荘園支配の移り変わりをとおして

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目次

荘園以前と初期の荘園 荘園の出現 広がる荘園と開墾地 本格荘園のはじまり

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杵名蛭荘(きなびるのしょう)の今(富山県)   杵名蛭荘の管理所跡「高瀬遺跡」(たかせいせき)


高瀬遺跡は現在の富山県砺波郡井波町高瀬にあります.昔から田んぼを耕すと,土師器(はじき)須恵器(すえき)などの土器類や銅銭が出てくるところとして注目されていましたが,昭和46年(1971年)に発掘調査が行われました.
調査が進んでいくうちに,土の中からは「和同開珎」(わどうかいちん)や「万年通宝」(まんねんつうほう)などの銅銭や木簡(もっかん)という古代の荷札,漆器(しっき),土器,木材などが次々に出てきました.中でも掘立柱の出土は調査していた人を大いに喜ばせました.なぜならそこが古い本に書かれていた「荘園の管理所あと」だったからです.

荘園の跡からは領主に納めるための税となる,様々な農産物を集めて整理する正殿(事務管理をする建物)や倉がコの字型に建てられていたり,荷物を運搬するための運河が作られていました.

(言葉の意味)

土師器=素焼きの土器のこと.古墳時代から奈良.平安の頃まで作られました.一般には茶色をしています.
須恵器=土師器より高い温度で焼かれた陶器.灰が自然の釉薬(うわぐすり)になっているものもあります.一般には灰色をしている.
漆器 =うるしぬりの器のことです.木に塗ったものや,何枚も合わせた布を固めて塗ったものなど,いくつか方法があります.
木簡 =荷札の他に,事務的な記録を残したもの,戸籍(こせき)などがあります.当時は紙が貴重品だったので薄い木の板に書かれました.

 
運河の跡(今は菖蒲池になっています)

 
手前が倉の跡.奥の柱跡を残しているのが正殿跡.左手にも倉の跡があります

 
「じょうべのま遺跡」の例.同じようにコの字型に正殿と倉が建っています.
円イスに見えるのは,復元された柱の跡です.

 

さて.これらの荘園管理所にはどんな役割があったのでしょう?また,荘園ってどんなところで,人々はどんな生活をしていたのでしょう.これから,荘園について勉強してみましょう.

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1.荘園の成り立ち.

荘園以前と初期の荘園武士のいない時代から

荘園とは大きな寺院や神社.貴族がその財力で新しく開墾(かいこん)した土地のことを指します.それ以前は645年の大化の改新以後に決められた「公地公民の制度」により,土地と農民はすべて朝廷のものと定められました.652年には班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)が行われ,男女.子供.奴婢(ぬひ)にそれぞれ決まった広さの土地を貸し与え,農民から租・庸・調(そ・よう・ちょう)の税をとりました.下の図はその頃の農村の様子を表しています.田んぼは主に川の流域や水路沿いに作られています.

(言葉の意味)

財力=経済的な力のこと.「財力がある」というのは何かを行う時にしっかりとお金をだせることをさします.
開墾=原野を切り開き耕し畑や水田にかえること.
班田収授の法=男子には2反(現在の23アール),女子にはその2/3,奴は良民男子の婢には領民女子のそれぞれ1/3の田んぼが貸し与えられた.この田のことを口分田(くぶんでん)といい,その人が亡くなると土地を返すということが決められました.
奴婢=奴隷のことです.当時は人間の売買が認められておりは男性の,は女性の奴隷を指します.こうした人々は賤民(せんみん)と呼ばれ,一般の人々である良民(りょうみん)と区別されていました.奴婢の数は当時の人口の約10%といわれています.
租・庸・調=はお米,は労役のかわりに布などを,調は織り物や地方の特産物を,いずれも都まで運んでおさめる税でした.なお,租は収穫高の約3%といわれています.

農民にとって租・庸・調の取り立てはとても厳しいものでした.しかも税はそれだけではなく男子は兵にとられたり,雑徭(ぞうよう)や出挙(すいこ)もあって,逃げ出す農民が増加しました.このため耕されずに荒れはてた口分田があちこちに見られたと記録に残されています.農村から逃亡した農民を浮浪人(ふろうにん)とよびますが,多いときには5人に1人が浮浪人というありさまでした.後に,こうした浮浪人が有力者の荘園を開墾(かいこん)する力になります.

