高校生以上の方からの質問9

このページは中学生以上の方からの質問やお便りを掲示しています.

 

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大竹と申します。鎌倉時代、佐渡へ探されることは死罪と同じと聞きましたが、どのような交通手段で佐渡までいったのでしょうか?

ゲンボー先生

流刑には「近流」「中流」「遠流」の三刑があります。近流は越前・安芸、中流は諏訪・伊予、遠流は伊豆・佐渡・隠岐・土佐というのが通例です。
平安時代には一時死刑が執行されずそれに変わり流刑が増えました。これは死んだ罪人の怨霊による「たたり」を恐れたからです。
というわけで流刑は死刑と同じと考えられています。が、後醍醐天皇のように戻ってくる人もいたり、日蓮上人のように赦免される場合もあるので死刑とイコールではありません。さて、罪人を運ぶ手段ですが天皇や皇族は「輿」(こし)に載せて運びました。武士の場合はその位によって「馬」「カゴ」がありました。郎従以下の罪人は「かご」あるいは「徒歩」でした。もちろん、手は縛ってありますよ・・・


ゲンボー先生。はじめまして、シンガポール大学日本研究学科のコニーです。鎌倉時代蒙古侵入のこと大変興味を持っていますので今回これを研究のテーマとして勉強しています。蒙古侵入とは2回があったと聞きました。その時期(2回とも)は北条政子は政権を握っていましたか?執権はそれぞれ誰でしたか?北条政子はどのぐらい影響力があるのでしたか?その九州の大名(蒙古兵隊と戦う責任者)はだれですか?その人はどんな人でしたか?

いっぱい質問をして申し訳ございません。

ゲンボー先生

コニーさん
あなたからのメールがジャンクメールに分類されてしまい、長い間気付かずにいました。本当にごめんなさい・・・勉強には間に合わなかったかもしれませんが質問にお答えします。

1.頼朝の妻「北条政子」は鎌倉時代のはじめの人で、1225年8月16日に亡くなっています。第1回目の元寇(文永の役)は1274年ですから、北条政子はその時にはいませんでした。北条政子は頼朝の死後に弟の義時とともに北条氏を支えました。幕府と朝廷との戦いであった「承久の乱」(じょうきゅうのらん)のときには、関東(東日本)の武士をまとめるという大きな役割を果たします。この時の幕府は三浦氏をはじめとする有力な御家人(将軍の家来となった武士)の合議(話し合い)で政治が行われていましたから、北条政子の命令は絶対ではありませんが、頼朝の妻だった人ですから発言力はありました。そのために「尼将軍」(あましょうぐん=尼とは仏門に入った女性のことです)とよばれていました。

2.元寇の時の執権は「北条時宗」(ほうじょうときむね)で、17歳で執権になりました。若い時宗を支えたのは北條政村や北条実時、安達泰盛、平頼綱それに宋(中国)からやってきた高僧「無学祖元」(むがくそげん)です。

3.蒙古(元)軍と戦った九州の司令官は。文永の役(1274年)では守護(しゅご=地方の責任者)少弐景資(しょうにかげすけ)。弘安の役(1281年)は兄の少弐経資(しょうにつねすけ)です。
少弐氏はもともと武藤(むとう)という関東の武士でしたが、太宰府(だざいふ=北九州博多にある外交を司る役所)役人なったために官職である「少弐」(2番目に偉い人)を氏の姓にしました。北九州一帯に大きな影響力を持つ武士団ですが、元寇の後に兄弟であらそい、弟 景資は兄に討たれます。その後もしばらくは力を持っていましたが、やがておとろえていきました・・・

コニーさん、これでよろしいですか?言葉が難しかったり、もっと知りたいことがあったらまたメールをください。今度はすぐに返事をします。
本当に申し訳ありませんでした。

ゲンボー先生

詳しいご回答、誠にありがとうございます。

申し訳ございませんが、また幾つかの質問があります:

1.少弐氏はもともと関東武士であれば、蒙古と戦うのは関東武士団だと認識してもよろしいでしょうか?文永の役、弘安の役は九州側(日本側)はどのぐらいの人数でしたか?第一回目は蒙古側の統領はだれでしたか?

2.「弘安の役」の前には蒙古はもうすでに宋と高麗を滅亡し、非常に軍力が優れているなのに、日本は蒙古からの使節を殺したのは、(その時の執権は)どういう心理でしたか?敵を勝つ自信はありますか?

3.当時九州の防御工事について教えていただけますでしょうか?

お返事お待ちしております。

コニー


1.小弐氏はもともと関東の御家人ですが、北九州に領地をもらってからは九州の御家人となりました。元寇の時に一番多く戦ったのが小弐氏を中心とした九州地方
の御家人たちで、ついで中国四国地方・近畿地方の御家人たちです。

さて、その日本の武士の数ですが・・・

文永の役では 1万人程度
弘安の役では 6万人程度 と言われています。

文永の役では都元帥(総司令官)が、忻都(きんと=蒙古の軍人)、副元帥は洪茶丘(こうちゃきゅう=高麗の軍人※どちらも日本語読み)です。


2.蒙古が大変に強大な国であったことは日本側もよく知っていました。しかし、北宋が態度を明らかにしないうちに蒙古に支配されてしまったことを教訓にして、蒙古に対して断固とした態度をとったのです。このことを時宗に説いたのが宋から亡命してきた「無学祖元」です。そのために、外交使節を処刑するという強攻策を
とったのです。勝つ自信は五分五分でしょう・・しかし、当時の多くの武士は勝敗よりも手柄を立てて新しい領地を得ることの方が大切だと考えていたと思います。日本は島国のために外国から侵略されたことがなく、「国」ということもあまり意識していなかった・・国と言えばそれは日本国内の地方の単位で、文永の役が終わってから外国を意識し、蒙古に支配されたら「大変かもしれない」と思うようになったのです・・のんきですね(笑)

3.しかし、幕府は2度3度と蒙古が襲ってくると考えていましたから「異国警護番役」と「要害石築地役」という二つの役務を武士に課しました。警護番役は兵を出し戦に備えるものです。石築地役は海岸線に石を築いた防塁を造るためにお金を出させることです。(お金でなくても、そこへ行って作るのでもよい)こうして築かれた石塁(防塁とも言う)は総延長が20キロメートルを超えると言われています。工事に伴う負担は領地1反(約10アール)につき1寸(3.3センチメートル)
と決められていましたが、遠くの武士はそこまで行くのも大変なので、お金だけを払って工事を任せていました。
この石塁址は今でも博多周辺に残っています。


はじめまして 中学校の社会科教師をしていますが,生徒からの質問で「万葉集」の中にある農民の歌は,たぶん字を知らない農民が詠めたのだろうか。そんな教養や知識があったのかという質問がありました。恥ずかしい話,
私もよく分かりません。どうか教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。(河野)

ゲンボ−先生

河野先生 メールをありがとうございます。

もちろん一般の農民は文字の読み書きは出来ません。万葉集は万民に広く募集しましたので文字の書けるものが聞き取ったものも数多くあります。文字の書けるものとは集落の長レベルです。
古文書に残る人が住んでいたであろうと思われる遺跡が神奈川県秦野市から発見されました。戸数100戸ほどの当時としては大集落ですが、村出身の庁の官吏は一人しかいません・・この人は教育を受けるだけの余裕ある家に生まれた人です。おそらく里長(郷長)でしょう・・・(※里長は 有力農民から選ばれ、庸・雑徭を免除されています。)
こういう人が村人や防人に接して歌を文字にしたのです。

ゲンボー先生


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