承久の乱

         2年アンデス N.O.

こんな訳で幕府と朝廷は対立していきましたが、源氏の正当な将軍が絶えたとき朝廷はもう幕府もつぶれるだろうと考えました。しかし、政子や義時が京からかわりの将軍を連れてきて政治を北条氏の思うままにしました。そのためついに朝廷は義時追討の命令を出しました。しかし、これは、幕府を否定するものではなく、幕府の力を無力化させるための乱だったのです。                                         

さて、新しい将軍が鎌倉につくまえに京都では後鳥羽上皇の差し向けた兵により京都守護の源頼茂が殺されました。一番多い説は上皇の周辺でおしすすめられていたある計画を知ってしまったため、口を封じるために殺されたという説。これは朝廷が幕府に対する先制攻撃だったと考えられています。                                      

そして、朝廷は反幕府軍を募りました。北条氏に反発する御家人が多いことを考え,兵士を集めたのです。主に朝廷側についたのは京都に在住していた御家人や、京都周辺の守護を勤めている御家人でした。朝廷側は「もし幕府軍を倒せたらその分の荘園をやる」とそそのかしたのです。朝廷側についた御家人の中では北条氏に反発していて、積極的に参加していた武士もいますが、多くは朝廷に対する怖れから参加していました。朝廷が特に期待していたのは、三浦氏(義村)でした。その三浦義村の弟の胤義が京都に在住していたのです。朝廷はその胤義に相談をし義村に朝廷側につくようにという内容の手紙を送ったのです。しかし、義村は幕府側についたため兄弟で戦うはめになりました。                                      

朝廷は祭といって京都周辺の御家人を集めて挙兵しようとしましたが、唯一,伊賀氏だけは従いませんでした。そのため朝廷は胤義を招き、伊賀氏を討とうと会議を行い、だまし討ちをしようとしましたが,計画を伊賀氏が知り用心したため、殺すのは容易でなかったのです.しかし外でばったり会い、伊賀氏は三十騎余で対抗しましたが、多勢に無勢負けてしまい自害します。幕府への情報提供者だった者も幽閉せれてしまい。そして朝廷軍は挙兵しました。                   

今まで述べた事件は幕府にもとどいていたと思われます。まさしく幕府にとってうられたけんかでした。政子は御家人同士の団結を図るため演説をしました。そして、朝廷側の軍勢をむかえうつことにしました。御家人の動揺をのけるために『うらない』までしてもらいました。結果は幕府の『吉』でした。初めの計画では、箱根と足柄の難所に軍を置く作戦でしたが、御家人が動揺していることを考え西上することになりました。幕府軍は三軍に分けて、三方向より京都へむかいました。朝廷側はこれを防ごうとしました。幕府の進路、戦のあった場所は以下のようになっています。   

   


この乱は幕府の勝利だった。朝廷側についた武士は味方に裏切られ京都や寺に入れてもらえなかったのでいくところがなくなってしまった。乱後は朝廷の領地は没収し、三上皇は配流となりました。幕府は京都に六波羅探題を置き、京都の監視をしました。この後しばらくは平和となりました。

 

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