そこで,朝廷は723年に「三世一身法」(さんぜいいっしんのほう)を出しましたが,農民の逃亡はおさまらず,ついに743年に「墾田永年私財の法」(こんでんえいねんしざいのほう)を出しました.これは新しく開墾した土地の私有を認めるという法律でした.この決まりでは大寺社や貴族には広い面積(当時の500町歩)を,一般農民には狭い面積(当時の10町歩)の私有を認めました.貴族と一般農民とのあいだの豪族(ごうぞく)や役人にはその身分に応じて面積を割り当てました.500町歩〜10町歩というのは上限と下限の面積です.

(言葉の意味)

雑徭=1年に60日以内地方の労役に出ること.とても大きな負担であった.
出挙=役所が種もみを貸し出し,収穫後に利子と合わせて稲をとりたてること.
口分田=上にせつめいがあります.
三世一身法=新しく開墾した土地は親子孫の3代までは自分の土地にして良いという法律.4代めには返さなくてはなりません.
墾田永年私財の法=新しく開墾した土地は完全に私有化して良いという法律.初めの頃は身分により限度が決められていましたが,奈良時代の終わりには限度は無くなってしまいました.
豪族=地方の有力者のこと.大和政権時代から力を持ってその地方を支配していた一族のことです.律令時代となっても地域での影響力を持っていました.多くは郡司(ぐんじ)になっています.

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荘園の出現

さて,朝廷は新しく開墾して水田を作るときに,国の管理する用水を使う場合は「全て公田(こうでん)とする」というきまりであったために,完全に私有するためには新しく水路を作る必要がありました.水路を造るためには沢山のお金と労働力がなければできません.結局,そうした力を持つ寺社や貴族,あるいは豪族などが新しい土地を手に入れていったわけです.これが荘園のはじまりです.しかし,私有地といってもそこから収穫される稲に税がかかるわけですから,朝廷にとっても大いに助かる話だったのです.(ただし有力な寺社には免税の権利が与えられています)
さらに749年に東大寺の大仏ができると朝廷は東大寺に4000町歩の土地を開墾してよいことを認めました.もちろんその他の寺院にも2000町歩,1000町歩と認めていき,ここに大規模な荘園があらわれることになりす.今でも各地に東大寺領の荘園であった所が数多く残っているのはそのためです.こうした荘園を現在では初期荘園と呼びます.下の図はその様子を表しています.

(言葉の意味)

公田=朝廷の支配下にある田んぼのことです.つまり収穫されたお米から租を朝廷に納めなくてはならない田んぼです.

 

上の図が初期荘園のイメージです,新しく開墾された田んぼのことを「墾田」(こんでん)といいます.水路も新しく作られたものです.これらを作るための労働力は,貴族や大寺社が抱えていた奴婢,それに口分田を捨てて逃げ出した浮浪人,あるいは近くに住む農民の力を使いました.一般の農民には賃金が払われましたがその多くは収穫された「お米」で支払われていました.一般に直営の荘園ではほぼ全額が荘園主の収益となりましたが,一般の農民の力を借りて経営している荘園では1/5に収益が減りました.運送費も荘園主が負担しますから,遠いところでは荘園経営が成り立たなかったといわれています.この時代の荘園分布が近畿・中国・北陸地方に集中していることでそれを証明できるといわれています.
というわけで,この時代の荘園の持ち主は貴族や大寺社が圧倒的に多かったのですが,農民の取り分以外に租として朝廷にも税を払っていました.ですから朝廷の収入はそれなりに確保されていたというわけです.武士はまだまだ登場しません.

また,9世紀になると,天皇家自身が財政をおぎなうために,勅旨(ちょくし)により勅旨田(ちょくしでん)を開墾したり親王に賜う親王賜田(しんのうしでん)を盛んに行ったため,私有地はどんどん増加していきました.また,貴族たちはこれらの土地に「荘官」(しょうかん)と呼ぶ使いを派遣しました.荘官は荘園の開墾を指揮し収穫された農産物をおさめる倉を設けました.これを「庄所」(管理所のこと)とよび,地名を付けて「○○庄」と呼びました.これが荘園のはじまりといわれています.初期の荘園は全てこうした荘園主が直接経営にたずさわっていました.

