神奈川県)や武蔵(むさし=今の川崎・横浜と東京都,埼玉県)に目を向けて.どのように武士がいたのか,どんな武士がいたのかを調べてみてください.・・ちょっとむずかしいけど鎌倉に幕府を開いた大切な理由がわかると思います.ゲンボー先生 2003.6.5

1333年5月に新田義貞は鎌倉を攻めますが、極楽寺の切り通しを突破出来なかったらしく、稲村ヶ崎を通る海側の道を通り鎌倉攻めをしようと考えました。そこで海の神にお願いをしたところ潮がみるみる引いたのだそうです。それをみた新田義貞軍は6万余りにふくれあがり、鎌倉に乱入して行き鎌倉幕府を滅亡させたのです。しかし守る側はもう少し敵が攻め入る前になにか防衛手段はなかったのでしょうか? 藤組 健資 2003.6.9

新田義貞は鎌倉を攻めましたが、ほかにも、室町時代の中心人物ともいえる足利尊氏や楠木正成、後醍醐天皇なども六波羅探題などを攻撃しています。封建制度も元寇のあと崩れかけていましたので、世の中が混乱していて情報収集が間に合わなかったのだと思います。藤組 遼太郎 2003.6.9

これは、もう少しくわしく言うと、どういうことなの????封建制度って、なに???なんでそれがくずれたの????渡瀬 2003.6.9

元寇のあとご恩が少なかったため、武士が不満をいだきました。そこで幕府が徳政令を出しましたが、よけいに混乱してしまいました。藤組 遼太郎 2003.6.10

「徳政令」って、なに? 説明して下さい。渡瀬 2003.6.10

徳政令とは借金を返さなくてもよいことにするということです。しかし、この元寇のあとの場合は、武士の要求が土地だったため、混乱しました。藤組 遼太郎 2003.6.11

まだまだありますよ.武士の生活が苦しくなる理由は「大きな戦が少なかった」こともあるのです・・どうしてだろう?渡瀬先生の聞いている「徳政令」とも関係します.ゲンボー先生 2003.6.11

ヒントの写真をお見せしましょう.ゲンボー先生 2003.6.13

平塚市土屋にあるバス停です「庶子分」(しょしぶん)と書いてあります.

この近くに「惣領」(そうりょう)という地名もあります.庶子とか惣領ってなんだろ?

ヒントのヒント

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/kouan.html#gokenin1

 


鎌倉のまわりにいる源氏の味方の中でも強い武士はどんな人がいたのでしょうか。 芙蓉組 さつき 2003.6.4

やっぱり、関東地方にいる味方の武士というのは、頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由を考える上での大事なポイントですね。どんな味方がいたのでしょう。資料でも調べられるはずですから、みなさん是非調べて、わかったことをアップしてください。渡瀬 2003.6.4

これが頼朝さんが兵を挙げたときの(幕府を作る前の)関東地方の豪族です.

鎌倉の近くで一番力を持っていたのは三浦氏です.ゲンボー先生 2003.6.9

鎌倉のまわりにいる源氏の味方の中でも強い武士はどんな人がいたのでしょうか。(さつき)

玉川のホームページに書いてあったのですが.源氏、小山氏、千葉氏、三浦市、土肥氏、北条氏、熊谷氏、足利氏、葛西氏、江戸氏,大庭氏、河越氏等いたそうです 藤組 健資 2003.6.9

わたしも見ました。この中で一番力をもっていたのが、三浦氏だったみたいです。いまでも、地名に名前がのこっていますね。

芙蓉組 美菜子 2003.6.10

団結をさせるためあまり広くない鎌倉に幕府をひらいたという話も聞きましたが実際団結できたんですか?また、攻め込まれたとき武士達はどのようにきちんと団結して対応したのですか?  2003.6.10

「団結させるために広くない鎌倉に」、という意味がよくわかりません。鎌倉幕府に従う武士は、みんな鎌倉の中に住んでいたのでしょうか?渡瀬 2003.6.10

武士と一言にいってもいろんな立場の人がいたのです.将軍の直接の家来である御家人(ごけにん)は広い土地を持ち,村や人々を支配していました.しかし,中にはそれほど大きな土地をもっていない御家人もいて大小がありました.政治力や軍事力の強い御家人は幕府の重要な地位につきました.このような人たちは鎌倉の町の中に屋敷をもっていました.しかし,一般の御家人は自分の村にすんで,必要なときだけ鎌倉にやってきたのです.

