武士はどうやって力をつけたか(簡単ページ)

玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所

 

「鎌倉時代の勉強をしよう」が本になりました。大人から子供まで、どなたにも分かりやすく荘園が出来た時代背景を知ることができます。
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目次

荘園ってなあに 1.荘園ができるまでは農地と農民はすべて朝廷(国)のものでした.

2.どうして荘園ができたの?  3.荘園は貴族のものになっていきました. 

4.もっとウマイはなし. 5.武装する農民が出てきました.(武士の始まり) 

6.武士をまとめる武士がいます. 7.力をつけていく武士  

8.幕府は「御家人」を地頭にしました. 9.他人の荘園内で勢力をのばす武士(地頭)達. 

まとめ 付録

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こんにちは.ゲンボー先生です.武士(ぶし=さむらい)の言葉のもとは「さぶろう者」=つまり,貴族のわきにひかえて仕える者という意味でした.平安時代には地方の有力者が次々と武士になり,その一部は都で貴族につかえて屋しきをまもったり,ボディーガードをしていました.貴族中心の時代では武士の身分は低く見られ,都ではそんな役割しかあたえられなかったのです.また,武士自身もそれがあたり前のことと思っていました.
平安時代の後期には地方や京都で大きな戦争がおきました.戦争では武士が大かつやくしました.やがて,そのようなことが何度かくり返されるうちに,貴族の力だけではなにも解決しないということに武士が気づいたのです.鎌倉幕府はそうした武士達が自分達のために作ったはじめての「武士の政権」です.

このホームページでは武士が生まれたころから,鎌倉幕府を作るまでのいきさつを,「荘園」(しょうえん)という昔の農村の移り変わりをとおして勉強します.

荘園ってなあに?

荘園とは奈良時代の終わり頃から鎌倉時代まで続いた農園のことで,今の鹿児島県くらいの広いところから村くらいの小さなものまでまちまちです.持ち主も時代とともに変わっていきました.初めの頃の荘園を初期荘園といいます.

 

1.荘園ができるまでは農地と農民はすべて朝廷(国)のものでした.

荘園ができるまでは,日本の農地はすべて朝廷が持っていました.大化の改新(645年)の7年のち,土地と人はすべて朝廷(国・天皇)のものとし,農民には口分田(くぶんでん)を貸し与えると言うきまりができました.(それまでは地方ごとに豪族(ごうぞく=地方の支配者)がいて,地方ごとのきまりで土地や人が支配されていました.ちょうど大きな古墳が作られていた時代です.)口分田は1代限りで,その人が亡くなると朝廷に返さなくてはなりません.この法律を班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)と呼びます.
口分田=男子は20アール,女子はその3分の2の農地でした.この田んぼはその人が亡くなるとまた国に返さなくてはなりませんでした.

班田収授の法では6年ごとに戸籍(こせき)を作り,貸し与えられた口分田からとれるお米のうちやく3パーセントを租(そ=税)として朝廷におさめること,それ以外に布や特産物もおさめることが決められていました.また,地方の役所である国府(こくふ)が必要とする工事に農民を60日間使ってよいという決まりや,国府で必要なお米を得るために,農民に一方的に「米もみ」(お米の種)を貸し与え,利子をとるということも行われました.その上,男子には兵隊になる義務もあり,地方の軍団(ぐんだん=軍隊のこと)に集められました.中には都までのぼり皇居の警護(けいご=まもること)をする人もいました.特に関東地方の農民には防人(さきもり)といって,遠く九州の警護につかされ,そのまま帰ってくることのできない人も多くいました.次の和歌は万葉集にのせられた防人の歌です.

 ひな曇り碓日の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
(ひなぐもり うすいのさかをこえしだに いもがこいしくわすらえぬかも)

わたしはこうして碓氷峠(うすいとうげ)を越えようとしているが,家に残した恋しい妻のことを一生忘れることはできないだろう.

※この歌を作ったのは今の群馬県の人です.碓氷峠をこえるとそこはもう関東ではありません.この時代にはとなりの国に行くということだけでも大変なことでした.ましてや防人となって北九州に行くなどということは現代の海外旅行より大変なことだったのです.地図もなく場所だってよく分からないところへ,服や食糧,それに武器をもって何日も歩いていきました.中には途中で病気になって死んでしまう人だっていたのです.防人になるということは,親しい人と「生き別れになる」ということです.可愛い子供や愛する妻,あるいは年老いた両親をおいていかなければならない,その人の気持ちが分かりますか?

