中学生とゲンボー先生15
 
 
 
玉川学園・玉川大学


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鎌倉時代の家ってどんなのですか!教えてくださいっっ☆ 愛媛県伊予郡松前町立北伊予中学校 裕香

ゲンボー先生

裕香さん。メールをありがとう。地域によって、また住む人の身分によって家の形や大きさが変わります。武士や貴族の家は本にも出ているので庶民の家を説明しましょう。鎌倉時代の庶民の家は,「掘立柱建物」(ほったてばしらたてもの)「方形竪穴建物」(ほうけいたてあなたてもの)などが代表的なものです.

これらは当時の絵や遺跡から出てきた家のあとを調べてわかったことです. 「掘立柱建物」は西国に多く一遍聖絵などに多く見られるものです.柱の数は4本が基本で,部屋の数でかわります.柱は直接土の表面に立てるか,穴を掘って立てるか,石をおいて立てました.

先生のページに「中世の町を歩く」という項目がありますが,そこには現在の広島県福山市で発見された草戸千軒遺跡の家を見ることができます.

同じ, 「掘立柱建物」でも,東国つまり関東地方にですと柱2本の家が増えます.これは古代から続いている竪穴住居に近いものです.端が2本ということは地面に屋根がのっかているというかたちになります.

「方形竪穴建物」は関東,中部に多く発見される,半地下式の掘立柱建物で,こちらは同じく先生のページ由比ヶ浜遺跡のページで見ることができます.

ゲンボー先生


こんにちは。中学2年の上原と言う者です。今、学校の社会科で、福岡のことについて調べています。私たちの班のテーマは、「元寇」の事についてです。そこで、私が教えて頂きたいのは、『元寇と文化の関係』です。文化というのは、当時の福岡の文化の事です。

ゲンボー先生

上原さんメールをありがとう。

福岡は当時の日本の玄関です。中国や朝鮮から人や物が運び込まれました。また、日本のお坊さんや商人、商品も主にこの港から朝鮮や中国に渡っていきました。そのために、博多の町はおおいに栄え、外国人がたくさん歩いているという国際都市に発展しました。ですから福岡の文化というのは日本と外国の文化が入り交じったところに特徴があると思います。しかし、元寇は博多の町を火の海にしました。文永の役では多くの市民が殺され、家を焼かれたとあります。これによって博多は大きな打撃を受けました。

しかし、その後も博多(福岡)は国際都市として発展しました。一時幕府の鎖国政策で長崎に国際貿易港を移しましたが、明治時代になって再び貿易の中心地になりました。しかし、阪神工業地帯や京浜工業地帯の発展に伴い、海外貿易の中心は大阪、東京に移ってしまいました。それでも福岡は九州地方の経済の中心地として、重要な都市となっています。

ゲンボー先生


文林中学校 愛 承久の乱で、なぜ北条泰時は軍を3つにわけて攻めたのですか?教えて下さい。

ゲンボー先生

愛さん、メールをありがとう。

戦争するときには、相手に真正面からぶつかるだけではなく、周りを取り囲むかたちで攻めた方が有利です。それに敵も攻めてくる可能性があるわけですから、関東と京都を結ぶ大きな道をすべておさえながら軍を進めることが大切ですね。また、京都へ攻めるときにそれらの大きな道沿いにいる豪族を集める必要もあります。そういうわけで、関東の武士軍団は3つに分かれて京都を攻めたのです。

参考:承久の乱はなぜおきたか?