さらに,こうした御家人に使える武士もいました.これもそれぞれの持っている田畑の広さで地位が決まりました.基本的に武士は全て農業が本職です.力のある御家人も御家人の家来もみんな田畑を持っていて,そこで収穫されたものを売って生活していました.ゲンボー先生 2003.6.13


鎌倉は、山に囲まれています。でも、その昔はお寺や建物が沢山あります。しかし、ここで問題があります。それは、今ではクレーンや、山にトンネルなどを作って材木などを持ち込めますが、鎌倉時代は現代のようにはできません。なので鎌倉時代はどうやって材木を持ち込んだかということがきになりました。芙蓉組 寛人 2003.6.4

その答えになるものを、昨日、見学で見てきませんでしたか?????渡瀬 2003.6.5

きっと滑川を利用していたとおもいます。奈良の大仏を作った時も川を利用し、いかだなどに材料を運んでいたといわれているので、同じようにしていたのではないでしょうか。地図をみてみると、滑川は鎌倉のほぼ真ん中を流れているようなので、どこからでも受け取れたとおもいます。芙蓉組

 美菜子 2003.6.6

滑川が海に流れ出たところの海岸は、なんと言う名前の海岸ですか。○○○海岸という名前がみつかります。なんかその海岸の名前からも武岡さんの考えの裏付けができるような気がしますね。渡瀬 2003.6.6

『材木座海岸』という海岸に流れ出るようです。その海岸沿いに材木を扱った組合があったのではないでしょうか。芙蓉組 美菜子 2003.6.10

滑川です.

滑川は小さな川ですが鎌倉にとってはとても大切な川でした.上流からいくつも名前が変わるのはそこにすむ人との関わりが大きかったからです.胡桃川(くるみがわ),滑川,座禅川,夷堂川(えびすどうがわ),炭売川(すみうりがわ),閻魔川(えんまがわ)と6種類もあります. ゲンボー先生 2003.6.13

鎌倉時代,日本は中国(宋)と貿易をしていました.中国からは「お金」「食器(青磁・白磁)」「香木(こうぼく)」「絹織物」などが輸入されていましたが日本からは「材木」「硫黄(いおう)」「昆布」「真珠」などが輸出されていました.なかでも材木が一番の輸出品で中国では日本の材木がなければ建物を建てることすらできなかったのです.それほど日本は森林が豊かな国でした.鎌倉の回りにも豊かな森があったことでしょうし,神奈川県には丹沢があります.また舟を使えば和歌山県や静岡県,長野県の材木を運ぶことも簡単です.問題は舟で運ばれてきた大きな材木をどうやって鎌倉の待ちに運び込んだかですね・・特に鎌倉時代の後期に作られた建長寺や円覚寺など大きな寺院は巨福呂坂切り通しのむこうがわにあります.ゲンボー先生 2003.6.13


稲村ガ崎の海岸の砂浜の砂鉄で武器などを作ったりするんですか? 欅組 悠 2003.6.4

中村さんのメールを読んでみてください。君はどう思う?渡瀬 2003.6.5

砂浜は砂鉄が混じっていましたがどうやって使ったんでしょうね?それをどうやって製鉄したんでしょうね?誰か教えてください。藤組 正篤 2003.6.5

砂鉄と砂と、どちらが重いでしょうね。その違いを利用して、砂と砂鉄をわける方法が考えつきませんか。渡瀬 2003.6.5

多分、戦うのに必要な武器等を作ったのだと思います。その頃一番武士が必要としていた武器といえば日本刀だと思うので、刀が砂鉄から一番多く作られた武器だと思います。また、武士は戦争の時以外は農業をしていたと言う事を考えると、そのための道具も砂鉄から作ったのではないかとおもいます。

それにどうやって製鉄したんでしょうね?

