高校生以上の方からの質問4

このページは中学生以上の方からの質問やお便りを掲示しています.

 

玉川学園・玉川大学


小学生とのやりとりはこちら

中学生とのやりとりはこちら

P1  P2  P3  P4  P5  P6  P7 P8

P9


はじめまして。いつもケンボー先生のホームページを楽しく見させていただいている大学生の奈津子です。

今日は、鎌倉時代の年貢について質問があります。農民からの年貢は地頭→荘官→貴族(領主)にいくわけですが、そこの年貢から、幕府にはいかないのですか?

あと武士は土地を貸している農民からの年貢も収入になるときいたのですが、それは幕府にはいかないのですか?農民は土地を貸してもらっている武士にも年貢を払って幕府にも払わなきゃいけなかったのですか。 あと地頭の報酬は誰からもらっていたのですか?

質問がおおくてすみません。ゲンボー先生のHPは教科書には載っていないことが多いので、とても勉強になります。

ゲンボー先生

奈津子さん.メールを有り難う.さて答えです.

国衙領・荘園ごとに少しずつ異なっています.つまり全国一律ではない,ということなのです.

現代の感覚からいえば「法律」があって「組織」があれば,仕事の中身は全国同じです・・・しかし,この時代には法律はあっても,時期や地域によって解釈も実行の内容もまちまちでした.極端にいえば為政者によって,力関係によって,人によって少しづつ違うということです.本に書いてあることは「最大公約数」なんですね・・・

では最大公約数と最小公倍数を足して(???),説明しましょう.(笑)

1.地頭が集めた年貢は1反につき5升の兵糧米を幕府に送る義務がありました.これが藤原氏との戦の戦費である文治の軍事行動費の元になったものです.この時の大部分の地頭はすでに自分の領地を安堵された関東の御家人達です.

戦は自前でやるのが当たり前ですから,御家人となった武士は一族郎党を引き連れて戦列に加わり新たな恩賞を求めました.しかし組織としての戦費も必要だったのです.その戦費はもちろん頼朝軍の経費にも使われましたが,弱い部分の応援や,公費としての部分に充当されました.

2.平氏滅亡のあとに,平氏領に送り込まれた地頭ですが,それぞれの荘園の支配形態によって異なります.純粋に平氏が持っていた領地は任命された地頭が自由にできたから良いとしても,平氏に寄進されていた多くの荘園には本来の持ち主である,下司や荘官がいるわけです.1反につき5升の兵糧米の徴収はそうした荘園において地頭取り分の名目にもなったと思います.

この段階では平氏に無関係の荘園には力を持つ「本所」や「預所」がいて,地頭を送り込むことさえできないというのが実情でした.

3.承久の乱以後にはいわゆる「新補地頭」が西国の国衙領,荘園に配備されましたがこれも2と同じく,明らかに幕府に敵対して没収された荘園と,そうでない荘園とでは全く様子が異なります.

また,強引に領地や権利をうばっていく地頭と,そうでない地頭もいました.それに配備された直後は取り分が少ないですよね.そこで幕府は地頭の最低限の収入として,集めた年貢1反あたり5升の「加徴米」を地頭の取り分として決めました.これは1の兵糧米とは異なるものです.

※この項編集しました。「泣く子と地頭にはかなわぬ」は、江戸時代の旗本(地頭)の支配統治に対する言葉で、鎌倉時代の地頭を指すものではありません。

4.関東の御家人(地頭)の領地は,自分やその祖先が切り開いた農地ですから,当然そこには小作人がいました.小作人の年貢は領主に払うべきもので,それ以外に幕府や荘園本所あるいは国府には払いません.

御家人の持つ国衙領や荘園の年具はそれぞれ本所や国府に払われました.それ以外に1のような兵糧米が加わりましたが,本領が安堵されたり新恩(領地)が貰えたりすることに比べれば微々たるものでした.

5.これでおわかりのように,地頭の報酬は自分の領地から集められた年貢.もしくは配備された荘園・国衙領から集めた年貢の中からの加徴金,あるいは侵略した土地からの収入.あるいは領民を脅して働かせて得る収入などです.有名な「あて川庄」の農民の訴えにある地頭は最後のパターンで収入を得ようとした典型です.おぼえていますか?