ゲンボー先生


はじめまして、ゲンボー先生。私は日東中学のあずみといいます。今私は日本史にはまっています。そこで少し気になるのですが、江戸時代265年間は比較的安定していたとはいえ、18世紀にはいってくると政治や経済で問題が発生していきましたよね。それ以降で本格的に幕府の体制が崩れ始めていったのはいつごろからですか??なるべく詳しくお願いいたしますm(__ )m

ゲンボー先生

あずみさん。メールをありがとう。

江戸時代は町人文化といわれているでしょう・・歌舞伎・浮世絵・文楽・俳句・川柳・・・絵画、演劇、文芸・彫刻、建築、あらゆる部門で町人が生み出したものです。これは何を表しているかといるかと言えば、江戸時代の主役が武士ではなく、商人を中心にした庶民だったということなのです。あずみさんも知っているように、江戸時代の政治は武士が行っていましたが、商人の存在なしには経済は成り立ちませんでした。

経済という生活の基盤をしっかり商人に握られているわけですから、その点からいうと、幕府ははじめから崩壊に向かって進みはじめていたと言ってもいいでしょう。これはひとつのものの見方です。しかし、ちょっと極論に聞こえますね・・

幕府経済が破綻したのは吉宗の享保の改革のころです・・え?・・享保の改革で幕府経済は持ちなおしたんじゃないの?・・と言いたいところですね・・・笑

吉宗は名君と呼ばれていますが、当時中心だった貨幣経済のことはよく理解できていなかったようです・・蘭学を奨励したり、目安箱を作ったりと良いこともしていますが、肝心の経済政策は失敗でした。吉宗さんの頭の中は「昔ながらの米経済を守ること」でいっぱいだったのです。これ以後、幕府は小判の改鋳を繰り返したり、米価を安定させようとしましたが、そのたびに失敗をしています。・・(懲りずに・・何回も・・)

江戸時代で経済のことをよく理解し、もっとも産業の進歩に貢献した人は悪名高い「田沼意次」です。この人はもとの身分が低かったために周りのやっかみにあって失脚しましたが、実際は悪い人ではありません。賄賂政治家のレッテルを貼られていますが、その当時の武士はほとんどやっていることです。しかも、それは賄賂という感覚ではなく、儀礼的な習慣とでもいったほうがいいでしょう。多少は多くいただいたのかもしれませんが、今日の賄賂をもらってつかまった人達とは同一視しない方がいいでしょう。

その意次さんも浅間山が噴火したり、蝦夷開拓がうまくいかずに失敗します。歴史に「もしも」はありませんが、もし意次のような人が続いて出現していたら、江戸時代は大きく変わっていた言われています・・・

さて、その後の改革政治はいずれも「的はずれ」で、すべて失敗・・・だって、経済の中心は貨幣なのに「物を生産しない」武士は、農民を支配して現物で取ることしか頭にないのですから・・・これじゃあダメですよね・・・ですから、先生は幕府の体制が崩れはじめたのは享保の改革だったとおもうのです。それなのに「なんでその後も幕府が続いたのか」って?

それは平和だったからです。江戸時代は世界史の中でもまれに見る「平和な時代」です。理由は鎖国や大名の締め付けが厳しかったからです。この点については幕府の最大の功績と言えるでしょう。商人は限られた権利の中で武士の体制をうまく利用して成長していきました。商人は軍人ではありませから、革命を起こすこともありません。

さて、崩壊しつつあった幕府ですが、目に見えて衰えたのは、ペリーが来たころからです。開国するときから幕府は及び腰だったでしょ・・開国するときにも朝廷にお伺いを立てている・・そんなことはそれまでになかったことです。それに攘夷運動がおきてしまうと、幕府は諸藩に対しても強い姿勢を示すことはできませんでした。もうガタガタです。

なんで、ガタガタなの?なんで及び腰なの?・・疑問ですね・・これも経済が原因です。「これからは商品経済だ」といち早く気がついて藩の改革に成功した薩摩、佐賀、長州などにくらべて、図体のでかい幕府(徳川家)はなかなか改革ができないでいたのです。その結果、経済力の弱かった幕府は、政治的な発言力も弱くなってしまいました。そもそも幕府というのは徳川家を中心にした大名の寄り集まりですからね・・藩政改革の途中とか失敗した連中の集まりなんですから当然です。組織的な幕藩体制の崩壊は大政奉還がきっかけですが、中身の崩壊はこのように徐々に徐々におこっていったのです。

