鎌倉時代の農業の方法

 玉川学園中学部 2年ロッキー組 Y.M.

 鎌倉時代には、道具だけではなく笛やどらを使ってみんなで活気つけてやっていました。道具は手で行うもののなかでは、今とほとんど同じで、くわ、すき、などで行っていました。


米つくりの道具

日本の稲作は紀元前3世紀に始まります。中国・揚子江(ようすこう)の流域で発達した技術が、農具とともに伝えられたのです。最初、農具は木でつくられたものでしたが、鍬(くわ)をはじめとして、たくさんの種類がすでにそろっていました。当時の水田はすべてが低湿地の沼田だったので、木製でも十分に役に立ったのです。

5〜6世紀の頃になると、中国の華北(かほく)地方から朝鮮半島をとおって、新しい稲作技術が伝えられました。これは、夏のあいだに水田をいったん乾かすという方法です。 この方法では、鉄でできた農具が必要で、鉄製農具(すなわち土を切る部分に金属をかぶせた農具)も同時に伝えられました。そして、この新しい技術をとりいれ、勢力をつけていった部族が、古代国家を統一するように なっていったのでした。

また、華北地方の犂(すき=カラスキ、長床犂)も伝えられ、荘園(しょうえん)制の発達につれて、中世の時代に、上層農民の広い土地で使用されました。こうして古代のくわの時代から、中世(鎌倉時代から先の時代)のすきの時代へと進むのです。

●犂(すき)の時代から鍬(くわ)の時代へ

中世の時代がすすみ、肥料の使用が始まってくると、田を深く耕(たがや)さねばならなくなり、長床犂(すき)では役に立たなくなってきました。一方、くわならまだ深く耕せたため、くわを使っていた下層農民の生産力の方が高くなっていったのです。上層農民は生産力が止まり、勢力もおとろえていきました。

こうして、日本の農業は再びくわの時代を迎えました。また、300年も続いた鎖国は日本独自の農業を生み出しましたが、農具もそのひとつです。さまざまな農具がこの時期、稲作以外にも発明されていったのです。 幕末になると、先進地では、鍬(くわ)農耕としては最高のレベルに達しましたが、全国的に広がっていったのは、明治なかばを過ぎてからのことです。

 

            
 
 
 
 
 
         くわ                  すき       

 

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