鎌倉時代に日本の米作りは進歩しました

玉川学園中学部 2年ロッキー組 Y.M.


 広大な開拓地であった関東平野や東北地方では農民が自らの土地を守るために武装し「武士」となりました.これらの武士は都から役人としてやってきた貴族や皇族の子孫を「棟梁」(とうりょう=組織をまとめる主人)として結束を固め「武士団」を形成しました.平氏や源氏はその代表といえます.

このように武士が力を強めると,今まで貴族や寺社の所有物だった荘園に地頭という形で武士が進出してきました.武士は自分達の取り分を増やし,経済力を強めるために当時最大の産業であった農業生産高をあげるために努力しました.

その結果として「農業技術」が進歩し,西日本では二毛作が始まったのです.

  春〜夏(後期)

 夏(後期)〜秋(後期)

   

麦類、野菜など   


米の種類

この時代は早稲(わせ).中稲(なかて).晩稲(おくて)の3種類があったそうですが,今の我々が食べている短粒(たんりゅう)のジャポニカだけでなく.米の種類の選別が完全に終わらなかったので,長粒(ちょうりゅう)のインディカも少しまじっていたようなのです.

※稲が日本に伝わった縄文時代の終りや弥生時代はもっとばらばらでいろんな種類がひとつの田んぼに,ごちゃ混ぜになっていたようです.さらに,鎌倉時代の武士を含む一般庶民は「玄米」を蒸して食べていました.これを強飯(こわいい)といいます.

現在は「おこわ」といっています.一方貴族は精米した白米を食べていました.これを「姫飯」(ひめいい)といいます.

姫飯の方が柔らかくて食べやすいのですが,澱粉質ばかりで栄養が片寄ります.一方強飯のほうはビタミンBを大量に含む胚芽(はいが)が含まれていたために,とても栄養バランスがよかったのです.

 

   

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