みなさんが、江戸時代が武士の時代と思っているのは勘違いで、実際には庶民の時代だったんですね・・テレビで見ると、武士は威張って町中を歩いていますが、ああいう光景はなかったと考えるのが自然です。比較的武士が多かったと言われている江戸ですら、あっちに「ちらり」こっちに「ほらり」・・という感じですね。それに威張れませんね・・江戸時代の後半にはほとんどの武士が、商人や農民から借金をしてたんですから・・(もちろん、豊かな商人や農民からですよ)

私たちは、テレビや映画や、本やお芝居を通してその時代のイメージを作っていますが、実際にはそうでないことがおおいのです・・

農民だって、確かにお米が食べられない貧しい人もいましたが、普通の農家はテレビで見るよりもう少し楽な暮らしをしていました。その証拠に農民がずいぶんと旅行をしています。何ヶ月もかけて伊勢や西国に参ったりするのは、今日で言う海外旅行です。それだけお金があったのです。農村に貨幣が浸透するのは江戸時代。なんて言っていますが、すでに鎌倉時代からかなりの勢いで入っています。確かに身分が固定化されてから農村の貨幣経済は一時おとろえ気味になりましたが,農村での手工業の発達や都市近郊の商品作物の栽培によって農村での貨幣経済は盛んになっていきました.江戸時代は「米使いの経済」なんだと武士の立場で経済を見ているから,ついつい見落としてしまうのですが,実際には農村にも貨幣が浸透していました

映画やテレビドラマを鵜呑みにすると「真実」は見えないということですね。また教科書だけで勉強するのも足りないですね,あずみさんは「何年生?」先生も以前中学校で教えていたことがあります。君のように「なぜ?」と思うことは学習でもふだんの生活でも、とても大切です。その姿勢を大切にしてこれからもお勉強をがんばってください。

ゲンボー先生


中学1年生の小川です。庶民の女性達が小袖に湯巻を巻いた物をきていたというのを見て疑問に思ったのですが、鎌倉時代の庶民の女性達はなぜ湯巻きを巻いていたのですか?教えて下さい。

ゲンボー先生

メールをありがとう。

今の君たちはなんでスカートをはいているの・・という質問に似ています。人の服装は時代や地域によって流行があります。それと同じと考えてください。高貴な女性が着る十二単も、男性が着る衣冠束帯も・・・「なんであんな動きにくい服なんだ・・・」と思っちゃうよね・・

でも、あと千年ぐらいしたら「平成の頃の女性ってなんでこんな服を着ていたんだろう・・おかしいな」ときっと思われるよ・・・

湯巻きは多分作業をしたときに汚れないからでしょうね・・それが形だけの流行になったんだね・・


はじめまして。金旭中学校の青柳です。源頼朝について調べる事にしたのですが、どこのホームページを探してもいい情報が見つかりません。私は、頼朝の主に行ったことや、あまり公開されていない裏話などを知りたいのですが教えてください。

ゲンボー先生

教科書には出てこないものを書きましょうね

1.頼朝の好物は「ドライサーモン」だった・・・・「現在、新潟県村上の御家人が毎年名産品の「鮭のとば」(日本産鮭の薫製)を送っていました。これをお酒に浸すと柔らかくなり、とても食べやすくしかもおいしかった・・・頼朝は一人でニマニマ笑いながらこの鮭の楚割(そわり=すはわり/すはやり)を食べていたのです。

2.頼朝は恐妻家だった。この時代の身分の高い男性は奥さん(正室)以外に側室といって他にも何人も女性がいました。ところが頼朝の奥さんである政子さんは、それが許せなかったようで側室の家をぶっこわしたと記録にあります.頼朝はばつが悪くて政子にはなにもできませんでしたが,政子に告げ口した武士は頼朝に「男のくせによけいなことをしゃべるんじゃない」と髷(まげ)を切られてしまったそうです.当時,髷を切られると言うことはとても恥でしたので,頼朝はよっぽど頭にきていたんでしょうね・・・