これについては、「たたら」という日本独特の製鉄法があるらしいのですが、良く分かりません。もう少し調べてみますが、分かる方は教えて下さい。あと、私の疑問としては、「砂鉄から武器を作るのは、誰がやっていたのか?そのための職人等がいたのだろうか?」と言う事です。もしも「たたら」によって製鉄するのに技術が必要ならば、その可能性が高いと思うのですが…。萩組 香住 2003.6.5

砂鉄と砂と、どちらが重いでしょうね。その違いを利用して、砂と砂鉄をわける方法が考えつきませんか。(渡瀬)

鉄として使えるのですから、砂鉄の方が砂よりも重いと思います。現在では、磁石を使った方法(「磁気選鉱」)が広く使われていますが、当時は「比重選鉱」と言い、砂鉄と砂との重さの違いを利用して、砂鉄と砂をわけていたようです(水を速く流すと、軽い砂は流れ、重い砂鉄は沈みます)。

ただ、具体的にどのような方法を使って比重選鉱を行ったのかがよくわかりません。比重選鉱法の代表格に「鉄穴(かんな)流し法」(砂鉄を含む砂を谷川に流す=軽い砂は早く下流に流し、砂鉄は底に沈んで溜まる)というものがあるようですが、この方法は戦国時代後半〜17世紀前半頃に考えられたようなので、鎌倉時代当時は違う方法によって比重選鉱を行っていたはずです。もう少し調べてみます。萩組 香住 2003.6.6

そう、その通りです。じゃあ、鎌倉時代はどうやっていたのか、、、、、。先生は何年か前に、あの浜で本職の刀鍛冶の方にお会いしたことがあります。その方は、今もあの浜の砂鉄から刀を作っていらっしゃいました。その方にうかがったところ、「・・・・・・・・・・じゃないかなあ、、、」とおっしゃっていました。それはごく自然な、あたりまえと言えばあたりまえの方法でした。どうんな方法だと思う????渡瀬 2003.6.6

それは、やはり比重選鉱によるもの、ですよね?萩組  香住 2003.6.6

映画の「もののけ姫」を見たことがありますか。あの中に「たたら」が出てきましたね。たたらについては、去年、一昨年の社会科のページの中でも調べることができます。小学部のホームページから、2002、2001年の社会科の学習のページに入って調べてみてください。わかったら、またネット上に報告してくださいね。渡瀬 2003.6.5

たたらについて知りたい人はここをクリック 「日立金属」

私の疑問としては、「砂鉄から武器を作るのは、誰がやっていたのか?そのための職人等がいたのだろうか?」と言う事です。もしも「たたら」によって製鉄するのに技術が必要ならば、その可能性が高いと思うのですが…

鎌倉には、「正宗の井」などのものが残っています。なにかヒントになるように思うのですが。渡瀬 2003.6.5

どうやら、刀などを作る職人は、その頃にもきちんといて、そういった職業の人達を刀工(とうこう)、または刀鍛冶(かたなかじ)といったようです(三省堂「新明解国語辞典」によると、「刀鍛冶」とは、「刀を鍛えて作る職業の人。」)。

ちなみに、正宗(まさむね)は鎌倉時代末期の刀工で、藤三郎行光の子供。「正宗の井」は、正宗屋敷の跡といわれる場所にある、正宗がその水で刀を鍛えたという井戸だそうです。この様なことからも、鍛冶業が盛んであったことがわかると思います。参考

http://www3.justnet.ne.jp/~ikeyoko/ARE-AAA.HTM

http://daddy.fc2web.com/kamakura/well/index2.html

萩組  香住 2003.6.6

その正宗が作った刀は、その後、名刀正宗として戦国大名の間でも宝物のように大切にされてきたそうです。上野の国立博物館で見たような気がしたのですが、インターネットの所蔵品検索では名刀正宗はみつかりませんでした。根津美術館にあるという情報をインターネットで見ました。あらためて見てこようかなあと思っています。

