鎌倉時代に発展した海と陸の輸送

目 次

鎌倉時代の主な港と街道  海上輸送 国内の輸送海外貿易 陸上輸送  昔の道の断面図

 関東にできた軍事道路  鎌倉時代に最も重要だった「東海道」  鎌倉時代の輸送手段  大切な道の役割

玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所

 

 

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はじめに  

鎌倉時代になると京都と鎌倉を結ぶ東海道の整備をはじめ,武士や商人の移動が多くなり道が発達しました.特に村の中で鋳物(いもの=鉄を作ること),や養蚕(ようさん=カイコを育てて絹を作ること),漆器(しっき=うるしぬりの生活用具),和紙など様々なものが生産されたり,海産物や畑の作物,加工食品が盛んに作られるようになると,人や物の移動が活発になり道路が発達しました.

また,鎌倉幕府は「いざ戦争」という時にそなえて鎌倉を中心に関東地方に広がる軍事道路「鎌倉街道」を造りました.

さらに,中国や朝鮮から織物や陶磁器,薬,お金をたくさん輸入したり,日本から刀や木材,漆器などを輸出する貿易が盛んになりました.鎌倉時代というと「物々交換(ぶつぶつこうかん)だったのかなあ・・」とか,「経済が発達してなかったんだろうなあ・・」と思われがちですが,実はそうではなかったということが最近の研究で分かってきました.

このページではそんな鎌倉時代の交通についてお話しします.

鎌倉時代の主な港と街道

 

 

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海上輸送

1.国内の輸送(ゆそう)

奈良に都が作られて,全国から「租・庸・調」(=主にお米・よう=布または米・ちょう=特産物,例えば海産物や織物などを税として納めること)を集めるために海運が発達しました.内陸地からは人が背おって川や海の船着き場に集められ,そこから舟に乗せて奈良の近くに陸あげされ,更に人や荷車に荷をのせて朝廷や貴族のところに運ばれました.

やがて京都に都が移されて平安時代になると,海運がいっそうさかんになりました.特に日本海側の国々から集められた税は,現在の福井県敦賀(つるが)や小浜(おばま)から陸の道を通って琵琶湖(びわこ)まで運ばれ,そこから舟にのせかえて大津まで運ばれました.大津で陸あげされた荷物は再び荷車につまれて京都へと運ばれたのです.また,そのころになると京都の特産品が諸国に運ばれることが多くなり,そこでも琵琶湖や日本海を利用した水上交通が大いに利用されました.

さらに,鎌倉時代になると産業も発達して日本のあちこちで作られたものが,京都だけではなく鎌倉を初めとする地方の都市や町にも運ばれるようになりました.また,鎌倉時代の中期から後期にかけて日本でも大型船が作られるようになって,それまで波が荒くて難しかった太平洋側の海上交通もしだいにさかんになっていきました.

大切だった「琵琶湖」のやくわり.

琵琶湖が日本最大の湖であることはみなさんも知っていますね・・・琵琶湖周辺の地図を見て分かることは,

1.京都の近くにあること

2.日本海に近いこと

です.

琵琶湖は陸地にある「海」と同じで,日本海と京都を結ぶたいせつな交通路でした.そのために古くから港(津=つ・浦=うら)が作られ,運送業がさかんでした.なかでも堅田衆(かただしゅう)は有名で,運送や護送(ごそう=舟や荷物を守ること)の中心的な存在でした.堅田衆は運送業者ですが、きちんとお金を払わないと「海賊」のようになったと言われています.

港の利用料は「津料」(つりょう)といいますが,運ばれる荷物の価値の1%程度だったといわれています.こうしたお金は港を管理していた寺社や豪族に払われました.もちろんそれ以外に運送料も必要ですね・・・・港をふくめて航路には縄張りがありました.これを「庭」(「にわ」とか「ば」と言う)といいました.つまり,それほど運送業者が多く,琵琶湖の輸送がさかんだったことを表しています.

ではここで,富山県の「じょうべのま」という荘園から運ばれた荷物が,どのように京都に運ばれたかをモデルとして説明しましょう.

