荘園

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玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所

 

「鎌倉時代の勉強をしよう」が本になりました。大人から子供まで、どなたにも分かりやすく荘園が出来た時代背景を知ることができます。
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目次

朝廷がほぼ全国を支配していました 法律ができました. しかし,うまくいきません. 

朝廷は荘園を作ることを認めました. 武士の登場. 税をはらわない荘園. 

武士をまとめる武士の登場. 関東の武士. 武士の地位があがる. 

関東武士の希望.それが幕府だ. 土地が基本. 

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荘園(しょうえん)ができるまでのお話し.

朝廷がほぼ全国を支配していました

大化の改新(645年)のあと,日本の国は大和朝廷の力が強まり,その朝廷が中心となって政治を行うようになりました.それまでは地方のしはい者(豪族=「ごうぞく」といいます)が,それぞれの地いきごとに人々をしはいして,政治を行っていました.この時代までを「古墳時代」(こふんじだい)といいます.

大化の改新の後,土地と農民はすべて国(朝廷・天皇)のものとされました.これを「公地公民」といいます.そして国ごと(今の県にちかいです)に朝廷からつかわした役人を国司として,その下に豪族を郡司(ぐんじ)や里長(さとおさ)にして地方をおさめました.

図1大化の改新前(国ごとに支配者がいます)    大化の改新後(朝廷が多くの国を統一しました)

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そして国ごとに国司をはけんしました.

図2 国ごとのそしき図

国司=(朝廷からつかわされた貴族が,一つの国の責任者となる)

郡司=(地方豪族が任命される.国のなかの郡(20〜30里(村)を管理する)

里長=(有力農民が任命される.50戸の農家を管理する)

法律(ほうりつ)ができました.

また,朝廷はそれまで地いきごとに違っていた決まりを全国共通のものに変えました.それを律令(りつりょう)といいます.現代の法律とおなじですね.律令には様々な取り決めがありました.税金のこと,刑ばつのこと,役所の仕組みや仕事の内容と,とても様々でした.なかでも農地と税のことは国の経済の基そですからとても大切でした.

農地と税のことについて決められている法律が「班田収授の法」(はんでんしゅうじゅのほう)です.これも律令の一部です.目次

図3 班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)とは・・

  • 6年ごとに戸籍(こせき)を作り,どこに誰が住んでいるかをあきらかにする.(農民の数を知るため)
  • 農民男子は2段(たん=23アール)・女子はその3分の2というように,農地を貸した.(公地)
  • そして税である「租・庸・調」を納めさせた.租(そ)はお米庸(よう)は布調(ちょう)は特産物
  • 農民が死んだら,その土地はふたたび朝廷に返さなくてはならない.

しかし,うまくいきません.

農民には租・庸・調以外に60日間も命令でタダ働きさせられたり,兵隊にならされたりと,とても多くの仕事をしたり税を払わなくてはなりませんでした.苦しくなった農民は村を逃げだして大きなお寺や神社のもつ領地,あるいは別の村に住むようになりました.こうなると耕す人のいなくなった田んぼ(公地)がふえて,租・庸・調の収入もへります.そこで,こまった朝廷が出した法律が「三世一身の法」(さんぜいいっしんのほう723年)です.三世一身の法とは,新しく耕して作った農地は親・子・孫の三代までは,家族がもっていてよいとの取り決めです.しかし,やはり朝廷に返さなくてはなりませんから,ほとんど新しい農地は増えませんでした.目次

朝廷は荘園を作ることを認めました.

