玉川大学教育博物館 館蔵資料の紹介(デジタルアーカイブ)

教育博物館では、近世・近代の日本教育史関係資料を主体とし、広く芸術資料、民俗資料、考古資料、シュヴァイツァー関係資料、玉川学園史及び創立者小原國芳関係資料などを収蔵しております。3万点以上におよぶ資料の中から、月刊誌「全人」にてご紹介した記事を掲載しています。
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館蔵資料の紹介 1996年

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板碑

板碑

板碑

板碑(いたび)は板石塔婆ともいい、13世紀前半から17世紀初頭まで造られた石製供養碑で、特に14・15世紀に盛んに造られた。現在仏教式の墓に建てる木製の卒塔婆(そとうば)と、基本的に同様の性格を持つものである。

本資料は玉川学園構内の奈良池の畔で発見された完形品で、長さ50.3cm、幅18.8cm、厚さ2.3cmを測る。頂部を山形に作り、二条線と呼ばれる横位の切れ込みと顎(がく)部を作る。体部を細く浅い線刻によって四角く囲み、中に蓮座に乗った阿弥陀如来を象徴する梵(ぼん)字(種子)のキリークと、蓮華を挿した華瓶(けびょう)、それを挟んで「延文六年/六月日」と2行にわたって刻む。下部は粗い調整で尖らせる。種子・蓮座は深く丁寧な薬研(やげん)彫りであるのに対し、華瓶と紀年銘は単純な線刻であり、明らかに彫刻の技法が異なっている。これは異なった場所での加工、つまり採石地近くで全体の形を作り、体部に加工の目安となる方形区画線と蓮座以上を彫刻した半完成品の状態で出荷され、建立地付近の石工が紀年銘等を加えて完成したものと推定される。

板碑は先祖の供養や自身の極楽往生を願って造立されるが、残念ながらこの板碑には造立著名や目的は刻まれていない。しかし南北朝時代の延文6(1361)年は北朝の年号であることから、造立者又はこの地域が北朝の影響下にあり、また阿弥陀種子であることから、浄土教系の宗派に属する人物によるものである可能性が窺える。なお延文6年は3月に康安元年と改元されたにもかかわらず六月と記されており、東国まで改元の情報の周知に時間がかかったのであろう。

武蔵国内で見られる板碑は、ほとんどが埼玉県の秩父地方で産出する緑泥片岩を加工したもので、武蔵型板碑と呼ばれる。この石は輝緑色を呈するため秩父青石ともいい、層状に剥離する性質を持つため板状に割りやすく、また軟質で刻字等の加工が容易である。特定産地の石材の製品が広域に分布しているということは、緑泥片岩を使用することに何らかの意義或いは必要性があった可能性が指摘できるし、一種のブランドであったともいえよう。またそれを支える生産・流通ルートが確立していたことも示しており、板碑の運搬には、荒川や多摩川の舟運が利用されたと考えられている。板碑という商品は石製のため腐朽せずに残り、生産地と消費地の関係が比較的容易かつ明確に捉えられ、中世流通史の面からも興味深い存在である。

このように板碑は製作年代が特定できる中世の考古資料であると同時に、土地に密着した文字史料としての性格や、その他様々な付帯情報も兼ね備えた遺物なのである。

「全人」1996年11月号(No.581)より

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