 

こうしたきびしさから口分田をすてて逃げてしまう農民がふえました.口分田をたがやす人がいなくなるわけですから,国は租税の収入がへりますね.朝廷は困りました.そこで原野を新しくたがやして作った田んぼは,親・子・孫の3代まで使って良いと言う法律を出しました.これを三世一身の法(さんぜいいっしんのほう)といいます.しかし,この法律には大きな欠点がありました,3代たったら朝廷に返さなければならないからです.だから人々のやる気がおきなかったのです.そこで朝廷はまたまた新しい法律を出しました.今度の法律は「たがやした土地は永久にその人のもになる」というものです.この法律を墾田永年私財の法(こんでんえいねんしざいのほう)とよびます.743年のことでした.目次

 

2.どうして荘園ができたの?

墾田永年私財の法(こんでんえいねんしざいのほう※前の項目に説明があります)は,新しくたがやして手に入れた土地はすべてその人のものになるという法律でした.こうなると,はりきったのが沢山のお金を持つ京都や奈良の大きな寺院や神社,それに貴族たちです.彼らは新しい土地をさがして,近くに住む農民や,口分田から逃げ出してきた人々をやとい,せっせと原野をたがやしていきました.こうして広げた農地や農村をふくむ地域のことを「荘園」とよんだわけです.つまり荘園は大農園ということになりますね.こうして「私有地を認める法律」が出されたことにより,荘園は近畿地方を中心に全国に広がっていきました.

このころの荘園はとれたお米から祖を朝廷に払う義務がありましたから,朝廷もよかったわけです.やがて朝廷はそれまで身分によって決められていた荘園の広さを,誰でもたがやせばその人のものになるというふうに変えたため,地方の有力者達も積極的に新しい農地を広げていきました.そして,平安時代も中ごろになると,それらの荘園がやがて次々と貴族のものになっていきました.その理由は次のとおりです.目次

 

3.荘園は貴族のものになっていきました

平安時代になって藤原氏などの有力な貴族たちが政治をおこなうようになると,自分達に都合のよい決まりを使って税金を払わなくてもすむ方法を考えだしました.それが不輸の権(ふゆのけん)です.もともと大きな寺院や神社にあたえられていた権利ですが,これを自分達の土地にもつごうよく当てはめたわけですね.
しかし,このことによってもうけたのは貴族達だけではありませんでした.地方の豪族もうまいこと考えたのです.
君がもし地方の豪族で広い農地を持っていたらどうでしょう?『税がやすくなる』とわかったらどうします?先生なら迷わず貴族にあげちゃいます.あげちゃうといっても本当にあげるのではなく,名目上(めいもくじょう=形の上で)は貴族の農地にしちゃうのです.自分はその農地の管理人という身分になりますが,実際の持ち主ということにかわりありません.その管理人のことを荘官(しょうかん※さっきと字が違いますよ)と呼びます.こうすれば実際には自分の土地でも法律上は不輸の権をもつ貴族のものですから高い税を払う必要がなくなります.そのかわり貴族にはお礼を払えば良いのです.お礼もお米や特産物,布でしたから朝廷に払うものと差はありません.ただその量が少なくてすむのです.有力な農民にとっては税が安くて助かるし,貴族はなんにもしなくてももうかるのですから,双方にとってこんなウマイはなしはありませんね.こうして多くの農地が荘園になっていきました.こうした荘園のことを
「寄進地系荘園」(きしんちけいしょうえん)とよびます.ではそれ以前の自分で耕して作った荘園はなんと呼ぶかというと「自墾地系荘園」(じこんちけいしょうえん)といいます.寄進と言う言葉の意味は「さしあげる」で,自墾とは自らが開拓したということです.目次

 

4.もっとウマイはなし

名目上,貴族の荘園にするともうひとついいことがありました.不入の権(ふにゅうのけん)を得ることです.その当時(平安時代),地方で一番偉い人は国司(こくし)でした.その多くは朝廷からつかわされた貴族です.なかには皇族(こうぞく)といって天皇の親せきもいましたが親せきといっても何百人もいるので,京都で良い生活ができるとはきまっていなかったのです.どちらかといえば恵まれない皇族が国司になったのです.
こうした人の中には『国司でいられるあいだに,できるだけもうけようじゃないか.』,という人もいて,部下の役人を使って他人の土地をうばったり,重い税をかけて自分のものにしてしまう人もいました.
不入の権はそうした役人が入ってこれないという権利です.どうです強力でしょう.不輸の権と不入の権があれば地方の有力者は安心して生活できますね.
こうして多くの荘園が藤原氏をはじめとする貴族たちのものになっていきました.ある本には「日本中の土地はすべて貴族のものになってしまい,朝廷の土地は立つこともできないほど少ない.」と書いてあります.

