中学生とゲンボー先生10
 
 
 
玉川学園・玉川大学


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岡山市立京山中学校  内田君からの質問

始めまして。中学一年生の男子です今日,歴史の宿題で「コロモガワノカッセン」に付いて調べるようにいわれました。いろいろ調べてみたけれど,手がかりが見つかりませんもしかしたら,鎌倉時代の出来事ではないかもしれませんが、ご存知のことがあれば何でもいいから教えてください

ゲンボー先生

メールを有難う.「衣川の合戦」は奥州平泉にかくまわれていた源義経が藤原泰衡(やすひら)に討たれた戦で,1189年6月15日(和暦 文治5年4月30日)におきました.

この戦いで義経は 高館の持仏堂にこもり妻と子供を殺して自殺しました.享年31歳の若さです.この時に家来だった武蔵坊弁慶は、主人義経を守って奮戦しました.その戦いぶりは弁慶の「立往生」として有名です.義経の首は新田高平という使者に持たせて鎌倉に送られました.

では,なぜこの戦いが行われたかを考えてみましょう.義経は君も知っての通り「戦上手」でならした頼朝の弟です.頼朝のライバルである木曽義仲の軍勢を破ったのも,屋島や壇の浦で平氏を破り滅ぼしたのも,戦闘司令官である義経の働きはとても大きいものでした.しかし,義経は兄頼朝とは大きく異なり「戦争は上手」でしたが「政治は下手」でした.朝廷側(上皇)にうまくのせられて兄頼朝を討つ行動に出るなど,鎌倉方が「武士の政権を作る」という大きな仕事をしていることなどには,あまり気がまわらなかったようです.

こうなっては,頼朝にとって義経は邪魔者にすぎません.しかし,ここからが頼朝のすごいところで,ただ義経を討つのではなく,義経を利用して鎌倉にとって有利な状況をつくり出すように事をはこびました.君は「守護」と「地頭」を各地に配置した理由を覚えていますか.義経をたぶらかした負い目を持つ朝廷をおどして,御家人を各地の荘園に食い込ませたのでしたよね.後にその地頭が荘園を侵略して荘園を奪ってしまうのです.

義経の逃走経路ポイント「安宅の関」(石川県小松市)

ニセ山伏の一行を逃走する義経主従と知って,関所の役人富樫介が義経を逃がすという,歌舞伎「勧進帳」の最高の見せ場で有名な安宅の関あとです.実際には延暦寺(えんりゃくじ=京都比叡山にある天台宗の総本山)の影響の強いこの地域には反頼朝の風潮が強かったのでそれに似た出来ごことがあったのかもしれません.

もっと深く考えれば「わざと義経を逃がし」「奥州に行かせたい」頼朝の政治的な計略だったかもしれません.結果的には義経逮捕を目的に「守護」「地頭」を設置し,「奥州藤原氏」を滅亡させたのですから・・・・

義経一行はこっちから来て

このあたりで,疑われて.

あちらの方向に逃げていきました.

 

当時奥州(東北)は鎌倉方にとって「目の上のたんこぶ」でした.というより「朝廷」とも「鎌倉方」とも無縁の地域でした.敵になる可能性もあるし広い土地もあります.これは東国の武士にとっては危険であると同時に魅力たっぷりの地域ですね.当時奥州は ,藤原秀衡(ひでひら)というとても優れ人がおさめていました.この人は「戦も上手・政治も上手」という優れ者です.義経は 藤原秀衡がいたからこそ奥州に戻ったので,秀衡にはさすがの頼朝もなかなか手が出せませんでした.

ところが義経が奥州に逃げ込んで約半年後の1187年の11月に藤原秀衡は病気のために死んでしまいます.

あとを継いだ 藤原泰衡(やすひら)は父のような力がなかったため,頼朝は早速,泰衡をおどかしはじめました.「犯罪者義経を渡さないと東国から軍を派遣して藤原氏を滅ぼすぞ」とか「朝廷の命令に背く気か」とか,逆に「義経を捕まれば朝廷からほうびがもらえるぞ」など.ムチとアメを使いこなして, 泰衡をゆさぶりました.