農民に木を切り出せとか裏作に麦をまけと命じて,「いやなら女子供の髪を切って鼻や耳をそぐぞ」と脅かされた農民の訴えです・・

奈津子さん,このように本に書かれていることと実際は微妙に異なっています.これらを適切に説明することはとても難しいことなのです.ですから教科書などは最大公約数で説明せざるをえないのですね.

ゲンボー先生


また質問なのですが、鎌倉時代の惣領は地頭の役割もしていたのですか?奈津子

ゲンボー先生

奈津子さん

惣領というのは嫡子のことです.つまりその家系を受け継ぐ一族の長です.

地頭は御家人の役職名です.御家人の場合は領地を惣領が相続してきましたが,鎌倉時代の終盤になると様相が変わります.長い間戦がなかったために新たな領地が貰えなくなった御家人は,元の領地を分割して相続させることになりました.各地に惣領分とか庶子分という地名が残っているのはそのためです.

律令制下では惣領と庶子の分割に関する割合が決まっており、鎌倉時代にも基本的にこれを踏襲しています。それによると惣領2に対し庶子1ですが、分割相続が続く鎌倉時代中期以後にはまちまちになったようです。なお、一族を代表するのは惣領で地頭は惣領が任命され、これを惣領地頭と言いますが、庶子も一族内の地頭となるケースがあり、それらを一分地頭とか半分地頭、あるいは三分一地頭と呼びました。ただしこれも鎌倉時代中期以後に庶子地頭が権利を主張し独立するケースが増えました。(この部分、書き換えH21.1.15)

ゲンボー先生


高柳です。高校生です。

鎌倉時代の”教育”について教えてください。お願います。 

ゲンボー先生

高柳さん メールを有り難う.

鎌倉時代にももちろん教育はありました.しかし,現在のような学校ができるのは江戸時代になってからのことです.(寺子屋・藩校など)まず,簡単な読み書きは「親」が知っている場合には子供に教えました.計算なども簡単な足し算引き算くらいは教えていたと思いますよ.でもこれは非常に少ない・・・

商人は読み書きや計算ができなくてはなりません.これは先輩や主人から教えてもらい,後は自分の努力でがんばる・・でしょうね.つまり一般人は親とか身内とか,職業上の先輩から教わると言うことです.施設がないのです.

しかし,貴族は違いますね.職業的な教師からマンツーマンで文字や計算を習 っていました.中でももっとも重要なのが,楽器を習うこと,和歌を習うことでした.また寺には僧侶がいますが,当時のお坊さんはお経を習い,人の生きる道を説く学者です.ですからお寺で勉強を教えてもらうということがありました.

下級の貴族や役人は役所に入ってから教えてもらったり,代々役人の家は親から子へと読み書きや計算が受け継がれています.さっきいった職業的教師はこうした人が多かったようです.

武士もやはりお寺で勉強をしたり,親や親戚の中で知っているものから習っています.

庶民でもお寺に入って僧侶を目指せば誰でも教育を受けることができました.ですから優秀な子は仏門に入ったり,武士の家の家来や養子になったのですね.

しかし,このような教育が受けられる人は限られていました.正確な数字は分かりませんが数パーセントと言うところでしょうか・・・現代に生きる我々は,とても大きなチャンスに恵まれていると言うことです.頑張ってください・・

ゲンボー先生


お世話様です。とっても助かりました!!お忙しい中、本当に感謝します。お疲れさまでした。高柳


大学生の渡辺です.高校生に対し、中世の全体像について語ることとなりました。専攻が先史考古学(古墳時代)であり、あまり、中世について詳しくないのですが、結局のところ、簡潔に表すならばどんな時代であるといえるのでしょうか。考古学の研究成果を含めながら、ただの政治史ではなく当時の社会の裏とかを話せればと思っています。当時のおふれ(?)のようなもので、「家から出されそうな病人等を見かけたら、それをやめさせなさい。また、出された病人や幼子を見かけたら寺院で(養護施設みたいなところ)面倒を見なさい。」というような話を耳にしたのですが、やはり、そんなにも当時の庶民の暮らしは決して楽ではなかったということですか?

