人々に広まった仏教

 

(仏教以前)もっとも古くから日本にあった宗教「神道」

宗教は人の心を助けるものです.日本には古くから神社に代表される「神道」(しんとう)が長い間信仰されてきました.君達の家の近くにも神社があるでしょう?お参りしたことがありますか?鈴を鳴らして,手をポンポンとたたいてお願いごとをしたことがあるでしょう.それが神道なのです.

神道の歴史は古くて,少なくとも弥生時代には「鳥居」(とりい)の原型があったことが確認されています.じっさいには縄文時代から続いてきたものとかんがえられています.

神様は主に自然にあるものです.たとえば太陽・月・星・山・石・滝・カミナリなどなどです.太陽の神様は女性です.名前を「天照大神」(あまてらすおおみかみ)といいます.月も女性です.名前は「月読姫」(つきよみひめ)です.日本人は自然の恵みを受け,また自然の災害も受けてきましたから,こうした神様に「たくさん農作物が取れますように」とか「命をまもってくれますように」とか「幸福になりますように」とお祈りしたのです.

中には「菅原道真」(すがわらのみちざね)という人の「たたり」を恐れて作られた神社もあります.菅原道真は学問ができたのでいまでは受験生の味方となって,全国でおまいりされれていますね.「天神様」(てんじんさま)がそうなのです.新しいところでは,明治神宮は明治天皇が神様として祀られて(まつられて),乃木神社は乃木大将が軍神として祀られています.

「困ったときの神だのみ」という言葉がありますが,日本人は昔から何かあるたびに神様にお願いをしてきました.先生もちょくちょく神様にたのみごとをすることがあります・・・

中国からやってきた仏教

さて,仏教は紀元前400年ごろに実際にインドにいた「仏陀」(ブッダ)という人の教えが広まったものです.ブッダはシャカ族の王子でしたから「お釈迦様」(おしゃかさま)ともいいます.聞いたことがあるでしょ?
仏陀は「人はなぜ生きるのか」「人としてより良く生きるとは」ということを深く考えた人で,たくさんのお弟子さんが仏陀のもとで勉強をしました.

仏陀の死後はそのお弟子さんによって仏陀の教えを文字に書いてまとめました.これが「お経」です.お坊さんが「なんじゃ〜〜もんじゃ〜〜〜」といっている「あれ」です.聞いていると何を言ってんだかよく分かりませんが,じつは仏陀の教えを唱えているのです.

インドやパキスタンで作られたお経は三蔵法師(さんぞうほうし)によって中国に渡り,そして日本にやってきました.日本では古墳時代の終わり頃のことです.この尊い教えを国の根本にしようとしたのが聖徳太子(しょうとくたいし)です.

その後,日本では貴族や天皇によって仏教が信じられ,奈良時代になると聖武天皇が全国に国分寺(こくぶんじ).国分尼寺(こくぶんにじ=女性のお坊さんがいるお寺)を作らせました.

やがて平安時代になると,京都の近くには天台宗(てんだいしゅう)のおおもとである比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)が最澄(さいちょう)というお坊さんによって作られ,和歌山県の高野山(こうやさん)には真言宗(しんごんしゅう)のおおもとである金剛峰寺(こんごうぶじ)が建てられました.

これらのお寺は信者である貴族や天皇がお金を出したり,広い領地を与えてまもりました.また地方でも力のある豪族(ごうぞく=広い農地を持っている大農家)がお寺を建てました.こうした身分の高い人の間には確実に仏教は広まっていったのです.

しかし・・・・

なかなか広まらなかった,初めのころの仏教

こうして国の方針として仏教が守られ,お寺も各地に建てられたのですが,ふつうの人々にはお経の意味もよく分からないし,神様とのちがいもよく分かりませんでした.ですから仏教といってもたくさんいる神様の一つとしてお参りされていたにすぎなかったのです.

ところで平安時代の終わりごろから鎌倉時代になって,戦争やききん(洪水や日照によって農作物がとれなくなること)が続くと世の中が乱れてきました.律令(りつりょう)という法律があるにはあったのですが,まもられませんでした.弱肉強食(じゃくにくきょうしょく)の時代というわけですね.

