醤(ひしお)について

玉川学園中学部 2年ロッキー組 Y.M.


醤は、鎌倉時代まで食べ物に味付けされていなかったので(好みで味付けしていた)それの調味料として使われていた。今でいう塩、醤油、酢などのものだ。

醤というのは穀醤で、醤油と関係がある。それは、醤は、米や麦、豆などを発酵させてから塩を含ませたものでそれからとれる液体が醤油だからです。

奈良時代から約100年−平安京の東西には市が立ち、東市には醤店・西市には味噌店が設けられ、醤に漬けた各地の魚も売られたということです。また、役人の給与の一部として醤が支給されたともいわれます。醤はもう生活必需品として、経済的にも地位を確立してきたのです。


醤の歴史

 日本では、魚を材料とした醤のたぐいが縄文(じょうもん)時代末ごろからあったといわれます。

             主な醤の種類

 アジアで好まれ、発展した醤は”魚醤(ぎょしょう)”と”穀醤(こくしょう)”ですが、そのうち日本に伝来して独自の発展をとげたのは”穀醤”でした。−これは、仏教の影響で菜食が主体となった日本人の食生活によく合うこと、魚醤よりもずっと保存に有利であること、などによると思われます。

 もっとも伝来当初の穀醤は、今のしょうゆの原料のような大豆と小麦をあわせたものではなく、大豆単独のものだったのです。

奈良時代になると、『大宝律令』には醤を扱う役所の部門が定められるまでになります。当然、醤の種類もふえ、その原料も大豆・米・麦・糯米(もちごめ)などが用いられ、市(いち)でも売られたことが記録から分かります。

 

溜(たまり)の誕生

 

 鎌倉時代に入ると、溜が出現します。これこそしょうゆのもとになった調味料といってよいでしょう。建長元年(1249)信州の禅僧、覚信(かくしん)が中国から”径山寺 (きんざんじ)(金山寺)みそ"の製法を持ち帰り、紀州の湯浅(ゆあさ)でその製法を村人に教えているうち、桶の底に分離した液で食べ物を煮るとおいしい、ということを発見したことから後世の”溜しょうゆ”状のものが誕生したといわれます。これは湯浅で売りだされたということですが、この時代、まだしょうゆとみそは完全に別物とはなっていません。これは、おかずや戦陣食として食べられていた。味噌を使った味噌汁になるのは、室町時代になってからです。

 

      

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