ゲンボー先生

わたなべ君.教育実習頑張ってください.指導案は大切ですが指導案通りにやろうとうすると・・(つまり君のペースで)かならず行きづまります.授業は生徒ともに作るモノです.そのためには事前の教材研究はもちろん.授業の中で生徒に疑問を持たせる発問や,常識をひっくり返すような発問も必要です.

さて,中世を一言で言い表すのはとても困難なことです.君の選考する古墳時代もなかなか簡単には言い表せないでしょ・・・

近年「歴史考古学」が発達して,あらためて文献を裏付けるような資料が発見されたり,また,常識を覆すような発見が相次いでいます.鎌倉の由比ヶ浜の発掘調査もそうしたものの一つでした.当時「前浜」といわれた由比ヶ浜は,鎌倉の市域外で,ある意味では幕府の行政が行き届かない「治外法権」でもありました.

墓地の上に作られた町並みはいかにも異様です.元々墓域だったところですから「飢饉?疫病?」あるいは地震などの災害で大量の死者が出て,大きな穴を掘って死体を放りこんであった所です.

ところが人口の増加にともない,前浜も居住区になっていく課程で,それらの墓はあばかれ骨は散乱しました.骨と言っても当時は脂や肉片も付いていたようなものですから,現代人が見たら「凄惨」の一言だったでしょう.ところが頭蓋骨だけはていねいに再葬されているのです.これらの首を新田義貞軍に討たれた人々の首という人がいますが,いずれも頸部がはずれた状態で,刀による刀創は確認されていません.つまり骨になった段階ではずされた頭蓋骨というわけです.

当時の人の死生観の一端がここで分かりますね.身体には魂はないのです.武士が戦で首を取るという行為には,ただ恩賞にあずかるという以外に,もっと根元的な首に対する「思い」があったということで,それは庶民も同様のようです.

敵将の首も論功行賞の後にはちゃんと葬られていること,またそうした首塚が各地にあることもその裏付けでしょうね.だからといって鎌倉時代が殺伐とした時代だったかというとそうでもありません.

庶民にも武士にも楽しみは沢山あったし,事実「遊技」に関する遺物も多く出土していますし,祭りが娯楽的なこととして庶民に広まったのもこの時代です.

経済の発達は交通網の発達を促しました.今までとても手に入らなかった諸国の物産が日本中をめぐりました

日本の歴史の中で鎌倉時代は消費経済がグンと広まった時代でもあるのです.

確かに飢饉もあった,災害もあった,時には戦争に巻き込まれることもありましたが.武士だってそんなに沢山死んでいるわけではありません.頼朝の父である義朝と平清盛が戦ったご存じ平治の乱の死者数は3名です・・・教科書のニュアンスだとスゴイ戦いだったみたいなっていますが,たったの3名・・・

源平の争乱や,藤原氏との戦のような大戦は別として,たいていの戦は主人クラスの死で決着が付いてしまいました.完全に殺し尽くすなどという思想は当時には無かったと思ってください.

泰時や時頼の頃には幕府のおふれが沢山出ています.特に時頼は「堅物」だったようで「ばくちの禁止」とか「禁酒のおふれ」など庶民の反発を食らうようなものを沢山出しています.ところがこのお触れは何回も出し直しているところを見ると,なかなか浸透しなかった・・というより聞かなかったみたいですね.由比ヶ浜遺跡からも「サイコロ」が出ています(笑)

条例の中には「老人・子供の死体を道に捨てるな」というのもあります.これも時頼の頃の話です.まあそれだけそうしたことが多かったのでしょう.しかし,墓地遺跡からは乳幼児の遺体がていねいに葬られているものも発見されています.ですから前述のようにすべてが殺伐としていたとは一概には言えないのです.

時代が違うとそこに住んでいた人たちの価値観も自ずと異なったものになります.歴史を学ぶ者,教える者はそこのところを,きちんと分かっておく必要がありますね.それでも,調べていると我々と同じようなことを考えていたり,行動をしていることにしばしば遭遇します.こうしたときに私などは非常に親近感を覚えてしまうのです・・歴史の面白さの一端でしょうか.