3.頼朝はファミリーパパではなかった.頼朝の4人の子供は皆哀れな最期を遂げています.当時は生まれた子供は乳母(めのと)といって別の家庭で育てられましたから頼朝だけが冷たいわけではありません.しかし,頼朝自身が幼いときから両親に育てられていなかったせいもあって,子供の気持ちがなかなか理解できなかったようです.しかし,頼家が狩りで鹿を射止めると大喜びし,御家人にまんじゅうを配ったと記録にありますから,まんざらでもなかったかな・・・

ゲンボー先生


ゲンボー先生へ,はじめまして。僕は、横浜国大付属中学校1年生の大悟といいます。

今、夏休みの自由研究で鎌倉の切り通しのことについて調べています。そして、調べている時に京都にも切り通しがあることを発見しました。鎌倉と京都の切り通しは、なんとなく意味が違うと思っています。そこで質問なのですが、鎌倉と京都の切り通しには、違いがありますか?もしよろしければ教えてください。

ゲンボー先生

鎌倉と京都の切り通しは、実際に行けばよく分かるのですが、まったく目的が違うために見た目も違っているのです。

京都の切り通しは交通の便を良くするために、山や丘を切り開いたものです。

ところが鎌倉の切り通しは、敵を通さないようにするためのものですから、両側が切り立った、そこからしか入れないようなところに作られました。実際に切り通し以外から鎌倉にはいるのはとても大変です。

幕府はそこに関所を設けたのです。

ですから、京都と鎌倉の切り通しの意味が違うと考えた君のひらめきは正しい!のです・・・

ゲンボー先生


郡山第七中学校の一年生です。源義経&静御前&弁慶のことについて調べています。この三人のことを具体的に教えてもらえますか。よろしくお願いします。

ゲンボー先生

優貴君、メールをありがとう。

義経と静のことは先生のホームページを見てください。弁慶は紀伊田辺の生まれといわれていますが実際には不明です。比叡山のお坊さんだったようですが、僧というより僧兵のような荒くれ者だったようです。義経の家来には元山賊とか海賊みたいなのが多く、それがまた面白くて人気があるのですが、弁慶はそうした意味からは人気者キャラクターと言えます。

しかし、衣川で義経とともに死ぬまでその行動はナゾです・・・後に講談や歌舞伎に取り上げられて準主役的な存在になるのですが、実際には身分が低いために記録がほとんど残っていないのです。

ゲンボー先生


第一中学校の下西です。保元の乱ではなぜ父と子がばらばらに戦ったのでしょうか。あと、どちらの軍にも藤原氏がいたのって本当でしょうか。教えてください。お願いします。

ゲンボー先生

親子だけではありません、親戚同士でも分かれて戦ったのがこの時代です。

ただし、武士の場合と貴族とでは中身がだいぶ違います。貴族の場合・・この場合藤原氏は「権力」が欲しくて一族同士でいがみ合っていたのです。ですから彼らは仲が悪い。

一方、武士の場合は「一族が滅びないように」別れて戦ったのです。当時の武士が独立心も強かったと言うこともありますが、どちらかが負けても勝った方が生き残る、あるいは生き残った方が「命乞い」をして助けてもらえることがあったからなのです。ところが保元の乱では平氏に比べて義朝の源氏方は父・兄弟を助けることが出来ませんでした・・平良清盛は回転も速く上手に手を打ったのに比べて、源義朝はそういうことが出来なかったのです。やがて平治の乱で義朝が簡単に清盛にやられてしまうのも、そうした人物的な差があったからだとも言えるのです。

ゲンボー先生


藤島です。鎌倉時代で、仏教が広まっつた理由を、教えてください。

ゲンボー先生

メールをありがとう。

仏教そのものはず〜っと前からありました。しかしそれらは天皇や皇族や貴族達だけが理解できたり、権力を見せつけるための道具としてつかわれてきました。人々は「仏様」も神様の一人として相変わらず、太陽や星、それに木や山や石や川などが神の化身と考える「神道」を信じていたのです。