そうそう、上野の国立博物館では、鎌倉時代の禅宗についての特別展が開催されていますね。この時代、なぜ禅がはやったのでしょう。武士の生き方と禅宗がどこかあい通じるものがあったのでしょうね。興味のある人は是非上野の国立博物館へ。私も期間中に是非行ってみたいです。7月の初旬までだったように思います。渡瀬 2003.6.6

鎌倉時代になると日本の各地で鉄が作られるようになります.「たたら」を使った製鉄では主に刀などの高級な刃物の材料を作っていました.鍋や釜,それに包丁や釘といった生活に必要な鉄製品はもっと簡単に作られていました.鉄を作り溶かし製品を作る人のことを鍛冶(かじ)といいます.鎌倉時代は鍛冶たちが舟で各地を回りながら鉄製品を作っていたという記録が残っています.鎌倉にも来たことでしょう.鎌倉は人口の多い町でしたから中には住み着いて鉄製品を作っていた人もいたはずですね.稲村ヶ崎の砂鉄は良質ですからそれを使えば良質の鉄製品ができたかもしれません.ゲンボー先生 2003.6.13


今僕達(萩組B班)は、鶴岡八幡宮にいます。だんかずらは、なぜ幅が違うのですか。先生は教えてくれませんでした。萩組B班 周平 2003.6.4

夏美さんのお母さまから貴重な御意見が寄せられています。是非読んで考えてみてください。

6年生のみなさんへ

鎌倉見学、大変有意義に過ごしていますね。先程「段葛」のことで、質問がありましたので、知っている事を送信します。段葛は、寿永元年(1182年)、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、妻である政子の安産祈願の為造営させた参詣道です。もとは由比が浜まで続いていたそうですが、横須賀線の敷設などにより、現在の規模になったそうです。

幅が狭くなっていくのは、遠近法の原理で社殿を遠く見せ、神と人間との距離を感じさせ、神の崇高さを表現したとか、押し寄せる敵軍を防御するためとも言われています。 芙蓉組 夏奈美 母より  2003.6.4

段葛のある若宮大路の両側は交差点をのぞいて大な土塁(どるい)で囲まれていました.今日お店が並んでいるあの部分ですね.武士の屋敷や役所はその土塁の外側にありましたから,鎌倉時代にタイムスリップして若宮大路に立つと道の両側は壁という光景です.回りから敵が攻めてきたときにはストレートに若宮大路は入れない構造だったのです.万が一敵が若宮大路に入ってきたときに八幡宮の方を見たら実際より遠くに見えるのです.夏美さんのお母様が書いているとおり「押し寄せる敵軍を防御する」構造だったのです.ゲンボー先生 2003.6.5

段葛(だんかずら)


質問です。源氏は頼朝が幕府を開いてから、三代目の実朝が暗殺されました。しかし、その後北条氏が執権の役職として力をつけました。しかし、元寇の時などは元の皇帝フビライハンが北条時宗に手紙を送りました。執権の役職なのになぜ、ここまで力をつけたのでしょうか?藤組 遼太郎 2003.6.6

これまたよい質問ですねえ。

ところで、北条氏が執権の職について権力をふるっていたころは、将軍はどうなっていたのでしょうか。将軍はいたの?いなかったの?渡瀬 2003.6.6

ちょっむずかしいですけど,鎌倉幕府の組織の移り変わりのページがあります.http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/sanetomo/change1.html

それと幕府ができるときの豪族の動きをまとめたページがあります.こちらを読めば北条氏が力を付けたいきさつや理由が分かると思います.