「じょうべのま」の荘園で集められた税や商品は,海の近くに作られた運河の集積所(しゅうせきしょ=ものを集める場所)に集められました.そこには,庄所とよばれる役所がありました.(図中の「じょうべのま荘園」をクリックしてホームページを見てください).そこで荷物を調べて舟にのせて,日本海に船出します.海流の関係もありましたから京都へ行くときには海岸線に沿った航路を選んだはずです.舟はところどころで停まりながら「敦賀」を目指します.

敦賀では荷物を荷車に移しかえました.そこから塩津までは陸路を進みます.敦賀−塩津間は直線距離で30キロ程度ですから約一日の行程です.塩津で荷物は荷車から舟にのせかえられます.舟は荷車よりたくさん積めますから一定量がたまったら積み込んだのだでしょう.もちろん,津料(通行税)や運送料も払いました.舟は大量の荷物を少ない人数で運べますからとても便利な運搬(うんぱん)手段です.塩津から大津までは90キロの行程ですから,舟だと約半日の行程ですね.

大津に陸あげされた荷物はふたたび荷車にのかえせられて京都に運ばれました.大津−京都間はわずか10キロです.つまり3時間もあれば京都市中に荷物を運び込むことができるのです.

もちろん,京都からも美しい織物や刀剣,漆器(しっき=うるしぬりの木製品)や陶器(とうき=焼き物のうつわなど),加工食品などが諸国に運ばれていきました.日本海方面の荷物はとうぜん琵琶湖を使って運ばれていきました.大津から塩津への舟にはそうした荷物が積み込まれたのです.

どうですか?日本では古くから,思った以上に海運や水運が発達していたのです・・・次は外国との海運の話です.

※おまけの話.みなさんは「とろろ昆布」や「おぼろ昆布」を知っていますか?どちらも昆布を薄く削(そ)いだ加工品です.ところで昆布そのものの有名な生産地は北海道の日高や利尻ですが,その加工品は敦賀が本場なのです.それは,昆布そのもを京都に運ぶよりも加工して量を少なくした方が楽なのと,加工することによって利益を得ることができるからなのです.鎌倉時代すでにとろろ昆布は敦賀で作られていたのだそうです.

2.海外貿易

日本をとりまく海流には暖流と寒流があります.一つの国でこれだけ複雑に海流に囲まれているのは日本だけです.当時の人々はこの海流をうまく利用して人や物を運びました.外国との貿易で窓口になるのは北九州の博多です,宋(そう=中国)や高麗(こうらい=朝鮮)との貿易は博多を中継基地(ちゅうけいきち)として発達しました.しかし,青森県の十三湊(とさみなと)のように直接外国との貿易をする港もありました.

輸入品を積んだ船は対馬海流に乗って十三湊に運ばれました.反対に,十三湊から輸出品を積んだ船はリマン海流に乗って運ばれていきました.こうすれば早く楽に博多や高麗,あるいは宋に行くことができます.十三湊からはそれを裏付けるように宋や高麗の青磁(せいじ=緑色の固いやきもの)や白磁(はくじ)が出土しています.日本からは昆布(こんぶ)やシャケや木材,硫黄などが運ばれたことでしょう.

  

これが当時の貿易航路(国際航路)です(左).輸入品を積んだ船は大きな港につくと小さな船に商品をのせかえ,それぞれの港に送りました.陸揚げ(りくあげ)された品物は道を使って内陸の町に運ばれました.輸出の時はその逆ですね.

右は当時の中国の大型船(模型)です.鎌倉時代の後期になると日本でもこのような大型船が作られるようになり,その本物が韓国の木浦(もっぽ)沖から発見されました.日本のお寺が荷主(にぬし)の船で,国宝級の青磁や800万枚もの中国のお金がそのままの形で発見されました.そのことから1.お寺は今の商社のように貿易をしていた.2.すでに鎌倉時代は大量の貨幣(かへい=おかね)を必要とするほど経済が発展した.ことが分かります.

  

当時の十三湊(模型・左)どんな嵐でも十三湖(じゅうさんこ)に入ってしまえばもう安心. 十三湖は天然の良港です.(現在の十三湖・右)

  

当時この地方を治めていた安藤氏一族の館あとは夏草がおい茂っていました.(左)  遺跡から発見された中国の青磁.(右)

  

同じく青磁の腕(左)と中国のお金(右)

十三湊の発見はこれまでの常識をくつがえすものでした.今は津軽(つがる=青森県津軽地方)の一漁港ですが,今から700年前には国際貿易港としてとても繁栄していたことがわかったからです.出土した館の跡や遺物がそれを物語っています.