鎌倉時代になって武士をはじめとする庶民の力がつき始めると、仏教界でも変化が起き「庶民に分かりやすい仏教を広めたい」と考える人が出てきました。法然や親鸞は「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と唱えるだけで救われると説きました。これが浄土宗と浄土真宗です。

一遍上人は踊りながら南無阿弥陀仏を唱える「踊り念仏」を広めました。これが時宗です。

日連は法華経こそが最も優れた仏の教えと考え、「南無妙法蓮華経」とお経の名前を唱えるだけで救われると唱えました。これが法華宗(日蓮宗)です。また、座禅を組んで生きることの意味を考える禅宗も武士に受け容れられました。

どれも、それまでの仏教よりわかりやすく取っつきやすいものでした・・こうして門徒とか宗徒になった人にはもう少し詳しく仏の教えを説いたのです。

というわけで、鎌倉時代に新しい仏教が広まっていき、それがそのまま現代にも受けつがれているというわけです。

ゲンボー先生 


こんにちわ。静岡大学教育学部附属浜松中の「みおり」です。今、授業で「武士の時代700年間の中で人々が最も幸せに暮らしていたのはいつか?」というのを共通テーマとして追求を行っています。そして、私はそれぞれの時代(鎌倉、室町、戦国、安土、江戸)をお金の視点から見て追求を行っています。
そこで、今回私が聞きたいのは、お金についてなのですが,,,
1)それぞれの時代に、お金はあったのですか?
2)誰が使っていたのですか?
3)どういうことに使われていたのですか?
4)お金の視点から見てどの時代が人々にとって一番幸せだったのかとゲンボー先生は思いますか?

鎌倉時代しか教えてもらえないのかな?と思いますがそれぞれの時代について教えてもらえることができたら私はとてもうれしいです♪
よろしくお願いいます。

ゲンボー先生

みおりさん
メールをありがとう。

難しい質問ですね〜〜(笑)

1)鎌倉時代にも室町時代にも、その後の時代にも「お金」はありました。鎌倉時代は庶民にいたるまでお金が浸透した時代です。もちろんその後の社会も・・

2)一般庶民です。ただし、江戸時代になると身分を固定化して農民には農作物(特にコメ)だけを作らせるような政策にかわると、意識的にお金を儲けさせないような仕組みになりました。これが、誤解されて「それ以前はもっと使われていなかった」ということになってしまったのです。それでも商品経済は農村に浸透し、江戸時代の中ごろから終わりにかけては農村も貨幣経済のなかに組み込まれていました。

3)お金は今と同じように物を買うときや人を使うときに使われました。ただし、江戸時代までは交換するレートが、そのお金の状態(欠けていたりすり減ったものは安かった)によってかわりました。江戸時代になると品質の良い貨幣が安定して発行されたからです。

4)どの時代にも「幸せ」なことと「不幸なこと」があって一概には言えません。江戸時代だったら商人や豪農(ごうのう=豊かな農民)がお金持ちですから、それはそれで良かったでしょうね・・でも、商品経済が盛んでなかった鎌倉時代だって、お金持ちはいたわけで、そういう人は豊かな生活をおくっていたわけです。更に言うなら「お金がある」=「幸せ」とは言い難いですね・・
縄文時代にはお金はなかったし、平均寿命も短かったけれど、皆平等でした。ですから「幸せ」は尺度にならないのです・・そうではなくて、便利になったとか、物が豊かになったという点からは江戸時代ですし、もっと言うなら「現代」でしょうね・・

これでいいですか?もっと知りたいことがあったらまたメールをください。(^^)

ゲンボ-先生


前もメールした附属浜松中の「みおり」です。

1.お金は誰が使っていたのですか?と質問をしたのですがよくわからないのでもう少し簡単に教えてください。
2.前に質問したことを、それぞれの時代別にくわしく教えてください。

質問に答えてくれて本当に嬉しかったです。これからもわからないことがあったらきいてもいいですか?

