承久の乱はなぜ起きたか

平安の頃から京都に住む貴族達はすごい豪華な生活をしていました。貴族はたくさんの土地、荘園を持っていました。その荘園を守るため武士が生まれた訳です。平氏が出てきて朝廷を利用した政治を行っていましたが,本当の意味で武士らはこの頃,まだ団結していなくて、バラバラで戦を起こしていましたが、そこへ頼朝がでてきて、弱い立場の武士同士団結しようと言いました。そして、鎌倉幕府ができたわけです。               

ところで、鎌倉幕府のある東国と、朝廷のある西国とでは様々な面で西国の方がまさっていました。例えば気候。西国は温暖な気候に対し東国は寒く、農業がしにくい。また大陸に近い西国は文化や道具の発達(農具・肥料など)が東国に比べて早い。人だって西国の方が多い。こんな事から西国の方が収入が多い訳です。

当然東国の幕府側は西国を領地にしたかったのです。しかし、西国は朝廷のほうが支配しているし、まだこの頃の朝廷の力は強かったのです。そこで幕府は,頼朝にたいする謀反人ということで義経を利用しました。義経は源平の合戦の際最も活躍した人でしたが、その後,朝廷が義経に頼朝を討てと命じたため,頼朝は怒り義経を討てと命令を出しました。そして朝廷には「義経を討つため守護と地頭(守護−国内の警察などの統率をする。地頭−荘園の管理をする。)の設置を認めてほしい」と迫りました。義経が逃げ回り、逃げ回った各国に守護を各荘園に地頭をおきました。これはできるだけ武士の支配地を広げるためです.さらに、西国を逃げ回っていた義経をわざと関所を通らせたりもしました。できるだけ多く守護地頭を置こうとしたためです。そのためには義経には逃げ回っていてもらわないとこまるのです。西国の荘園の地頭は中には,鎌倉から派遣したのもいるが、ほとんどがそこにいた武士がつとめていました。                      

さて、初めのうち地頭は、荘園からとれた年貢を少しだけ貰っていたが、力を持つようになると年貢を取る量が増えてきて、最後には年貢の全部を領主に渡さず取ってしまうようになり、領主に仕えていた農民をこき使うようになりました。困った領主はそれ以上土地を取られないようにするために,あらかじめ領地を半分に分けてしまいました,このことを下地中分といいます.そこで困ったのが貴族や朝廷です。今まで、取り立てた年貢を使い贅沢な生活をしていたものが、下地中分により結果として収入が減るわけです。朝廷は幕府をつぶそうと考えました。一方幕府は西国の領地が欲しいと思っていました。こんな朝廷と幕府の思いが承久の乱を引き起こしたといえます。    

他にも色々な説があるので、紹介しておきます。

1、実朝が暗殺されたが、実朝がいなくなると、朝廷と幕府の仲がさらに悪くなりました。それは武士の中で貴族的な実朝が将軍を勤めていることで,まだ仲がもったが、殺されてしまったため武士と貴族の仲のクッションというべき人物がいなくなったからで,急激に仲が悪くなりました。

2、朝廷側は長江・倉橋の荘園をかえせといったために乱が起きたといいます。その荘園は後鳥羽上皇の愛人の実家の元領で、もしその領地をかえしてもらえば朝廷側はこのままゆさぶりをかけ続けられ、幕府側は大きな打撃をこうむるということです.北条氏にとってこれは大きな問題で、ただでさえ将軍を失っている御家人の荘園を理由なしに取り上げたとあれば武士の団結がなくなるどころか、御家人達は北条氏に向かってくるでしょう。当然北条氏はこれを断わりました。              

どれも少しは承久の乱にかかわっていると思います。しかし,最も大きな理由は東国武士の棟梁だった源氏の血筋が絶えたことにより,武士の団結が弱まると思っていた朝廷側の誤算でした.結果として、実朝の暗殺を機に朝廷側が挙兵したのです。

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