玉川大学教育博物館 館蔵資料の紹介(デジタルアーカイブ)

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館蔵資料の紹介 1991年

玉川大学教育博物館 > 館蔵資料の紹介 > 1991年 > 荷田春満の自筆和歌と和学学校設立請願書『創学校啓』

国学の先駆者 荷田春満の自筆和歌と幕府に上申した和学学校設立請願書『創学校啓』

国学の先駆者 荷田春満の自筆和歌と幕府に上申した和学学校設立請願書『創学校啓』

(上)『荷田大人創学校啓』
慶應2年 序
26.7×18.3cm

(下)荷田春満
和歌懐紙
紙本墨書
27.2×39.3cm


写真は荷田春満(かだのあずままろ)(寛文9-元文1・1669-1736)が詠んだ自筆和歌と、彼が1728年に幕府に上申した和学のための学校設立請願書『創学校啓』の刊本(慶応2年版)です。

春満は歌人であり、また和学の研究者として、合理的精神を貫き、特に『万葉集』『古今集』『古事記』『日本書紀』などの古典、古語の文献的注釈、校訂、考証を行い、後に賀茂真淵(かものまぶち)(1697-1769)、本居宣長(もとおりのりなが)(1730-1801)らによって真の国学となる端緒をつくった人として知られています。

春満は京都の人、姓は荷田、氏は羽倉、名は信盛、後に東丸(あすままろ)(東麻呂・東万呂)、春満(あずままろ)と改めました。代々家は稲荷(いなり)の神官で、神道、有識故実(ゆうそくこじつ)、和歌を家学(かがく)として伝え、春満は古典研究の環境に恵まれていました。彼は漢学を学んだ上で国典の研究を深めました。はじめ、一家の「羽倉風」という歌学(かがく)をもって師となり、29歳の時、妙法院宮尭延法親王に歌道を講じ、後に江戸に下り、家学の神祗道(しんぎどう)や歌道の教授で名を広め、門人を出しました。55歳で、将軍吉宗の命により古書校勘(こしょこうかん)に携わり、家名を上げました。春満にとって、幕府との脈絡は、当時、学問といえば儒仏学のみであったので、国典研究の必要性を幕府に訴える好機であったといえましょう。

やがて彼は京都でその研究に自信を深め、60歳で国典研究の学校を創る計画を立て、『創学校啓』を養嗣子在満(ようししありまろ)を通じて幕府に上申しました。その文頭は「謹んで鴻慈を蒙り国学校を創造せんことを請う啓」とし、文末で「古語通ぜざれば則(すなわ)ち古義明(あきらか)かならず、古義明かならざれば則ち古学復さず。先王の風迒(あと)を払い前賢の意荒(すさ)むに近きは一に語学を講ぜざるに由(よ)る。これ臣が終身精力を古語に用い尽くす所以(ゆえん)なり。伏して以(おもん)みるに斯文の興ると廃(すた)るとは固(まこと)にこの挙の取ると捨つるとに在り。願わくは閣下意を留めて幸に察したまえ。臣東麻呂誠惺誠恐頓首頓首謹言。」と鄭重に、古学であり、古道学である皇国(こうこく)の学(がく)の確立を熱望しています。だが彼は学校設立の夢は果せず病没しました。国学の夢は彼の晩年の門人賀茂真淵によって大成されました。

写真の和歌は「冬の日に雪の中、友を尋ねて詠んだ和歌」で「多多須三矢柴能安三止越叩久間尓曽亭仁毛雪乃津毛李計類可南」(たたずみてしばのあみどをたたくまにそでにもゆきのつもりけるかな)と詠んでいます。春満は万葉復古を歌論の本旨として主張し、このように万葉仮名で自ら詠み、門人たちにもこれを奨めています。しかし彼の作には著しい万葉調はみられず、彼の本領は皇道復古の気慨を歌った抒情歌でした。

「全人」1991年3月号(No.513)より

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