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/sagami2/index.html  ゲンボー先生 2003.6.9

調べたところによると名前だけの将軍を使い実際には執権の役職の範囲を越えた政治をしていたようです。しかし、名前だけの将軍を使った北条氏の政治に対してなぜ、1333年の後醍醐天皇を中心とする反乱までに、反乱がなかったのでしょうか。もしかしたら、六波羅探題が関係してくるのでしょうか。承久の乱は後鳥羽上皇がおこしたものなので、正式には武士ではないと思います。藤 遼太郎 2003.6.9

朝廷は、いつもどんな気持ちで鎌倉の政治を見ていたのでしょうね。好意的に見ていたのでしょうか。それとも、いつかは取りかえしてやろうという気持ちでいたのでしょうか。承久の乱も、後醍醐天皇の反乱も、政治を朝廷に取り戻したいということにおいては、同じだったと思います。

渡瀬 2003.6.9

やはり 承久の乱までは、北条氏の(幕府の)権力が強すぎて手出しできなかったのではないでしょうか?藤組 健資 2003.6.10

承久の乱も武士の助けがなければ起こせなかったものです.朝廷による反乱?は1333年まで行われませんでしたが,それは遼太郎君が書いているように六波羅探題の働きもありました.それだけ幕府(武士)の力が大きくなったことを表しています.しかし,北条氏が力を付けた理由は他にもあります.武士同士の社会にその答えがあります.武士同士の争いが何回あったか?誰と誰が戦ったのかを調べてるとわかると思います.ゲンボー先生 2003.6.11


かまくら見学を終えて思った事があります。それは、切り通しの事です。それは、なぜ7つしか作らなかったか?あと、戦の時仲間が来た時敵と間違えないようにどうしていたのか?の二つを疑問に持ちました。わかる人は教えて下さい。欅組 康博 2003.6.10

切り通しは、関所のような役目をはたしていたのかなあ。どんなふうにチェックしたのでしょうね。渡瀬 2003.6.10

化粧坂切り通し・極楽寺坂切り通し・亀ヶ谷切り通しの写真をのせました.よーくみるとここにも答えがあるよ.ゲンボー先生 2003.6.11

 

    

化粧坂切り通し       極楽寺坂切り通し

亀ヶ谷切り通し


緑町小学校の宗田といいます。今、鎌倉時代について調べています。そこで質問なんですが、『なぜ鎌倉に幕府を開いたのですか?』それと、『源頼朝はどんな政府を行ったのか?』最後に、『貴族はどうなったのか?』知ってる人は、教えてください

!!!!!!!!!!!!!緑町小学校 宗田 2003.6.8

宗田君

君の質問に対して玉川学園の子が返事をくれました.参考になりますか?

君たちも,考えたことを送ってください.ゲンボー先生 2003.6.16

 

『なぜ鎌倉に幕府を開いたのですか?』緑町小学校 宗田さんの質問

この問題の答えは複数あります。私の考えは

1.砂鉄の多い砂浜

  鎌倉の近くの稲村ケ崎の海岸の砂浜には、普通の砂とまじって砂鉄があります。その砂鉄は武士に必要な刀などの原料となるので、幕府の近くで原  料がとれるというのはとても便利です。このことが理由の一つとおもわれます。

2.三方が山、一方が海と言う地形

  鎌倉のまわりは三方が山、一方が海に囲まれていて、守りやすい地形だったので、これも、理由の一つだとおもいます。

  (でも、最後にはこれが裏目にでています。)

3.味方の多さ

 鎌倉のまわりには三浦氏などの強い武士団がいて、その武士団は、自分たちの土地をみとめてもらうために味方だったので、まわりの守りをかため   られるので、理由の一つだとおもわれます。

4.滑川の利用

  鎌倉の町の中心には滑川が流れています.この滑川は物資輸送にとても便利でした。このことも、理由の一つではないでしょうか。

  (滑川の使用法は流れ出る海岸の、『材木座海岸』という名前からも、うかがえます。)

5.朝廷のある京都から離れていたほうがよかった。

  この理由は複数あります。

  1.京都には朝廷があって、京都に幕府を開くと、近くに敵がいて攻められやすかった。

  2.京都では、お寺が政治に口出しをしているので、頼朝の政治にくちだしをさせないため。

  3.平氏は、最初は源氏に勝ったのに調子にのって、貴族のような暮らしをしていて、なまってしまって最終的に源氏に負けてしまったので、

   同じような失敗をしないようにするため。この5つの理由が主な理由だと思います。玉川学園小学部 6年芙蓉組 美菜子 2003.6.15

 

あと他にも次のような理由が考えられると思います。

6. 兵農一致

 しかし、鎌倉はそんなに広い土地ではありません。はっきり言って、狭い方だと思います。では、なぜ、わざわざそんなに狭い場所に、幕府を開いたのでしょうか?