そしてその作戦にまんまとのせられた泰衡が,衣川に館をかまえていた義経一党を襲ったというわけです.義経は壮絶な死を遂げました.焼け落ちた館から発見された義経の首は見るも無惨な状態でしたが,酒につけられて鎌倉に送られたのでした.

さあ,その時の頼朝の様子はどうでしたでしょう・・・・・「弟義経を捕らえろとは言ったが殺せとまでは言わなかった」「弟のかたきを討つぞ」・・・・そして,朝廷と藤原氏には「犯罪者をかくまったというだけで,犯罪行為である」といい,大軍を奥州に送ったのでした. 秀衡もいない義経もいない奥州軍など関東武士の敵ではありません.負けに負けまくった奥州軍は,1189年の10月にあっけなく崩壊しました.(泰衡は家来の謀反にあいました)さあ,そのあとの奥州はどうなったでしょうか・・・考えればすぐに分かりますね.これはぜひ君が考えて調べてみて下さい.


sgwrさんの質問

ネットで見つけました。質問してもいいでしょうか。鎌倉時代の日本の人口が1千万人いると聞いてびっくりしました。そのころ、首都、鎌倉市には何人くらいの人口がいたのでしょうか。

ゲンボー先生

メールをありがとう.「いつでも」「どこでも」「だれでも」が参加できる学習ですから,どこの学校の生徒でもかまいません.

鎌倉は回りを山に囲まれた狭い地域でしたので,現在の東京も真っ青の過密都市でした.正確な数字はわかりませんが1252年(建長4年)におよそ3万7千戸の家があったようです.一家族が5人としても20万人くらいはいただろう,というのが現在の説です.

ただし,日本の首都は鎌倉ではありません.この当時も首都は朝廷のあった京都です.幕府独自の法律もありましたが,世の中全体の仕組みはまだ朝廷が中心だったことをわすれないでください.つまり鎌倉時代は社会構造的(わかりますか?わからなかったら君の先生に聞いて下さい)にも朝廷と武士の2重支配.また東国と西国と言うように地理的にも2つの支配体制があったのです.社会が完全に武士の影響下に置かれるのは戦国時代で,それを統一したのが信長,秀吉です.そして完璧な武士政権が江戸幕府というわけですね.教科書だと鎌倉時代からず〜っと武士の時代みたいに書いてありますが,それは学習する年令に合わせて簡単にしているだけで,本当はちょっと違うんですね.

日本の首都が東京になるのは明治時代になってからです.


hideki-tより

質問します。鎌倉時代には旅行するときに宿泊する宿などが,あったのでしょうか?あったならば,どのようなものだったのでしょうか。また,この時代には外食産業はあったのでしょうか?

ゲンボー先生より

hideki-tさんメールを有難う.

