幕府はなぜ承久の乱に勝てたか・・・

                       多 賀 譲 治


 1221年「承久三年」5月14日、後鳥羽上皇は予てより画策していた義時追悼(倒幕)の命令を下した。上皇の元に集まった武士は凡そ1700騎、鎌倉方についた武士は京都守護「伊賀光季」手勢のわずか31騎だった。ところがわずか1月後の6月14日、宇治川を渡った10数万の板東武者は、あっという間に上皇軍を蹴散らし京都を制圧した。承久記には「板東の兵乱入し、貴族・庶民・老若男女の差別なく声を立て、わめき叫びながら逃げまどう・・・逆らう者ことごとく射殺され斬り殺され、追いつめられたる様は、ただ鷹におそわれる小鳥のごとし・・」と、その様子を書き記している。
 しかし,板東の武士がいくら強いといっても、上皇軍がこれほど簡単に負けてしまったのにはいくつかの理由がある。中でも両者の初動における対応の差は大である。
 「裸足で京へ上り、貴族や平氏に犬のように扱われていたあなた達が、今日、地位と名誉を受けて、比べようもない生活ができるようになったのは一体誰のお陰か。もし、頼朝公のご恩を忘れて上皇方につくと言うのなら、まずこの私を殺し、鎌倉を焼き払ってから行くがよい。」と、いならぶ御家人に「頼朝の恩」を訴えた政子の大演説は有名である。多くの武士はこの演説を聞き落涙し、奮起し京都へ攻め上ったと伝えられている。
 ところで、この名演説はわずか数時間早く異変を知った政子や執権義時の事前準備にもとづいて考えられたものだった。上皇方は5月15日に宣旨を発し、三浦義村をはじめとする有力豪族には「恩賞は思いのままにとらせる」旨の密書を送った。ところが,親幕派の伊賀光季と西園寺公経からの急使もまた鎌倉に急を知らせていたのだった。・・・ここから幕府の大逆転が始まったと言ってよい。
 光季の使いは15日午後8時早々に京を出発した。ところが宣旨を持った使い(押松丸)は日付の変わった16日午前4時まで京にいた、その差約8時間・・・公経の使いが何時に出発したかは不明だが、密書中に光季の死が報じてあることから、光季の使者の後に出ていることは確かだ。また「朝廷の使いも本日到着の予定」と述べているので、押松丸の後から出発した可能性もある。そして鎌倉に着いた順は次のとおりである。一着「光季の使い」19日午後12時頃。2着「西園寺家の使い」同日午後2時頃。3着「上皇方の使者(押松丸)」同日午後5時頃。
 当時の東海道は整備されたとは言え、京-鎌倉間は徒歩で約16日、場合によっては数十日を要した。大河に満足な橋は架かっていない。その上、雨が降ればぬかるみ状態が数日も続いた。各駅には伝馬が用意されているが、早馬でも7日はかかるのが普通で、至急の場合でも5日であった。4日間で京から鎌倉まで走りきった3名の急使は、休みはおろか、眠らずに駆け抜けたに違いない。押松丸も光季の使いとの差を四時間ほど縮めている。可哀想に葛西谷辺りをうろついていた押松丸は、捕らえられて宣旨を取り上げられてしまった。というわけで幕府はわずか4時間の差で先手を打ち、御家人の掌握に成功した。もしこれが逆だったら歴史はもっと違う展開になっていただろう。
 「友を食らう」と評された三浦義村でさえ密書を携えて幕府に駆けつけた。御所の庭に集まった御家人のほとんどは,「何が何だか良く分からない」状態だ。京都と戦うかもしれないという噂話もあったかもしれない。動揺や不安もあっただろう、 そこへ政子達が現れて先の演説になったという次第だ。
 幕府首脳は、その日のうちに上皇軍と戦う作戦を立案し、軍団編成の大まかなプランも整えた。急使が来てからの幕府の動きはまことに素早く当を得たものだった。宣旨さえ出せば関東の武士はことごとく院・朝廷になびくだろうという思い違いをしていた上皇方とは大きな差である。押松丸の出発が遅れたのも上皇方の緊張感の無さを表している。こうして敵の先手をうまくかわした幕府は乱に勝利した。だが、その裏に急使たちの一刻一秒を争うレースがあった事も忘れてはならない。昔も今も、正確に、早く情報を得ることが大切であることを如実に物語る出来事であった。

(玉川学園 CHaT Netセンター 研究員)