 「兵農一致」とは、普段は農業をして自給生活(自分達で農業等をし、生活に必要なものを作って、それで生活する事)をし、武力が必要な時だけ武士になることです。源頼朝は、武士達(特にそれほど位が高くない者)に消費生活(仕事をして給料をもらい、その給料で生活に必要なものを買って生活する事)をさせず、自給生活をさせ、兵農一致をさせようとしました。しかし、高い位の人々までが、みんな自給生活をしていたかと言うと、そうではありません。また、政治の中心である幕府では、色々な物が流通しています。つまり、幕府がおいてある鎌倉の中は、色々な生活用品が出回っていると言うことです。ですから、そういった武士達を鎌倉の中に住まわせてしまうと、結局消費生活を始めてしまうかも知れません。だから、源頼朝は、そう言った位が低めの武士を、鎌倉には住まわせず、その周辺に住まわせました。そして、武力が必要な時のみ、「いざ鎌倉」と言って、皆で鎌倉に集まり、戦争をしたのだと思います。そして、そのためには、政治・流通の中心地は、狭い方が良かったのだと思います。

7. 交通上の要地

 鎌倉は、都からは遠く離れていましたが、東海道に近く、交通上の要地でした。鎌倉は、都と東海道のちょうど真ん中辺りに位置していたのです。

8. 西日本から離れていた方が良かった

 源氏は、平氏を西へ西へと追いやっていき、最後には平氏に勝ちました。そのため、西日本には平氏が沢山いました。ですから、源氏である源頼朝は、平氏が沢山いる西日本に近づかず、そこから離れている東日本の方で政治を行おうをしたのだと思います。

 また、「3. 味方の多さ」の補足説明ですが、鎌倉のあった東国(今の関東地方あたり)は、元から源氏の根拠地だったのです(前述の通り、平氏と戦い、平氏を滅ぼしたときに、源氏は西へ西へと平氏を追いやって行ったので、自然と反対側の東が、源氏の根拠地となった)。だから、鎌倉には源氏の知り合いが沢山いました。誰だって、とってもいい地形をしていて、とっても戦うのに良い場所でも、見ず知らずのところには行きたくありませんよね。だから、私は、この理由が、一番大きなものだったと思います。玉川学園小学部 6年萩組 香住 2003.6.15

さらに

9.銭洗弁天などから出る井戸水がきれいで多量だったことほかにも「鉄の井」など鎌倉近辺の町中に数多く井戸があります。

10.稲村ヶ崎近辺から船をこいで別の陸に移動できる海上交通手段があります。

  話は変わりますが、この海岸で大船をつくり実朝は中国に渡ろうと考えたこともあったそうです。玉川学園小学部 6年 藤組 健資 2003.6.15


授業に出たのですが、なぜ兵農一致をするために土地の狭い鎌倉を選んだのでしょうか?僕はすぐにいろんな場所に狭ければ行きやすかったのではないかと思います。藤組 健資 2003.6.11

上(幕府を支えた関東の武士のこと)で説明したところを読んでみてください.ゲンボー先生 2003.6.15


戦の時仲間が来た時敵と間違えないようにどうしていたのか?の二つを疑問に持ちました。わかる人は教えて下さい。証明書の様な物を持ってい無いとその通りを通る事が、できなかったんじゃないでしょうか。shouhei 2003.6.11

けれど上から攻撃をしたり不意打ちをした時に見せるひまは、なかったのではないのでしょうか?僕の考えは、切り通りの前できめられた暗号を言えたら味方、言えなかったら敵と区別をしていたのではないでしょうか? 欅組 康博 2003.6.15

