新田義貞の鎌倉ぜめ

1333年、鎌倉幕府は新田義貞に攻められて150年間の幕を閉じました。義貞の軍勢は現在の群馬県新田郡とその周辺の武士を中心に極楽寺坂を攻撃しましたが、守りも固くなかなか突破できませんでした。そこで、義貞は稲村ヶ崎に出て神様(八幡大菩薩=はちまんだいぼさつ)に「この潮を引かせたまえ・・」と刀を投げ入れ祈りをささげました。すると潮はみるみる引いて徒歩で鎌倉側に入ることができたと言われています。

多くの武士は内陸育ちですから、生まれてから一度も海を見たことがありません。しかし、新田義貞は鎌倉に来ていたことがあるので、潮の満ち引きを知っていたのです。義貞はうまく時間を見て家来達の見ている前で刀を投げ入れたのだと思います。頭がいいですね・・・

とにかく、このことをきっかけとして、鎌倉の町の中に多くの軍勢が攻め込み戦場となりました。太平記には火の手があちこちから上がり、たくさんの人間が死んだと書いてあります。北条高時やその家来達は「葛西が谷」にある東勝寺で自決し、その以外は「腹切りやぐら」にほうむられたと言われています。

稲村ヶ崎の浜辺は今も同じように波を寄せていますが、皆さんはその音を聞きながら700年前にここでおきたことを想像できますか?

参考 新田義貞の鎌倉ぜめ