元寇防塁(福岡市)

 文永の役(1274年)の後、鎌倉幕府は御家人・非御家人を問わず、領地をもつ全ての武士に対して「異国警護番役」と「要害石築地役」という二つの役務を武士に課しました。警護番役は兵を出し戦に備えるものです。石築地役は海岸線に石を築いた防塁を造るためにお金を出させることです。(お金でなくても、そこへ行って作るのでもよい)こうして築かれた石塁(防塁)は総延長が20キロメートルを超えると言われています。工事に伴う負担は領地1反(約10アール)につき1寸(3.3センチメートル)と決められていましたが、遠くの武士はそこまで行くのも大変なので、お金だけを払って工事を任せていました。写真は今日博多周辺に残る防塁跡です。

DSC00002.JPG

市街地に残る防塁

当時の海岸線です
DSC00003.JPG

当時の様子について

書かれた説明版
DSC00005.JPG

現在の海岸線

DSC00007.JPG

700年前、ここで

蒙古軍との激戦が繰
り広げられたのです
DSC00008.JPG

松林の中に埋もれる

防塁
DSC00012.JPG

起伏や石が見える
のが
分かりますか?
DSC00013.JPG

土が盛りあがっている

のは松の根のせいばか
りではありません
DSC00015.JPG

掘り出された防塁
DSC00017.JPG

石を砕いて大きさを

そろえてあります
DSC00018.JPG

掘り出されずに保存

されている防塁
DSC00019.JPG

  1. 弘安の役では敵を
    食い
    止めるのに有効だった
    防塁でした

教材ライブラリー,トップページに戻る

資料製作・著作 玉川学園研究員・玉川大学講師 多賀譲治

(注意)これらの写真は学校の学習で使う限りは自由に使用できます.本への掲載やWebへの掲載,営業を目的として使用する場合は著作者の許可を必要とします.お問い合わせは・・ E-Mail