(言葉の意味)

勅旨=天皇の命令   勅旨田=天皇家の墾田   親王賜田=天皇の子供の墾田 
荘官=この頃の荘官は荘園主に派遣された人.後の荘官とは大きく異なりますので要注意

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広がる荘園と開墾地

字の荘園と開墾地を分けたのは「荘園」は有力貴族や寺社が持っている私有地のことで,開墾地とは地方豪族が切り開いた墾田のことをさすからです.「どこが違うの?」ということですが,中央の有力寺社,あるいは貴族の領地でなければ「○○庄」と呼ばれなかったからです.
さて,9世紀のなかば頃より地方の豪族も盛んに土地を開墾しはじめました.このころには班田収受の法はほとんど無視され,有力な農民の中には代々耕作していた口分田を自分の物にしてしまったり、未開地を開墾する者も現れました.こうした土地のことを「名田」(みょうでん)と呼び,持ち主を「名主」(みょうしゅ)と言います.下の図では耕す者がいなくなった荒れた口分田の他に名田が出現しています.また,新たに水路が開発され盛んに荒れ地が水田にかえられていきました.墾田永年私財の法が出たことにより,大開発が行われていきました.

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本格荘園のはじまり

有力貴族に集まった荘園

初期の荘園は寺社や貴族が,お金と労力を自ら調達して開いたので自墾地系荘園(じこんちけいしょうえん)と呼ぶのに対して10世紀以後の荘園を寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)と呼びます.寄進とは「さしあげる」ことですから,「誰かにあげた荘園」ということになります.「誰か」,というのはこの場合権力を持つものということになります.1016年に摂政になった藤原道長は「この世をば わが世とぞおもう 望月の 欠けたることもなしと思えば」と歌によみました.この時代もっとも権力をふるっていた藤原氏は,たくさんの荘園を手に入れていきました.

(言葉の意味)

自墾地系荘園=自らの財力で新たに切り開いた荘園を,現代の学者がこう分類したわけで,当時の人がこのように呼んでいたわけではありません.
寄進地系荘園=荘園主の名目的な持ち主を,有力者にかえた自墾地系荘園のことです.

横暴な国司

国司とは今の県知事にあたります.藤原氏が勢力を持っていた頃には,藤原氏の都合のよいように国司が任命されました.したがって藤原氏一族や藤原氏に沢山贈り物をする貴族が選ばれたのです.中には任地に行かずに代理人をおき,都に住んでいる国司もいました.この頃の国司のなかには領民から定められた以上の税をとりたてて,藤原氏に贈り自分の地位を守ったり,自分の収入を増やすことに熱心だった者もいた,と記録にあります.さらに,国司の中には部下に命じて豪族の開墾した土地を襲ったりする者も現れました.

代理人に仕事を任せた国司のことを遥任国司(ようにんこくし)といい,実際に任地にいってそこを治める国司を受領(ずりょう)といいました.

力をつける有力農民(武士の登場)

口分田は次々と名田化し班田収授の法は全く行われなくなりました.また,藤原氏のような超有力貴族の力が強まるとそれまでの領主であった大寺社や一般貴族の力が衰えてきました.そうした初期荘園の中では農民自身が小さな開発を行って私有化する者も現れました.これは口分田に対する名田の関係と同じです.こうした田のことを「治田」(はりた)と呼びます.
そして,こうした農民や豪族は国司の横暴(おうぼう)から自分の土地を守るために武装するようになりました.これが武士のはじまりです.つまり,始めの頃の武士は武装した農民だったのです.

横暴=決まりを無視して暴力で自分の思いを遂げること.

不輸不入の権

「不輸」(ふゆ)とは税を朝廷におさめなくてもよいという権利です.これは有力な貴族や寺社が自分達の収入を増やすための取り決めです.正確には「不輸租」(ふゆそ)といいます.「不入」(ふにゅう)とは役人の立ち入りを拒むことのできる権利のことです.初期の頃は寺社だけが持っていた権利ですが,やがて貴族達にも認められるようになりました.そもそも法律を作る人が貴族だからです.特に藤原氏は力が強く,広い耕作地を持つ豪族や有力農民はあらそって自分の土地を藤原氏に寄進しました.(もちろん藤原氏以外の貴族や寺社にも寄進されています.)