三世一身の法でだめだったので,こんどは「新しく耕した土地は永久にその人のもの」という法律を出しました.これが「墾田永年私財の法」(こんでんえいねんしざいのほう743年)です.こうなると有利なのは大きな力をもつ寺や神社,それに貴族や豪族です.それぞれ多くの人をつかって原野をたがやし,水路(すいろ)を作り農地を広げていきました.これが「荘園」のはじまりです.荘園では村を捨てて逃げてきた農民や,近くの村に住む農民が手伝ってお米や野菜が作られました.この時の荘園は租・庸・調を朝廷に払っていました.目次

図4 荘園ができるいきさつ

武士の登場(とうじょう)

荘園のあいだには境界(きょうかい)をめぐっての争いや,農産物をうばいあうなどの争いが多かったようです.その上,国を守る国司のなかには,自分が国司でいるあいだに沢山もうけようと,やとった兵に荘園をおそわせたり,よ分に税をとるといった悪い国司もでてきました.そこで自分たちの村や家族を守るために,武器をもって戦う集団が現れました.これが武士のはじまりです.目次

税をはらわない荘園.

大きな寺院や神社には税を朝廷に納めなくてもいいという,特別のあつかいがありました.これを「不輸の権」(ふゆのけん)といいます.また,役人が入れない「不入の権」(ふにゅうのけん)もありました.これに目を付けたのが貴族たちです.皆さんは藤原氏のことを勉強しましたか?貴族の頂点だった道長という人は「この世の中は 満月が欠けていないように すべて私のものだ」という意味の和歌を作りました.これは,貴族たちが不輸・不入の権を得たため,多くの豪族が自分の荘園を貴族たちにあげてしまったからです.

あげたといってもそれは形だけで,実際の支配はいままでどおり豪族が行っていました.こうしたことを寄進(きしん)といいます.豪族自らは「管理人」(かんりにん)とか「荘官」(しょうかん)とか「下司」(げし/げじ)という領主の部下という形をとりました.もちろん形だけの持ち主である貴族たちには「お礼」がはらわれました.こうして道長の時代には多くの荘園が藤原氏のものになっていきました.目次

図5 税を払わない荘園がふえる仕組み

貴族に払うお礼のほうが,国家におさめる租税よりやすかったし,役人が入ってきて,へんなことをされないので,本当の荘園の持ち主は次々と名目上の持ち主を貴族にかえていきました.(名目上=名前の上だけでとか,かたちだけという意味)

 

武士をまとめる武士の登場.

国司のなかには,仕事がおわっても京都に帰らない人もいました.こうした人たちは都へ帰っても大した仕事も無ければ収入も増えないという人々でした.でも地方では大変に位の高い人と,うやまわれ,生活も良かったのです.しかもこの人たちは貴族や天皇の親せきですからとても「血筋(ちすじ=いえがら)の良い」高貴(こうき=身分のたかい)なお方ということになりますね.荘園や村に現れた武士たちは自分たちのリーダーとして,こうした人を選んだのです.その代表が源氏と平氏です.それまで小さな地いきでバラバラだった武士の集団が「源氏」とか「平氏」といったまとまりに成長していくわけですね.こうしたリーダーのことを「棟梁」(とうりょう)といいました.目次

図6 武士団のしくみ

関東の武士.

関東地方は新しく開拓(かいたく=野山を田畑にすること)された農地が多く,都からも遠かったため争いの多かった地いきです.それぞれの荘園や牧場などにいた豪族たちは早くから武士の集団を作って互いに助け合っていました.なかでも源義家(みなもとのよしいえ)は,関東の武士をよくまとめ,大きな戦で手柄を立てています.ふつうは戦争に勝つと「敵の領地を分け与えたり」「有利な位にしたり」されるものですが,朝廷は「身分の低いと考えられていた武士」には冷たかったのです.そこで義家は自ら家来の武士に恩賞(おんしょう)を与えました.こうしたことで関東では源義家に信らいをよせる武士が多かったのです.このことが子孫の頼朝にとって,とても有利なことになりました.目次

武士の地位があがる.