僕は、見方は全員、共通するマークや鎧などを身につけていたのだと考えました。そうすれば、見ただけで味方か敵かを区別できたのではないでしょうか?欅組 裕彬 2003.6.13

源氏の仲間であれば同じ源氏の旗をもっているのではないでしょうか? 藤組 健資 2003.6.13

わたしは田中くんの意見と同じです。また、大菅くんのように、旗などでも…。とにかく、見ただけでわかる何か、だと思います。とりあえず、わたしは田中くんと同じ鎧だったと思います。萩組 もも子 2003.6.13

私も3人と同じ意見です。旗か、鎧かはわかりませんが、一目でみて、みつけられるものだったとおもいます。共通するマークというのは、源氏の家紋の笹竜胆(ささりんどう)だとおもいます。芙蓉組 美菜子 2003.6.13

でも、偽者の旗をつくられたらどうするんですか?@shouhei@ 2003.6.13

たしかにそれをやられたら、やられると思います。だけれど、僕の考えは時間制だとおもいます。 英治 2003.6.13

時間制ってどんなものですか?@shouhei@ 2003.6.13

けれど時間制だったら昔は今みたいな時計はなかったし、せめてでも日時計だったから太陽がでてなっかったらだめだから、時間制ではないと思います。欅組 康博 2003.6.13

けれど切り通りの上か不意打ちだと、 切り通りの上からだと家紋は見えなくて不意打ちだとわからないと思います。僕は、鎧より兜の形か大菅君と同じのはただとおもいます。欅組 康博 2003.6.13

この意見には一つ問題があると思います。それは、下級武士の中には鎧を付けていない者も多かったようです。すると、上級武士はいいですが・・・藤組 遼太郎 2003.6.13

この意見には一つ問題があると思います。それは、下級武士の中には鎧を付けていない者も多かったようです。すると、上級武士はいいですが・・・藤組 遼太郎 2003.6.13

この意見から,家紋やマークではないことがわかりました.だから,旗とかやっぱり声で暗号を言うとかにしぼられました 欅組 康博 2003.6.14

旗はわかりますけど、暗号を言うということはちょっと・・・なぜかと言うと、暗号を言う時に、敵に盗み聞きされたらまずいと思うからです。暗号を変えるといっても切り通しを通る人は沢山いたわけですから、全員に伝えるのは難しいのでやっぱり旗だと思います。欅組 裕彬 2003.6.14

源頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由がこれで一つ増えたと思います。それは、皆に旗のマークを覚えさせると、敵の侵入を防ぐことができる事が出来るから、と言う理由です。みなさんは、これを正しいと思いますか??藤組 遼太郎 2003.6.14

僕は,普通です.それは旗で賛成なんですけど,もしマークが敵にばれてしまったら味方はマークをかえるけどその新しいマークが味方に伝わるのが遅くなってしまって敵味方の区別が分からなくなっておおごとになってしまうと思うからです.欅組 康博 2003.6.14

私も、井畑君と同じような意見です。(いきなり話しに入るようですいません。)欅 果奈 003.6.14

僕も井端君と同じです。マークが敵にばれるということもありますし、旗は戦闘のときに邪魔だと思います。小さな旗なら問題はないんですが、やはり不意打ちや切り通しの上で待ち伏せしている時などは小さいと見にくいので、大きい旗だと思います。欅組 裕彬 003.6.14

源氏の家紋だと言われる笹りんどうは江戸時代に考えられた物だと聞いています。藤組 健資 2003.6.14

しかし、その証明書の様な物がどういう物かが敵に分かってしまったら、にせを作って通る事が可能になるのではないでしょうか?欅 果奈 2003.6.14

そう言う秘密がもれないように源氏と近辺の豪族の仲を良くしたのではないでしょうか?さらにすぐに秘密を漏らそうとしている人が鎌倉内にいることが、すぐにわかるように狭い鎌倉を選んだと言うことも考えられます。 藤組 健資 2003.6.14