私のページのトピックスの中にある「由比ヶ浜遺跡」「中世の町を歩く」の草戸千軒のページは見ましたか?

ゲンボー先生


はじめまして。私は、ある公立大学に通っているゆかと申します。

私は賃金制度の歴史について調べているのですが、賃金(労働の対価としてお金が支払われるという意味で)という言葉が使われ始めたのはいつからなんでしょうか?また、『賃金』という言葉が使われる前は、どのような言葉が賃金の意味として使われていたのでしょうか?いつから労働の報酬として貨幣が使われ始めたのでしょうか?その他、賃金の歴史について知っていらっしゃることがあれば詳しく教えてください。お願いします。

ゲンボー先生

ゆかさん.メールをありがとう.

賃金という言葉は学術用語が日常語になったものです.昔の人が「賃金を与える」という言葉を使っていたわけではありません.ただ「賃」は馬の輸送なら「駄賃」船なら「船賃」と言う使われ方はしています.また報酬としての単語としては夫賃(ぶちん)があります.文書の上では「銭〜貫文を与えた」という文言が頻繁に使われています.

商品や労働の対価として貨幣が一般に広まるのは鎌倉時代からです.これは交通と商品経済の発達に大きく起因しています. また「銭湯」という言葉も鎌倉時代の後半に出てくることから,都市部において,商品以外の労働やサービスにも貨幣が使われたことを示唆しています.

鎌倉の大仏は浄光という聖が一文銭の寄付を庶民から集めて作ったとありますから,このことからも貨幣が広く普及していたことがわかりますね.(鎌倉時代は粗悪な貨幣が多くインフレも進んでいたようです.)

農村部においては貨幣とともに物々交換も行われていたと考えられますが,農民が市や,町に出て売り買いする場合には貨幣が必要で,やはり貨幣は浸透していたと思います.よく教科書には「江戸時代になって農村に貨幣経済が浸透しお金で商品が売買されるようになった」とありますが,あれは「金肥」と言って「ほしか」(いわしを干したもの)や「魚油」を貨幣で買うようになってから,本格的にお金が必要になったということなのであって,それ以前より貨幣自体は農村においても流通していたのです,ああいう表現だと江戸時代以前の農村はすべて物々交換みたいな印象を持ってしまいますね.

我が国で労働の対価として貨幣が使われたのは都市部においてという条件付きで「奈良時代」かと思います.

日本において,奈良時代や平安時代にももちろん貨幣はあって,清盛のように宋銭を輸入していたことから,時代とともに貨幣が徐々に浸透していったことがわかっています.しかし,鎌倉時代の後半から室町時代がやはりエポックでしょうね.

ゲンボー先生


はじめまして。私は高校で日本史を教えている北田と申します。さて、ひとつ質問があるのですが、1221年の承久の乱の時、鎌倉に送られた義時追討の院宣を読むことができたのは、その時いた5000騎の板東武者のうち、たった一人だった・・・という話があると思うのですが、この話の出典と、そのとき院宣を読めたのはどこの何という人物なのか、教えて頂けませんでしょうか?宜しくお願いします。

ゲンボー先生

北田先生,メールを有り難うございます.

院は5月15日に宣旨を諸国に発し,三浦義村をはじめとする有力豪族には「恩賞は思いのままにとらせる」旨の添え状とともに別便で密書として発せられました.ところが,京都にいた親幕派の伊賀光季と西園寺家からの急使は数時間早く鎌倉に急を知らせていました.

宣旨が鎌倉に着いたのは19日ですから,東海道を4日間という早さでした.しかし, 急使はそれより数時間早く鎌倉に到着したというわけで,これは当時の最速レコードです.わずか数時間の差で幕府は「天皇御謀反」を知ったというわけです.これが逆だったらもっと違う展開になったことでしょうね.当時も今も「情報戦」が大切だということを如実に表したできごとだったと思います.