 

5.武装する農民が出てきました.(武士の始まり)

となりとの境界争いや役人との争いが多かったこの時代,「自分達の土地は自分達で守る」という有力な農民が出てきました.これが武士のはじまりです.彼等はより有力な人と主従関係(しゅじゅうかんけい=主人と家来の関係)を結んで武士団を作っていきました.これらの農民のなかには武士の専門家になって,荘園主である貴族に仕える人も出てきました.このページの一番はじめに書いた「さむらい」の話はこの当時のことです.目次

 

6.武士をまとめる武士がいます.

国司の中には任期(にんき=はたらく期間)がすぎても,京都へかえらない人もいました.京都へかえるより地方の方が良い生活ができたからです.彼等は京都へいけばたくさんいる貴族や皇族の一部ですが,地方だと「とんでもなくえらい人」だったのです.荘園や地方ごとに現れていた武士達はやがてもっと大きな組織を作るようなります.なぜならそのほうが争いがあったときに勝つからです.この時代に負けるということは,家族ともども首をちょん切られて殺されることですから,負けてはいられないわけですね.君ならどうします?いやでしょう???やはり強い仲間が欲しいですね・・・
さて問題はでっかい集団ならそれでいいかということです.ここはやはり強力なリーダーがいなければ「ただの集団」で,いざというとき本当にたよれるか
がつきます.そこで皆にたよられたのが地方に残った貴族や皇族だったのです.彼等は血すじも良く,えらい身分でしたからリーダにふさわしい人々だったのですね.源氏や平氏はもともと皇族でしたから,こうして地方の武士をまとめて大きな武士の集団を作りました.源義家(みなもとのよしいえ)という人は,東北地方でおきた戦争のほうびを朝廷にかわって部下に与えました.「ほうび」とは農地をふくむ土地のことです.武士にしてみれば,あてにならない朝廷より源義家のほうがよほどたよりになったわけです.こうして大武士団が作られていきました.
付録の話ですが,のちに鎌倉幕府を開く源頼朝は源義家の子孫です.こうしたことが伝説として関東地方にあったことも頼朝にはとても有利なことでした.

 

とうりょう(棟梁)=集団をまとめるリーダーのこと

7.力をつけていく武士

平安時代の終わり頃,京都で大きな戦争がありました.このとき源氏と平氏は大活躍します.貴族は位は高くても戦いになるとダメだ!もしかしたら自分達のほうが実力があるかもしれない・・・と武士が気づいたのもこの頃です.特に平氏と源氏は力をつけ,やがて実力争いがおこります.これに勝ったのが平清盛(たいらのきよもり)というわけですね.
清盛は全国の国司をほぼ平氏でかため,多くの土地を手に入れていきました.しかし,一族が貴族化してやがて源平の戦でほろびます.ここのところは授業でもやったでしょう?義経という大変に強い頼朝の弟が大かつやくするお話も習いましたか?この頃になると武士を無視した政治はできなくなりました.目次

8.幕府は「御家人」を守護や地頭にしました.

平氏を滅ぼし,鎌倉に武士の政権を作った頼朝は全国の支配を目指します.しかし,どっこい朝廷の力はそんな簡単には弱まりません.なぜなら社会の仕組みの全てが朝廷を中心に出来上がっているからです.しかも関西より西は幕府と無関係の武士も多かったのです.頼朝は自分と主従関係をむすんだ武士を御家人(ごけにん)とよび,彼等を守護(しゅご)と地頭(ぢとう)にして全国に配置しようとしました.守護とは国司と同じくらいの力をもつ地方の警察長官,地頭は荘園ごとに配置された町や村の警察官と税金を集める人というところでしょうか.
守護と地頭は頼朝にはむかった義経をつかまえるということを理由に配置しましたが,結局は平氏の持っていた荘園や鎌倉方に逆らって戦で負けた武士の荘園に限られてしまいました.それほど西日本では幕府に対する抵抗が大きかったといえます.

しかし,1221年におきた承久の乱(じょうきゅうのらん)でようすは大きく変わります.幕府に負けた朝廷は全ての荘園に地頭を配置することを認めます.こうしてすべての荘園に地頭が誕生しました.(もちろんその荘園にはもとからいた荘官がいるのですよ.)こうして承久の乱後に新しく配置された地頭を「新補地頭」(しんぽじとう)といいます.

