倶利伽羅峠(くりからとうげ)

 

倶利伽羅峠から見た加賀側(石川県)こちらから平家がやってきました.

倶利伽羅峠から見た越中側(富山県)こちらから源(木曽)義仲の軍隊がやってきました.

峠とは言っても,ゆるやかな山で頂上附近も平たんな感じです.ですから古い道がたくさん残っています.この道もそのうちの一つで鎌倉時代の街道の雰囲気を残しています.

両軍の合戦の記念碑です.

源(木曽)義仲の軍勢が陣をかまえたと言われる場所にあった石の社です.

木曽の軍隊は牛の角に松明(たいまつ)をつけて,平家の陣地に突撃させたと言われています.これは,その模型.カワイイ牛ですね.

源(木曽)義仲の軍勢は平維盛がひきいる4万の軍勢をこの倶利伽羅峠で破りました.その勢いで木曽の軍勢は一気に京都へ攻めこんで,平家一族はわずか6歳の安徳天皇と三種の神器を奉じて,六波羅にあった館に火をつけて西国に逃げます.

この出来ごとに前後する年表            

1180年

8月17日

頼朝が伊豆で兵を挙げる

8月23日

頼朝が石橋山の合戦でやぶれる

8月末

頼朝が安房(千葉県南部)に逃れる

9月

源義仲が木曽で兵を挙げる.源信義が甲斐で兵を挙げる

10月6日

頼朝が関東の武士を率いて鎌倉にはいる

10月18日

富士川の合戦で頼朝軍の勢いに平家の軍が戦わずに逃げる

11月17日

頼朝が侍所を設置.和田義盛を別当に任じた

12月12日

頼朝は幕府のもとになる,大倉の御所に移った

1181年

6月

木曽の源義仲,甲斐の源信義の連合軍が越後の平氏勢力を破った

1182年

2月

頼朝と義仲の仲が悪くなる.義仲の長男(義高12歳)と頼朝の長女(大姫6歳)を結婚させて和ぼくする.

5月11日

義仲の軍隊が倶利伽羅峠で平維盛の軍勢を撃ち破る

7月25日

平氏は安徳天皇,三種の神器を奉じて西海に都落する

1184年

1月20日

源範頼・義経の軍が京都の宇治,勢多で義仲軍を破り,義仲は粟津で戦死する.

1月26日

頼朝が正式に平氏追討の宣旨を受ける

2月7日

源氏軍が一ノ谷で平通盛,忠度,敦盛ら1000人以上を討ち取る

4月

頼朝が木曽義高(義仲の長男14歳)を暗殺する

9月3日

後白河法皇が義経を特別に従五位とし,太夫判官とした

10月

頼朝が公文所・問注所を設けた.大江広元・三好康信をそれぞれ長官に任じた

1185年

2月19日

義経が屋島を奇襲して平氏が敗走する

3月24日

壇の浦で源平最期の合戦が行われる.兵士は全滅し天皇は入水する

4月27日

頼朝が二位に叙せられる.公文所を政所とよび改める.

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制作・著作 玉川学園 多賀譲治