ゲンボー先生

みおりさん

・日本で一番古いお金は奈良時代の「富本銭」(ふほんせん)といい、次に「和同開珎」(わどうかいちん)が有名ですが、どちらも一部の地域(奈良とその周辺)でしか流通しませんでした。地方の遺跡からも発見されることはありますが、お金として使われていたかどうかは不明です。
その後もお金は作られていましたが、日本製は数が少ない上に質も悪く、一般庶民には伝わっていませんでした。つまり一般の人(農民や漁民や木こりなど)は物々交換が多かったのです。
日本で始めて質の良い中国のお金を輸入して、本格的にお金によってものを売買させようとしたのは平安時代も終わりごろの平清盛です。この時から宋(そう=当時の中国)から大量のお金が日本に入ってきました。
やがて鎌倉時代になると、お金の輸入量は飛躍的に伸びて、一般庶民にも使われるようになりました。鎌倉の大仏を作る際には一般庶民がたくさん寄付したと記録に残っていますから、その当時(鎌倉時代の前期)にはすでに関東地方でお金が普通に流通していたことを表しています。
また、当時の記録にもごく当たり前のようにお金が使われていたことが書かれています。さらに、近年日本の各地から埋納銭(まいのうせん)といって、100文ずつを紐で通した「さし」というお金の束が甕(かめ)の中から発見されるようになってきました。
鎌倉時代の終わりごろには、日本中でごく普通にお金が流通していたと思われるようになってきました。

このことは室町時代・安土桃山時代も同じです。

ところが、江戸時代になって士農工商という身分制度が出来上がると、武士は農民にできるだけ多くのコメを作ることを求めたため、農村でお金に換銀される野菜やその他の工芸作物を作て売ることを抑えたのです。
それまで農村にも普及していた貨幣経済は江戸時代の前期には幕府の政策によって強く制限されるようになってしまいました。このことが「江戸時代より前には貨幣は一般に流通していなかった」と誤解されるもとになったのです。
しかし、江戸時代の中期になると都市では商人が大きな力を持つようになり、コメですら相場によって価格が変わるようになってきました。
農民に作らせてそれを税としてとり、商人に売ってお金を得ていた武士は、こうしたことによって経済を商人に牛耳られるようになっていきました。江戸時代に発達した文化が都市住民(商人・職人)の中から生まれたのはそうしたことがベースになっているのです。
売れるモノを作ってお金を得る・・という、当たり前の常識が農村にじわじわと浸透していくと、それまでコメだけを作らせていた武士も、売れるものを藩の特産品としてお金を得ようということにかわっていきました。これによって江戸時代の中期以降は農村に再び大量の貨幣が流れるこむことになりました。
都市近郊の農民はできるだけ良い作物を作るために、干したイワシで作った「ほしか」という肥料や、都市住民の糞尿を肥料にするためにそれ等を買って畑にまくようになりました。それでも高く売れればもうかるからです。

このように、江戸時代の中期・後期には経済が発達しましたが、同時に貧富の差が大きくなっていきました。成功してお金儲けが上手くいった農民とそうでない農民との差が広がったということですね。
時代劇でよく見る「貧しい農民」のイメージはこの時のものです。豊かな農民は豪農(ごうのう)とか、富農(ふのう)とよばれ、武士にお金を貸したりするほどの経済力を持っていました。先生の友人の家にもそうした農家があり、30年前に土蔵を壊すときに大量の借金の証文がでてきましたが、その殆どは江戸に住む武士達のものでした。

貨幣の流通量は経済の発達に比例していると言えますね・・

これでイイですか?言葉が少し難しいかもしれませんが君なら分かるでしょう・・(^^)
またメールをください。

ゲンボー先生


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