本来の持ち主からすれば,今まで朝廷に納めていた租・庸・調を藤原氏などの有力者に納めるようにしただけと言うことになりますが,こうしておけば豪族は国司の横暴や,隣地との争いに有利になります.なぜなら,その土地は有力者の荘園となり,「不輸・不入の権」を得ることができるからです.一方,貴族にとっては何もしなくても多くの農産物や特産物が手に入るわけですから,両者にとって有利な条件ということになります.
こうして多くの荘園領主が中央の有力者にかわっていきました.こうした名目上の領主のことを「本所」(ほんじょ)とか「領家」(りょうけ)と呼びました.そして本来の持ち主は「荘官」「下司」(げし)「地主」と呼ばれ実質的な荘園の支配を行いました.名を捨てて実をとったわけですね・・

"したたか"な有力農民

寄進していた先の貴族や寺の勢いが弱まると,寄進先を替えなくてはなりません.なぜなら領主の力が弱まればいくら「不輸・不入の権」を主張しても無視されたからです.そこで,力を失った貴族や寺社は自らを「預所」(あずかりどころ)と称し,自らが寄進された荘園をさらに有力貴族に寄進したのです.つまり名目上の持ち主の,そのまた名目上の持ち主・・というわけです.

また,本来の持ち主である荘官の中には寄進先をくら替えするものもいました.こうしたことから荘園には複数の名目上の持ち主が現れることになります.ややこしいですね・・・ここで,ちょっと整理してみましょう.

図・本格的荘園が出現するまで

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寄進地系荘園が出現するまでは,一部の寺社や貴族の土地を除いて,全ての田租(でんそ=税となる米のこと)は直接都へ運ばれたり,国司のもとへ集められました.国司は必要経費を除いてそれらを都に運びました.ところが班田収授の法が行われなくなると,私腹を肥やす(しふくをこやす)国司が増え朝廷に出すべき租税をごまかしたり,自らの領地を増やすことに熱を入れる者も現れました.一方荘園も寄進によって「不輸・不入の権」を手に入れますから,朝廷へ納められるべき租税は少なくなる一方でした.それでは困るので,天皇家も自らの荘園を持ちました.ここにいたって律令制度の根幹である「班田収授の法」は事実上消滅しました.
これから先は荘園や名田,あるいは治田が経済の基盤となります.こうした状況の中で農民が自らの生活を守るために武士化していったのです.

(言葉の意味)

私腹を肥やす=立場を利用して自分がもうけること.一生懸命働いて得た収入では「私腹を肥やす」とはいいません.

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図・荘園支配の移り変わり

ちょっと,まとめてみましょう

自墾地系荘園の持ち主は「領主」で,荘官は使いにすぎません.ところが豪族の開墾田などは,有力貴族や大寺社に寄進して,名目上の持ち主にしましたね.ですからこの時期の本当の持ち主は「荘官」ということになります.自墾地系荘園と寄進地系荘園の荘官とは全く性質が違います.
さらに,特定の貴族(特に藤原氏)の力が強まると,名目上の領主がさらに自分より強い力を持つ貴族に寄進するという形をとります.今までの領家は預所(あずかりどころ)と称し,田租の一部を寄進した貴族に納めました.この時期でも事実上の持ち主は荘官で場所によって下司,地主と呼ばれました.

自墾地系荘園はのちのちまで続きますが,領主である貴族や寺社の力が衰えると支配力が弱まり,荘園内を新たに開墾して私有地にしてしまう者や,使いだったはずの荘官が力を付けて,自らの墾田を増やすといったことが行われるようになりました.こうなると律令とは名ばかりになってしまいました.平安時代中期から後期は強い者が勝ち,弱い者は滅びるか強者に従うという時代になっていきました.

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説明のとおり,豪族の開墾した土地は寄進されています.口分田はもう見られずに「名田」になってしまいました.また自墾地系荘園の中にも「治田」化した土地が見受けられます.このように,土地の所有は大小の権力者によってそれぞれ,勝手に名目を変えたり,開墾したりするようになりました.
さて,今までの話は荘園発達の標準ですからこれを良く覚えて,いよいよ武士とのかかわりについて勉強してみましょう.ここをクリックして下さい.

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制作・著作 玉川大学・玉川学園 協同:多賀歴史研究所 多賀譲治