戦の時になくてはならない武士でしたが,都での身分はとても低く「貴族のそばにつかえる者」(さぶろう者)といわれていました,侍(さむらい)という言葉のもとはこの(さぶろう者)からきているのです.やがて京都で大きな戦がおこりますが,そこで活やくしたのが源氏と平氏でした.なかでも平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも=頼朝の父)の働きは立派(りっぱ)でした.貴族は位は高くても何も出来ないということが人々に少しづつわかってきたのです.そこで清盛は義朝を戦いでやぶって,朝廷の中での高い位につきました.こうして平氏による政治が行われるようになりましたが,平氏の政治は荘園に地頭(じとう=平家の役人)をおくなど武士的なところもありましたが,貴族の政治と大差(たいさ)はありませんでした.

目次

関東武士の希望(きぼう).それが幕府だ.

都では平氏が良い生活をしていましたが,地方の武士の生活は少しも良くなりませんでした.あいかわらず戦はあるし,うかうかしていると自分の土地だって,誰かにとられてしまうかもしれないからです.頼朝は罪人(ざいにん)として現在の静岡県伊豆の韮山(にらやま)に住まわされていましたが,見張り役だったはずの北条氏の力をかりて伊豆地方の役人の館(やかた)をおそいました.その後,熱海(あたみ)の近くで負けてしまいましたが,源義家の子孫である頼朝が伊豆で兵をあげたことはすぐに関東中の武士に知れわたりました.平氏の政治に不満をもつ武士や,頼朝を助けて自分たちの生活を守ってもらおうと思った武士はとても多く,命からがら逃げた上総(かずさ,今の千葉県)で数万の武士が頼朝の味方につきました.こうして次々と集まってきた関東の武士をまとめたのが頼朝で,関東武士の棟梁となったわけです.詳しくはここ.

こうして多くの武士の期待にこたえるために作ったのが「武士の」「武士による」「武士のための」政府でした.それが鎌倉幕府なのです.将軍である頼朝の家来になった武士は御家人(ごけにん)と呼ばれ,「ご恩」と「奉公」(ほうこう)の関係で結ばれていました.武士にとって最も大切なことは一族が栄えて平和に暮らしていくことです.そのためには,1.まず「自分の支配している土地」を将軍に認めてもらうことです.そうすれば,他人が攻めてきた時に幕府の軍隊が守ってくれます.また,境界あらそいがあっても公平に裁判にかけられます.2.次に「新しい領地をもらう」ことです.新しい領地とは農地のことです.農地が増えれば収入が増えます.戦の働き具合によってそのほうびが決められますから,当時の武士はできるだけ目立つように戦いました.こうして土地を守ってくれたりくれたりすることを「ご恩」といい,将軍のために戦うことや幕府の役所ではたらくことを「奉公」といいました.目次

 図7 将軍と御家人の関係

土地が基本.

武士の領地の多くは荘園のなかにありました.戦争で敵から奪(うば)った土地も荘園の一部です.武士は荘園という大農園から生まれ,領地を守りふやすことを仕事としてきました.それは土地が物を産み出すもとだからです.明治時代まで日本の経済(けいざい)の基そは「農業」でした,なかでも主食でもあり保存のきく「お米」はお金と同じ価値をもつものとして長いあいだ,大切にされてきました.領地=農地=お米というわけです.

鎌倉幕府がほろびる理由も,武士の一族が増えたのに土地が増えないということが原因なくらいです.この時代のことを良く知ろうと思ったら,「荘園と武士の結びつきを知らなくてはならない」,というのはこうしたことからなのです.

このページは小学生のために作りましたが,教科書には出ていないことが多く書いてあるため,すこし難しいと思います.分からないことはゲンボー先生や君の先生に聞いて下さい.目次

内容に関する注意 一般に鎌倉幕府とよばれるようになったのは江戸時代からのことです.鎌倉時代の人々は将軍の住む館のことは幕府と呼んでいましたが,政治のそしきのことを「幕府」とはよんでいませんでした.しかし,ふつうは鎌倉の武士政権を「鎌倉幕府」と呼ぶため,この学習でもゲンボー先生は幕府という言葉を使っています.


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制作・著作 玉川大学・玉川学園 協同:多賀歴史研究所 多賀譲治