 

出 身

資 格

任 命

任 務

収 入

守 護

東国出身の有力武士

御家人

各国に1名ずつ任命

・国内の御家人を京都や鎌倉の警備につかせる.反逆者や,殺害人の逮捕.

・戦の時は国内の武士を指揮する.

守護としての収入はない.地頭を兼任して,その収入を得る.

地 頭

地方の荘官や役人

御家人

公領や荘園に任命

年貢を取り立て,国司や領主におさめる.荘園や公領を管理する.警察の仕事を行う.

11町ごとに1町の年貢.1反ごとに5升の米.川や山からの利益の半分.

9.他人の荘園内で勢力をのばす武士(地頭)達

地頭には警察の役目と税を集める役目があると先ほど書きました.警察といっても悪い人をつかまえるというより,上の者のいうことを聞かない人をつかまえ処罰する人といったほうが正確です.おっかないですね・・・その人が税を集めるのですからこれも恐いですね.ある荘園では「地頭のためにはたらかない家族の鼻と耳を切り落としたり.縄でしばってムチでうつ」なんていう地頭もあらわれました.ここまでやる地頭はそう多くはありませんでしたが,荘園主の土地を勝手に自分のものにしたり,税を横取りするのはあたりまえのことでした.なんてったて武士の後ろには幕府がついているからです・・・
そこで困った荘園主はその荘園をまっ二つに分けてその半分を地頭にあげました『これだけやるから,もうこっちの方にはこないでね・・・』というわけです.このことを下地中分(したじちゅうぶん)といいます.こうして御家人は地頭や守護という立場を利用して自分の土地を広げていったのです.

関東地方ではもともと武士=荘官というところが多かったので荘園主との争いは少なかったのですが,関西より西は今書いたとおりなのです.鎌倉幕府は武士の政権ですが武士の権利を守る組織といったほうが分かりやすいと思います.目次

下地中分の図

 

まとめ

うです,皆さん「荘園」が武士と深い関係にあるということが分かりましたか.武士が生まれたのもその多くは荘園でした,そして武士の生活の基盤も荘園でした.将軍と御家人は御恩と奉公(ごおんとほうこう)の主従関係で結ばれていますが,御恩とは今持っている土地を認めてもらうこと,誰かにうばわれそうになっても幕府が守ってあげること,そして戦争で手柄を立てたものに領地を与えることだったのです.その中には地頭の任命(にんめい=そのしごとを命ずること)も入っていました.当時の経済のおおもとは農業です.その中でもお金と同じ価値を持つお米の生産がとても大切だったのです.だから,武士達は戦争をするだけではなく新しい土地をたがやしたり,水路を作ったりしました.鎌倉時代の武士は大なり小なり農園主だったというわけです.

※最近の研究で,荘園の中で鉄や,漆器(しっき=うるしぬりの器)や和紙など様々な商品が作られたことが分かってきました.特に鎌倉時代の後期になると地頭はお米の生産だけでなく,そうした物の生産にも関係していたと言われています.

目次 

付録

関東地方は新しく開拓(かいたく=原野を田畑にかえること)された土地です.荘園以外にも馬をかう牧場が多く作られました.関東は信州(長野県)にならぶ馬の産地だったのです.これを「牧」(まき)と呼びます.横浜市緑区の元石川町は「石川の牧」.町田市相原町には「由比の牧」というように各地に牧が作られました.この管理人を別当(べっとう)といいますが,この別当からもその地位を利用して武士団を作った人達がいます.埼玉県の秩父氏や八王子の横山氏もそういう家柄です.また,伊勢神宮などの神社が持つ荘園を「御厨」(みくりや)といいます.厨(くりや)とは台所という意味ですが,こうした管理人は下司(げし)といい,この人達の中からも多くの武士団を作る人が出ています.有名な千葉氏や新田氏もそうした家柄です.

目次

内容に関する注意 一般に鎌倉幕府とよばれるようになったのは江戸時代からのことです.鎌倉時代の人々は将軍の住む館のことは幕府と呼んでいましたが,政治組織のことを「幕府」とは呼んでいませんでした.しかし,学習する上では鎌倉の武士政権を「鎌倉幕府」と呼ぶため,この学習でもゲンボー先生は幕府という言葉を使います. 


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制作・著作 玉川大学・玉川学園 協同:多賀歴史研究所 多賀譲治