鎌倉時代以前もっとも重要な道路は京都と北九州を結ぶ「山陽道」でした.京都と関東を結ぶ道路は東海道よりも,群馬,長野を通る「東山道」でした.鎌倉時代になると朝廷のある京都と幕府のある鎌倉を結ぶルートとして「東海道」も整備されてきました.このように鎌倉時代になると地方の街道の整備が進みました.しかし,整備されたといっても道幅は狭く,チョットでも雨が降るとぬかるみ,「まるで田んぼの中を歩いているようだ.」という記録も残っています.現在の日本の大動脈である東海道でも,橋のかかる川は2〜3しかなく,ほとんどは渡し船で渡っていました.ですから長雨が降ると川が増水して渡れなくなることもしばしです.特に木曽川や天竜川などの急流では船の転覆もあり,遭難に合う人も多くいました.
また,山中の道には山賊が出るところもあり,夜行や一人歩きは大変に危険でした.特に京都に近い鈴鹿山中はあぶなかったようです.お金はもちろん着ているものまでとられてしまうという有り様で,運が悪いと「命」まで無くしてしまいます.ですから,今の人は「旅」というと「温泉」「美味しい料理」といったリゾート感覚で考えますが,鎌倉時代の人はよほどの用事がないかぎり旅に出ることはありませんでした.「旅」が物見遊山(ものみゆさん=観光)になるのは江戸時代になってからです.
当時の人は「わらじ」を履いてこうした道を1日約35キロから40キロも歩きました.東海道ですと約2週間かかる計算ですね.当然こうした人を泊まらせる「宿」が街道筋に出現します.そこではもちろん食事も出ましたが,お酒や白拍子(しらびょうし=踊りを踊ったりお酌をする女性)もいたようです.危険さえ伴う道を何十キロも歩いたのですから,せめて泊まるところくらいでは楽しいこともなければ・・・という人の心をみたすサービスというわけですね.
もちろん,町や村にはいると「食べ物」を売る店もありましたが,今のように沢山のメニューがあるわけではありません.その地方でとれた魚や野菜それに御飯程度のもです.ですから食べそこなった時のために,干した魚や栗,お米などを携行食として持っていました.それに,宿屋は主に街道筋にある村や町に作られましたから,そこまで行き着かなければ「野宿」ということだってあるわけです.
どうでしょうか?今の旅のイメージとはずいぶん違いますね.鎌倉時代の人は余程の用事がなければ「旅」に出ることはないと書きましたが,旅に出るには「相当の覚悟」も必要だったのです.しかし,それでも旅には楽しいこともありました.阿仏尼(あぶつに)という女性の旅日記が残されていますが,初めて目にする地方,初めて旅する村々の様子や,人々の有り様が生き生きと書き残されています.今でも旅の楽しみの一つが「まだ見ぬところ」「知らない人」との出会いです.こうした人の心情には今も昔も変わりはないようですね・・・

おまけ・・・

幕府は京都=鎌倉間での連絡をできるだけ速くするために飛脚(ひきゃく)を設けていましたから,その人たちの休息所や替えの馬を用意する「駅」が街道沿いに作られました.飛脚は馬を乗り継いで7日間で京都=鎌倉間を走ったそうです.特に至急を要する場合は5日間.最も速い記録は3日間です.


西朝明中学校 朝美さん の質問

乱と役のちがいは何ですか?

ゲンボー先生

メールをありがとう.

大変面白い質問ですがとても難しい質問です.よくそのことに気がつきましたね.

日本語は言葉としてとてもあいまいなところがあって,立場やそのときの状態によって使われ方が変わります.乱と役以外にも変がありますが,これらは時と場合によって使われ方がかわっています.

「役」は命令によって人々がかり出されるという意味があります.戦いの場合は指令する人の命令ですが多くは天皇の命令によります.古くは東北地方の朝廷にさからう人が反抗した場合などに「役」が使われています.前九年・後三年の役などがそれにあたります.

元冦の時には幕府が武士に対して命令を出して防備や戦いの指令を出していますが,おおもとは天皇の命令によります.幕府は朝廷の中の一機関と言う位置にありますから,当然のこととして幕府は朝廷の許可を得て戦いにのぞんでいます.

このようにおおまかに「天皇」の命令により戦の準備をして戦う時には「役」を使っています.

ところが承久の乱は幕府側から言うと当然朝廷にそむいているので勝った幕府側から言うと「役」は使えません.朝廷側から言うと「承久の役」になるはずですが.この時の勝者は幕府側なので「乱」を使っています.

時々「承久の変」と書いてある本もありますが「変」にあてはまるほど小さな戦いではなかったので,通常は乱を使うのが正しいと思います.

変は騒動と言う意味があります.同じく騒動に「乱」がありますが,その大きさや内容によって使われ方が違います.変の場合は朝廷内部のクーデター(暗殺や小さな争い)などに使われることが多いのですが,戦闘がおおがかりになると「乱」を使います.壬申の乱や応仁の乱などがそれにあたります.

保元・平治の乱は戦いとしては小さかったのですが,当時としては京都市内で戦われた大きな戦いだったので乱を使っています.

このように立場によって時代によってちょっとずつ使われ方が違ってきていますが,大体次のようになります.

「役」=朝廷の命令によって敵と戦い朝廷側が勝った時の戦争につけられることが多い.

「変」=朝廷内部の権力争いで戦われる小さな戦いや暗殺事件など.

