教員紹介

佐藤 宗大 講師SATO Takahiro

専攻分野
国語教育学、教科教育学、教育学、西洋近世哲学
研究課題
国語教育における「主体」形成をめぐる基礎理論の構築、「ことばにならない何か」との対峙の場としての文学教育の再定位、国語教育における「論理」の意義づけと再定位、教育学におけるドイツ近世・近代哲学受容の特質

Q & A

担当授業は?
国語科指導法Ⅱ、国語科指導法Ⅲ、言語表現教育研究、人文学総合演習A・B・C・D、一年次セミナー101・102

研究紹介

国語が好き/嫌いなあなたに:「国語教育学」のすゝめ

私が専門としている「国語教育学」とは、「人はなぜ、どのようにことばを必要とするのか?」を問うことで、「私たちはどのようにことばを学ぶべきなのか」について考える学問です。

「国語嫌い」の種は尽きまじ?

みなさんの学校の時間割を眺めてみると、国語という教科には、比較的多めに時間が割り当てられていることに気づくでしょう。専門知を深める学校やコース(たとえば高校の農業科や商業科、高等専門学校など)でも、国語の授業は、どういうわけか必ず設定されています。どうやら国語とは、それほどまでに「やらなくてはいけないもの」として位置づけられているようです。

しかし、どうして私たちはそこまで国語を勉強する必要があるのでしょうか?
私が高校生のとき、同級生がこんなことを言っていました。
「文系と理系にコースが分かれたあとは、理系は国語より数学をやったほうがいいんじゃない?」
今まさに彼と同じようなことを感じている人も、いやそんなことはないと思っている人(特に教師のみなさん)もいらっしゃるかと思います。いわゆる「論理的思考」を鍛えるためのトレーニングや、日常生活や仕事で活用する能力につながる学びであれば、別にどんなキャリアを選択しようと勉強する価値はありそうです。しかし、たとえば「文学を読む」ことはどうでしょう。生活に直結しない物語を読む体験に、いったい何の意味や価値があるのでしょうか。「テスト」や「受験」という強制力がなければ別にやりたくもないし、とっとと“答え”を教えてもらいたい……根強い「国語嫌い」は、日本中の国語の教室に間違いなく存在しています。

「国語好き」が「国語嫌い」を作る?

子どもたちの「国語嫌い」に対して、国語の先生は学ぶ内容の持つ「価値」を伝えよう、理解してもらおうとあれやこれやの工夫や努力を凝らしてきました。日本には、そうした教材研究や学習開発の膨大かつ重厚な蓄積があり、私も研究者として、これまでの研究成果に多くを学ばせてもらっています。
しかし、多くの学習者たちの姿に触れる中で、私は「国語嫌い」に関する大きな問題に気付きました。つまり、国語を好きになってもらおうというその努力こそが、実は「国語嫌い」を生んでいるのではないか……ということです。
国語に限らず、子どもたちはそもそも、学校で勉強する内容に対して興味なんてないし、何なら勉強する義理なんてないものだ、と私は考えています。つまり教師たちは本来、国語の授業づくりにあたって
「子どもたちは国語の『価値』を理解するべきだ/しなければならない」
と前提することは(原理的には)できないのです。
しかし先にも述べたように、国語の先生は学習者に対し、国語で学ぶことの「価値」を伝えようとします。言い換えれば、教師は国語で教えられる内容に「価値」があると考えているということです。それに対して、「国語嫌い」の子どもは、そもそも国語で学ぶことの「価値」を認めていないし、受け止める気もありません。たとえるなら、「国語嫌い」の子にとっての国語の授業とは、別に美味しそうにも見えないし食べたくもない料理を「美味しいから食べないと損だよ!」と押し付けられているようなものなのかもしれません。
したがって、国語が好きだという価値観にとどまっている限り、教師たちは、「国語嫌い」の子どもに対する決定的なアプローチは考えられない(かもしれない)のです。

国語教育のコペルニクス的転回:人文学を総点検し、未来へとつなぐために

では、どうしたら良いのでしょうか?「国語嫌い」を受け止めつつ、国語の学びを構想していく道はなにかないのでしょうか?
ここで、国語学習をめぐる発想を転換してみましょう。つまり、「国語の学びには価値がある」と前提するのではなく、「私たちにとって、価値あることばの学びとは何か?」という視点から、国語の学びを総点検してみるのです。
さて、私たちにとって「価値ある」ことばの学びについて考えるためには、国語という「教科」、そしてテスト・成績といった「学校」を飛び出て、私たちがことばを使いつつ生きていく「世界」のすべてを相手にしなければなりません。私たちが日々ことばを使いつつ生きていくことの特質は何か。ことばを使って生きていくからこそ、私たちにはどのような困難や課題があるのか。この世界で生きていくためのことばの力を身につけること、それこそ、私たちのすべてにとって「価値」あることばの学びに他なりません。
もちろん、この総点検のプロジェクトを通しては、これまで国語を通して受け継がれてきた私たちの人文学―文学や古典―の「価値」も問い直されることでしょう。なぜ私たちは文学を必要とするのか。古典と出会うことは、今ここの私たちにとってどんな意味を持つのか。つまり国語教育学は、人文学の営みそれ自体をも問い直し、総点検し、次世代へと繋いでいく学問でもあるのです(少なくとも、私は本気でそう考えています)。

御託はいいから、どんな研究をしているのかを知りたいって?
続きは玉川大学文学部で。みなさんのことをいつでもお待ちしています。

ゼミガイド

「ことばにならない何か」と出会い、わたしの、あなたの「ことば」を見つける

Keyword
  • 国語教育学
  • 教科教育学
ゼミの内容を一言でいうと?

自分自身の「ことば」と生活を見つめなおし、“なぞ”や“困り感”を共有する。

  • 国語教育研究は、国語科にとどまらない、「ことばで生きていくこと」のすべてを扱う学問です。ですからそのためには、まず自分自身のことばの生活について考え、「ことばで生きていくこと」に対する自分自身の問題意識を確立する必要があります。ゆえにこのゼミでは、自分自身の生活や学校現場での体験を通して出会ったり感じたりした「ことば」をめぐる“なぞ”や“困り感”を明らかにし、ゼミの全員で共有していくことを大切にしています。
ゼミの自慢は?

人文科学を総動員して、「ことばで生きていくこと」を考え抜く。

国語教育研究には、「ことば」の実態や性質に関する知識や文化に対する嗜み、そして人間存在に対する哲学的視座など、人文科学のあらゆる知見が求められます。玉川大学文学部国語教育学科には、言語学・文学研究・哲学の専門家が揃い、それぞれの分野の深い研究成果に触れることができます。佐藤ゼミでは、そうした本学科での学びのすべてを活かし、「ことばで生きていくこと」、そして研究成果の社会実装としての国語科授業について構想していきます。