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陸上輸送

奈良時代に朝廷が日本全土を支配すると,「租・庸・調」(そ・よう・ちょう)という税を集めるためや軍隊を送るための「道路」を整備しました.当時の道は計画道路ですから,役所のある国府と国府のあいだや大きな村や町を直線で結びました.そして約16キロごとに「駅」を作りました.朝廷の命令や地方でおきた戦の情報を素早く伝えるために,駅には決められた数の馬が用意してありました.使者はその馬を乗りついでいったわけです.主な街道が海に近いところを通っているのは,島国でしかも山国の日本では多くの人が海の近くに住んでいて,大きな港や町が海辺に発達したからです.

鎌倉時代の主な街道は奈良・平安時代に造られた街道とほぼ同じルートです.しかし,この図には出ていませんが脇道が多く造られ村と村,港と村が新しい道路で結ばれていきました.

古代〜中世の計画道路は,このように一直線に作られることが多かったようです.ですから高速道路を作ると不思議と古代や中世の大道が発見されます.当時も今も効率よく町を結ぶと同じようなルートになってしまうところが面白いですね.ところが室町時代や江戸時代になると道の幅は狭くなり,山や谷などの障害物をさけるように曲がって作られました.時代が新しくなれば何でも発達するというわけではないということです. 

全国各地で発見されている古代〜中世の道の断面図を紹介しましょう.全てがこの規格どおりではありませんが,これらの道は測量をし,設計図をひき,山を切りひらき谷を埋め,表面を何度もつき固めて作られています.この大がかりな土木工事を行ったご先祖様の素晴らしい知恵と努力が分かりますか?

 

重要な道は朝廷や幕府が計画したので,規格が決められていました.奈良・平安時代には今の高速道路にあたる「駅路」と一般国道にあたる「伝路」がありました.駅路は効率よく最短ルートをとおるのでほぼ直線.幅は約12メートル.路面を良くつき固め雨水を流すための側溝(そっこう)がありました.


 

一方「伝路」は郡衙(ぐんが=地方の役所)や国衙(こくが=朝廷の出張所)を結ぶためにあったもとからの道を利用したり,新しく作ったものがありました.ですから直線の所もあれば曲がる所もあるというわけです.幅は約6メートルでした.


鎌倉幕府は関東の武士が自分たちの利益を守るために,頼朝を中心にして作った「武士の政府」です.しかし,京都を中心とする朝廷の力は強く,いつ何時「大きな戦争」がおきるか分からないという不安定な状態でした.そこで,幕府は「いざ」というときに関東中の御家人をできるだけ早く集めるために,関東地方を縦断し鎌倉に至る軍事道路を3本作りました.これが鎌倉街道です.

関東にできた軍事道路

鎌倉時代に作られた有名な鎌倉街道は,たくさんの武士や食糧を短時間で鎌倉へ集めるための計画道路ですから直線的に作られた部分が多いと言われています.幅は約6メートルと伝路とほぼ同じ規格ですが,面白いのは丘陵部(きゅうりょうぶ=丘や小さな山)に入ると図のように両側が壁のようになる掘り割り道になることです.馬に乗った武士が進軍するところを見えないようにするためと言われています.この壁は平地の部分にも土を盛って土塁(どるい)として築かれた場所もありました.

時代が新しくなると,鎌倉街道は商品や人を運ぶ道路に変わっていきました,やがて鎌倉が関東の中心地でなくなると道は本来のルートから外れて,村と村を結んだり,山や丘にそって曲がりくねった道になっていきました.現在,多くの解説書に紹介されているのはそうした,後の時代の鎌倉街道が多いようです.本当の鎌倉街道は林の中にひっそりと眠っています.

「これが最初(ホント)の鎌倉街道  

※これまで「道」は一般の遺跡と異なりあまり重要と思われていませんでした.そのために宅地や道路の造成で,ずいぶんこわされてしまいました.東京都町田市の野津田・小野路地区は本物の鎌倉街道がもっとも良い状態で残っている唯一の地域です.今後,この貴重な遺産をどう守るかが問われています.