「乱」=朝廷内部の権力争いでも規模の大きなものや,大きな戦につけられる.

ところが平将門や藤原純友との戦には朝廷側が勝ったにもかかわらず「乱」が使われています.大きな戦争や朝廷に反逆した時に「乱」が使われる例です.

明治におきた「西南の役」は,天皇の命令で西郷軍をやぶったので役を使っていますが,もし西郷軍が勝っていれば乱になっていたと思います.

また,日本軍が満州を植民地にするための戦争を「満州事変」と呼んだのは,軍部が国民や世界に対して「大きな戦ではないぞ」と思わせるために戦争と言う言葉を使わなかった例です.これは日華事変も同じです.

このように最初に説明したように使われ方があいまいですね.勉強をしていくうえでこれらの言葉使いを明確にする必要があるのですが,今までそういうふうに使われてしまっているのでなかなか統一できないでいるのです.

そうそう,文永/弘安の役や応仁の乱,承久の乱などなど当時の人はそう呼んではいないことを覚えといてくださいね.これらはすべて後の人がつけた呼び名なのです.だからよけいにその時の状況によって呼びかたが変わってしまうのです.

ゲンボー先生より 


清教学園中2年 香織です.

この夏休みの宿題に、私は大好きな「源義経」の事について調べることにしました。それにしてもテーマが大きすぎるし調べ方なんかもイマイチよくわかりません・・・。どうか教えてください!!お願いします!!

ゲンボー先生

源義経は悲劇的な最後をとげたために「判官びいき」の名のとおり「英雄」として語り継がれてきました.

常識をやぶる戦闘を行い「平家」を滅ぼした「軍事司令官」として優れた働きをしましたが,一歩間違えると味方も危ういケースがいくつも見られます.ですから,梶原景時などの頼朝に信頼のあつい家臣からは「注意人物」として見られていました.

兄の範頼が「戦下手」だったために,義経に頼らざるをえませんでしたが,案の定,京都では後白河上皇をはじめとする公家達に「ちやほや」されて,朝廷側にうまくのせられてしまいました.彼は「戦闘」は得意でしたが「政治」や「戦争」は苦手だったようです.

先生も「物語」のなかの義経は大好きですが,実際の義経は????です.

壇の浦の合戦のあとは,村々をおそい殺人,強盗,放火などなどを義経の軍隊は行ったといわれています.木曽義仲をうったあとの義経軍は紳士的だったといわれますが,戦を重ねるうちにそのあたりの統率が効かなくなっていたようです.

兄頼朝は先の先を読み,家臣の意見をよく聞き入れて幕府を不動のものにしましたが,弟義経は「武士の政権」のもつ意味を最後までわからなかったのではないでしょうか.

香織さん,あなたの大好きな「義経」のイメージをぶち壊すような回答でごめんなさいね.しかし,歴史は色々な情報を集めてできるだけ真実を明らかにしようという学問です.一つの見方では無く色々な見方のあることを知ることと,そういう見方をする努力が大切です.

客観的に物事を判断する力が「社会科」の勉強の目的です.

ゲンボー先生 

こんにちは、ゲンボー先生!!香織です。このあいだは、質問に答えていただきまして、ありがとうございました!!

自分でもわからないなりにガンバっていろいろ調べてみました。今まで習った歴史では、どっちかっていうと義経のイイとこしか習ってなくて、悪いところ・・・とゆうか、いろいろな面から義経を見ることができてよかったと思っています。

夏休みの宿題のレポートは、もうだいたいまとまったのですが、私はやっぱり義経が好きなのでこれからもいろいろ調べていけたらなあ、と思います。ゲンボー先生、本当にありがとうございました。


宮原中学校の1年2組の山下です。平氏と源氏の戦い方について教えて下さい。

ゲンボー先生

平氏も源氏もともに武士ですから基本的な戦い方は違いません.ただし義経のようにそれまでの常識を破るような戦法は目立ちますね.

当時の武士は互いに名乗り合いながら,相手を確認し自分の名前を敵味方に宣伝していました.身分の高いもの同士が戦うときは一騎討ちです.その間家来は周りで見ていました.