藤組の健資君が書いているとおり,この時期の武士は家紋をつけていません「ささりんどう」の紋も江戸時代の人が他の源氏の家紋を頼朝さんに当てはめたので,頼朝さんは」紋を使っていません.源氏の白旗や平家の赤旗は陣の目印で個人の目印ではありません.この時代個人の目印は亡かったんだよ・・ではどうやって敵味方を区別したのか?それはね,戦い方に答えがあるのです.後に元寇と言ってモンゴルが攻めてくるでしょ?あのとき日本の武士(御家人)は一人一人が敵の前に出て「やあやあわれこそは・・」と名乗りを上げました.これはわざわざ的になりに出ていくようなものです.はじめの頃はそうして日本の武士は敵に討たれたのでした・・そのときの記録に「どうやら敵(モンゴル)は戦の時に名乗りをあげないようだ・・なんとかわっているのだろう・・」と書いてあります・・皆さんはどっちがかわっていると思いますか?

でも,その日本の武士のとった行動こそが,今君たちが知ろうとしていることなのです・・・そしてこの時代の勉強をする上で最も大切な答えがかくされているのです.ゲンボー先生 2003.6.16


1攻め込まれたとき鎌倉にはどのくらいの助けがきたのですか?

2源頼朝はどうやって亡くなったのですか? 航 2003.6.15

2は普通に寿命をまっとうしたと思います

頼朝は1199年53歳で亡くなったと書いてあります.欅組 眞司 2003.6.15

1については調べなくては・・・・2については落馬が原因でしばらくしてから亡くなったと言う説やガンだったと言う説などいろいろな原因が考えられていているそうです。藤組 健資 2003.6.15

頼朝は相模川にかかる橋の完成祝いに出たあと,落馬して意識不明になり一月後に亡くなりました.現代のお医者さんがそのときの記録を調べてどんな病名(状態)で死んだか調べましたが,正確には分かりません.「落馬による脳内出血」という説もあるし,逆に「脳の病気になって落馬した」「心臓病」・・いろいろです.はっきりしないために「毒殺」説もあるくらいです.ただ,奥さんの北条政子さんは口移しで水を飲ませたり,いっしょうけんめいに看病したと記録が残っています.ゲンボー先生 2003.6.16


鎌倉誕生はいつか?と疑問に思いました。

調べると

1880年・・・源頼朝が鎌倉に侍所を設置し、南関東を支配する

1883年・・・頼朝朝廷から東国支配を許される

1884年・・・公文所・問注所が設置される

1885年・・・頼朝、守護地頭の任免権をとる

1190年・・・右近衛大将になる

1192年・・・頼朝征夷大将軍になる

とありました。

どれが一番鎌倉幕府を開いたと言える場所でしょうか?「イイクニつくろう鎌倉幕府」という歴史暗記言葉もありますが・・・藤組 健資 2003.6.15

健資君,いいところに気がつきましたね・・どの教科書を見ても1192年と書いてあります・・しかし・・これは今ではとても大きながつくということになっています.学者によってはほとんど意味のない年とまでいわれています.ですからロンドンにある大英博物館で行われた「日本の特別展」では,はっきりと「鎌倉幕府の始まりは1185年」と書かれました.それが最新の説だからです・・・なんでだろう?

また,君たちにはちょっと難しいかもしれませんが,「征夷大将軍になって幕府を開いた」ということもなのですよ・・これについては「どうしても知りたい!」という人がいれば個人的にお答えします・・ゲンボー先生 2003.6.16


いろいろ面白い疑問が出され、それに対して意見のやりとりがされていて面白いですね。授業中にはここまで話している時間はないだけに、ネット上での学習は有意義です。

ところで、質問をする場合には、タイトルを具体的にしましょう。たとえば「質問」とか「疑問」というタイトルではなくて、「切り通しを通過する時のチェックは?」とか、「頼朝はなぜ亡くなったのですか」というようなタイトルにしてみましょう。そうすると、それに返信をかけていった時にどの内容に対する返信かがはっきりします。そういえば、土曜日のアド街ック天国という番組で、北鎌倉の特集をやっていましたね。 渡瀬 2003.6.15


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