    

多摩市で見つけた鎌倉街道.両側の壁は木や葉っぱでかくれています(左) 町田市の鎌倉街道.両側の壁が分かりますか?(右)

 

多摩市と町田市の境で見つけた鎌倉街道の断面.青い線ではさまれた土の層がつき固められています.

 

 

鎌倉街道は現在の群馬県・栃木県・埼玉県・東京都・神奈川県を縦につらぬいて鎌倉に集中しています.君の家の近くにもあるかもしれません.「これが最初(ホント)の鎌倉街道   

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鎌倉時代に最も重要だった「東海道」

朝廷のある京都と武士の政権がある鎌倉を結ぶ東海道は当時最も大切な道として,幕府によって整備が進みました.それまで板東と呼ばれる「東国」と京都を結ぶメインルートは現在の中央自動車道とほぼ同じルートをとる「中山道」でした.幕府が道や駅を充実させため旅行者が増え「旅籠」(はたご)も整ってきました.今で言う旅館ですね.これが江戸時代の「東海道五十三次」の元になりました.幕府にとっての東海道は(1)京都の情報をいちはやく知るための道.(2)京都にある六波羅探題(ろくはらたんだい=西国を治める幕府の役所)に行き来する武士のための道.(3)いざというときに大軍隊を送る道.でした.記録によると京都と鎌倉間はふつうに歩いて16日かかりましたが,早馬では3日という記録が残っています.これは承久の乱の知らせで,朝廷が幕府を討てという命令書より一日早くついたおかげで,幕府は素早い行動がとれたと言われています.当時も今も「早くて正確な情報」が大切という証のような出来事でした.

しかし一般の庶民にとっては商品を運んだり,京都や奈良に住む荘園領主に税を払う道でした.特に鎌倉時代の後期になると経済が発達し東海道は経済の道としての役割が大きくなりました.しかしそれでも大きな川には橋が無く,山には山賊が出ることもあって危険な道でもあったのです.旅人が安心して往来できるようになったのは江戸時代になってからと言われています.

鎌倉時代の輸送手段 

陸上交通で多く使われたのが馬でした.この絵では米俵をのせていますね.馬を使った専門の輸送業者を「馬借」(ばしゃく)と言います.米俵を運ぶ場合は通常一頭の馬に二俵を積みました。よく見ると馬借の子供が米のようなものを口に入れています。荷主が駄賃(だちん=馬の運搬料)を出し渋ると米を抜いたりしたそうですから、多分この絵は腹をすかした子に抜いた米を食べさせている場面でしょう・・・面白いですね・・

 

  

荷車は一度に大量に運ぶことができますが,でこぼこ道や坂道がぬかるんでいたりするとお手上げです.特に西日本ではこの絵のように牛に引かせることが多かったようです.このように車を使った輸送業者を「車貸」(しゃしゃく)といいます.この絵では五俵の俵を牛車に積んで運んでいますがよく見ると手前に米俵二俵を積んだ馬借も描かれています。興味深いのはどちらも少年がひいていることです。庶民の子供達は早くから親の仕事を手伝い、10歳くらいになれば一人前として家計を助けていました。

 

湖や沼,それにちょっとした川なら小舟でものを運ぶことが便利でした.

町作りやお寺作り,それに日本の大切な輸出品だった「木材」の多くはこのように「いかだ」を組んで運ばれました.

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大切な道の役割

いかがでしたか,道には人と物と情報を運ぶ大切な役割があるということが分かりましたか?どんな時代もどんな文化も道がなければ発展しません.人が住んでいると言うことはそこに必ず道ができるということです.私たちは現代のことも含めて,歴史を学ぶときに「道」の存在を忘れてはなりません.
ゲンボー先生はこのページを作りながら,鎌倉時代の航路と道路の関係が「まるで現代のフェリーとトラックのようだ・・」と感じました.古代の大道が現代の高速道路と同じルートを通ることや,海や川の道と陸の道がまるで人間の血管のようにうまくつながっていることにも感心しました.道に限ったことではありませんが,私たちは「昔」という言葉のひびきにとらわれずに,祖先の素晴らしい仕事を見失なわないように注意をはらう必要があると強く感じています.


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鎌倉時代の勉強をしよう  鎌倉時代の道を行く(小野路編)  鎌倉時代の道を行く(足柄古道編)  これが最初(ホント)の鎌倉街道  


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制作・著作 玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治