負けた相手の首を持って帰れば恩賞がもらえます.その首が誰のものであるかは名乗っていますからわかりますね.相手の身分が高ければ高いほど恩賞も大きかったのです.

義経の戦いは奇襲戦法を基本として,軍団単位で動き,相手の意表をつくやり方でした.この方法は戦国時代や近代戦では当たり前のことですが,当時としては珍しい戦い方でした.ただしこうした事ができたのは,源氏方の武士が東国出身だったということがあるからです.公家化した平氏とは異なり質実剛健を旨とする関東武士だからこそできたことなのです.

それでも梶原景時などは義経のやり方に批判的でした.もし失敗したらどうなるか・・・ですね.将軍のために死ぬといってもそれは表向きのことです.武士の生活を良くするための武士の組織作りを目指す頼朝や有力御家人ですから.自分達や自分の仲間がそのような方法で危険にさらすことは出来なかったのです.

義経は戦には強くても,そこのところはよく分かっていなかったようです.家来を部品のようにしか考えていなかったフシもあります.世に言う「判官びいき」は江戸時代に演じられた歌舞伎が元になっています.歌舞伎の中の義経はカッコよくていいのですが,本当の義経はもっと違った人だったと先生は思います.

これでいいですか?わからないことがあったらまた質問してください.

ゲンボー先生


武蔵野市 中村裕一君の質問

鎌倉時代の農民はどういう暮らしをしていたのですか?図書館に行っても資料が見つからないので、教えて下さいお願いします.

 
ゲンボー先生

メールを有難う.一口に農民といっても地域によって,また身分によって生活の程度は大きく変わります.

荘園には自作農もいれば,小作人もいます.それぞれがそれぞれの立場で武士化しています.ですから君のはむずかしい質問ですね.

ごく平均的なというその平均が分からないから困るのですが,鎌倉時代の後期で自作農.それも近畿地方に限って説明しましょう.

自分で耕した土地を名田(みょうでん)といいますが,広さはまちまちです.人々は共同作業で川から水をひく水路を作りました.水車が使われるようになって水の確保が楽になりました.

しかし,こうした水はきびしく管理され,それぞれの地域で権利が決められています.田植えも稲刈りも共同の作業になりました.田楽(でんがく)などもこのころからはじまりました.

このように,それまで,結びつきが弱かった農村が,有力な農民を中心にまとまりを見せ始めたのが鎌倉時代後期です.

刈り入れ後はお祭りも行われたようです.お祭りといっても今のような大騒ぎではなく,神社にいってとれた作物を奉納したり,神楽という舞を神様にささげたりした質素なものです.

一般農民は掘っ立て式の家屋です.もちろんたたみはありません.土間にかまどがあって,板敷きの部屋が一つか二つです.

一軒づつに井戸があったわけではなく,水くみは女や子供の重要な仕事でした.また燃料は山へ行って拾い集めた薪(まき)です.山は村の共同管理でした.

一日2食の食事は質素で,お金で物を買うことは少なかったのです.したがって多くの農民は自給自足の生活を送っていましたが,進んだ地域である近畿地方の農民は,肥料をまき牛馬を使った農業を行い,二毛作をしていたことで,作物を町に売りに出て現金収入を得ていました.

そうした農民はお金で物を買うこともありました.服は糸を買ってきて自分で織るか,布を買って自分で裁縫するかでした.特に織りのうまい人はそれを商売にしていました.あとは古着屋で買うということもありました.一般の農民が新しい服を買って着るということはほとんど無かったのです.

こうした農民もひとたび戦が起こると,兵士として参加しました.この時代の戦は刈り入れが終わった秋の後半から田植えの始まる前までの,農作業の少ない時期に行っていました.なぜなら敵・味方互いに収穫が大切だったからです.

まとめると.衣食住ほとんどが自給自足.たまに現金収入があり必要なものを買う.それで戦があれば出ていって戦うのですから楽じゃなかったでしょうね.一遍聖絵のなかに農村風景がありますからそれを見るとよく分かります.

君も何かわかったら教えてください.

ゲンボー先生


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