これが最初(ホント)鎌倉街道

関東地方には「鎌倉街道」と呼ばれる道が多数残っていますが,町田市の小野路・野津田・七国山ほど良好に残っているところは他にありません.そのために古くからこの地域には「ここが鎌倉街道」と言われている道があちらこちらにありました.しかし,中には鎌倉時代以後の道も含まれ,どうかするとガイドブックにも本来の鎌倉街道ではないところを紹介しているものが見受けられます.

「海の道・陸の道」でも紹介したように,はじめに作られた鎌倉街道は軍事道路で,関東平野のへりから鎌倉を一気に目指した規格道路でした.鎌倉街道は大道として上道・中道・下道の3本が作られ,うち町田市を抜けるのはそのうちの「上道」です.これらの道路は地域の豪族(つまり御家人)を中心として,地域の住民によって作られ,そして補修されていたものと思われます.また大道には側道や支道がありそれらを確認出来るポイントもあります.

東京都多摩市をとおる上道は多摩ニュータウンの出現によって壊滅しました.しかし,町田市との境に残るわずかな林の中にひっそりと眠っていました.

これが,その道の入り口です.この近くに「旧鎌倉街道」と紹介されている道がありますが,そちらは江戸時代の道です.鎌倉街道は以下の規格によって造られていますから,道幅が3〜4メートル以下の場合はまず違うということになります.

これが,その規格です.作られた当時は道幅6メートルでも七百年もたてば埋もれて幅が狭くなっている場合があります.その場合のポイントは両端,あるいは片側の崖状の塁です.これは乗馬した状態でも進軍が分からないための目隠しとも言われています.上の写真は木や草で分かりにくくなっていますが,両側に立派な塁が残っていました.

道は途中で途切れていましたが,近くの断面にしっかりその跡を残しています.画面中央のコケが生えている層が上下の層とは異なる色をしているのが分かりますか?分かりにくい人は「海の道・陸の道」で確認してください.この層はつき固めてあるためにとても固くしまっています.また古道の特徴である「酸化鉄」の薄い層が底部に認められました.

 

野津田の古道から望む小野路宿.夏草におおわれたこの地下から古道は発見されました.上の写真の地点はちょうど真向かいの丘陵の向こうにあります.

 

現在「上の原」と呼ばれる広場のへりを鎌倉街道が通っていました.一番奥に「鎌倉街道」と呼ばれる道が現存しますが,それは後世のものです.

上の原のへりをとおる鎌倉街道のあと.右の崖が街道を作るときに作られた「堀割」のあと.

上の原から華厳院に抜ける鎌倉街道.写真右の暗い部分が鎌倉時代の堀割あと.

七国山に向かう鎌倉街道.このあと道の両側は堀割の崖となり,典型的な鎌倉街道の姿を見せます.ちなみにガイドブックには近くの別の道が記されています.

右が鎌倉街道本道,左は側道.ちょうどここで交わりました.七百年前にここを多くの人が通りました.その足音や人の声が聞こえてくるような晩秋の一日でした.

 

 

※以上の道は「街道研究家」宮田太郎氏の説を参考にゲンボー先生が取材しました.

「海の道・陸の道」  「鎌倉時代の道を歩く・小野路編」  「鎌倉時代の勉強をしよう」


「鎌倉時代の勉強をしよう」が、本になりました。大人から子供までが読める、楽しくて分かりやすい総合的な鎌倉時代の本です。
新情報も満載。鎌倉時代観が大きく変わると思います。

 制作・著作 玉川大学・玉川学園・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治