みなさんは「安寿と厨子王」(あんじゅとずしおう)の話を知っていますか?お父さんが地方の役人になるために家族で旅に出たところを,悪い山賊におそわれて安寿も厨子王もさらわれてしまう悲しい話です.あの話はじっさいにおきた事件をもとに作られているのです.京の都では貴族が豊かな生活を送っていましたが.ちょっと地方に行くと誘拐(ゆうかい)・殺人などがそれほど珍しくはなかった時代なのです.自分の土地や家族は自分で守る・・・ということだったから平安時代の後半から武士が現れたのです.

また疫病(えきびょう)や災害も多く,ひとたび伝染病(でんせんびょう)が広がると多くの人が死にました.死んだ人はろくにお墓も作られず穴の中に放り込まれて埋葬(まいそう)されました.道ばたに死体が転がっていると言う光景もそれほど珍しいものではなかったのです.洪水や台風や地震(じしん)などにも無防備(むぼうび)で多くの人が一度に死にました.先生のページ「由比が浜の墓地群」を見て下さい,そうした死に方をした人々の墓地のあとです.今と違って「死」は人のすぐそばにあったのです.

庶民の心の支え「新しい仏教」の誕生

こうした世の中に「仏陀の教えによって人々の心を救う」ことを目的に新しい宗教が誕生しました.


まず初めに法然(ほうねん)によって浄土宗が生まれました.その教えを引きつぎ武士や庶民に更に分かりやすく仏陀の教えを説いたのが親鸞(しんらん)でした.親鸞が開いた宗派(しゅうは=宗教のグループ)が浄土真宗です.これらの宗派は「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と唱えるだけで死んでから極楽にいけますよ・・・というわかりやすい教えで急速に庶民や武士に広まっていきました.
同じく一遍(いっぺん)は念仏踊り(ねんぶつおどり)によって極楽にいけますよと唱えました.「南無阿弥陀仏」を唱えながら踊るのです.今日歴史の資料としても第1級の絵巻物である「一遍聖絵」(いっぺんひじりえ)には,各地で一遍がひきいるおぼうさんや,庶民が踊念仏(おどりねんぶつ)をしている場面をみることができます.
念仏とは対照的に「黙って」「座って」自分を見つめる「禅」(ぜん)の教えも中国から日本に伝わりました.栄西(えいさい)の開いた臨済宗は北条氏によって守られました.鎌倉に臨済宗のお寺が多いのはそのためです.臨済宗は特に上級の武士に信じられました.
同じ禅宗(ぜんしゅう)でも道元(どうげん)の開いた曹洞宗(そうとうしゅう)は地方の武士に広まりました.
そして若い頃比叡山でまなんだ日蓮(にちれん)は「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)というお経の題目(だいもく)を唱えさえすれば,人も国も救われると唱えました.日蓮ははげしい人で,他の宗派を攻撃しました.そのために何度か捕らえられ佐渡島(さどがしま)に流されもしました.命がうばわれそうになったこともあるほどです.

 

南無阿弥陀仏とひたすら唱えることによって人が救われると説いた.

一遍はそれに踊りを加えて,我をわすれて念仏を唱えて,楽浄土(ごくらくじょうど=天国)にいけると説いた.

浄土宗

法然

1133〜1212

浄土真宗

親鸞

1173〜1262

時 宗

一遍

1239〜1262

貴族

武士

庶民

座禅(ざぜん)というきびしい修行をつんで自らの力で悟り(さとり)をひらき,仏の道にちかずこうとした.その気風から武士に多く信じられた.

臨済宗

栄西

1141〜1215

曹洞宗

道元

1200〜1253

武士

数あるお経の中で法華経だけが仏陀の教えの真理を伝えたものだとして,南無妙法蓮華経と唱えれば国も人も救われると説いた.

日蓮宗

日蓮

1222〜1282

武士

庶民
お経の意味を知って「仏陀」の教えを学ぶと言うよりは,「信じることが大切」とか「修行をつむことが大切」といった,庶民や武士にも「分かりやすい」ものになっていますね.神社に行って手を合わせてお祈りをするのと近い感じです.難しい仏陀の教えも,鎌倉時代には新しい感覚を持ったお坊さん達によって,「分かりやすく」「受け入れやすい」形にされて人々に受け入れられていきました.


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 制作・著作 玉川学園 多賀譲治