幕府はすこしだけ猶予を持ってことに対処することができました.「友を食らう」と評された三浦義村でさえ弟からの密書を携えて幕府にかけつけました.もちろん 宣旨をもった使いは捕らえられましたから,義時や政子や有力豪族は当然それを見ています.ですが「いざ鎌倉」と駆け上った御家人のほとんどは 宣旨を目にしていないはずです.何だか良く分からないけど,招集がかかったから集まったのだと思います.もちろん京都と戦うかもしれないといううわさ話はあったでしょうね.動揺や不安もあったでしょう・・・

御所の庭でワイワイがやがや,やっているところへ政子達が現れてあの有名な演説になったわけです.幕府の動きはまことに早く対応も当を得るものでした.こうして承久の乱に勝ったわけですが,その根底に密使の一刻一秒を争うレースがあったわけで,歴史って面白いですね.

武士の識字率ですが難しいですね・・データーがありません.少なくとも京に上って働いた経験のある武士クラスは読み書きができたと思います.もちろん所従や下人は除きます.

鎌倉時代も後半になると交通網の整備や経済の成長.あるいは幕府機能の増大にともない商人や武士の識字率は向上したと思われます.しかしこれも推測にすぎません.

ゲンボー先生  ※この項目は日付けの誤りがありましたので訂正しました(H16.9.29)


近畿大学九州工学部の佐田です。

鎌倉時代の運慶快慶などの関するリアリズムについて写実主義などとありますが、そこらの事について教えてください。

ゲンボー先生

佐田さん.メールをありがとう.

運慶とその弟子快慶は平安時代後期から鎌倉時代初期を代表する彫刻家として有名なのはご存じの通りです.

美術を含む芸術はその時代を映す鏡です.力強い運慶の彫刻,繊細で優美な快慶の彫刻はどちらもその時代の社会や気風の現れとも言えます.

平安時代後期は律令政治が形骸化し,貴族の繁栄にも翳りが出てきたいわば末世の時代です.しかし,末世とは新しい時代の揺籃期でもあるわけです.

平氏の政治は形態こそ貴族的ではありましたが,手法のいくつかにおいては武士的な面も見られます.何よりもこの時代は物流が盛んになり貨幣の流通もかなりの地方にまで及びました.清盛が行った宋銭の輸入もこうした経済的発展の線上にあるものです.

鎌倉時代になると西の京都と東の鎌倉を結ぶ幹線としての東海道,そして,はじめは軍事的意味合いを持っていた鎌倉街道の整備は,軍事的というよりむしろ経済的な発展に大きく寄与しました.

陸上交通にあわせて海上交通も盛んになり,泊は様々な物品の中継基地になりました.最近注目されている青森県の十三湊もその一つで,出土遺物の豊富さは研究者の予想をはるかに超えたものでした.

また交通の便の良いところには町が発達し大いに賑わっていました,私のホームページにもある草戸千軒遺跡や鎌倉の由比ヶ浜遺跡の様子は往時のにぎわいを彷彿とさせます.

このように運慶や快慶が活躍した時代は,庶民活動に光があたりはじめた時代だったといえるわけです.庶民の中には武士もいて,地位が認められていった彼らがそうした仏師や絵師のパトロンになったのも,彼らの作風に大きな影響を与えています.

見た目の美しさより中身が問われる彼らの生き方が反映したとも言うべきでしょうか.とにかく世の中全体が活気にあふれた時代だったのでしょうね.

鎌倉時代は日本のルネッサンスでもあるわけです.

ゲンボー先生


平安後期から13世紀までの時代に、武士がどのように流通や貨幣と関わってきたのか教えてください。

南山大学 有実子

ゲンボー先生

有美子さん 

メールをありがとう.

鎌倉時代になると西の京都と東の鎌倉を結ぶ幹線としての東海道,そして,はじめは軍事的意味合いを持っていた鎌倉街道の整備は,軍事的というよりむしろ経済的な発展に大きく寄与しました.

最近の調査や発見によって津や泊,宿の発展が我々の想像を遙かに超えることが分かりました.このことは陸上交通に加えて海上交通が盛んだったことを表しています.

これらが意味するところは,商品経済が非常に活発に行われていたということで,私たち・・あなたもそうだと思いますが,当時の経済は農業が中心で「米」はその基盤であると「教科書で習ったこと」はちょっと違うぞ・・ということになります.

記録が残っている荘園のことを調べてみると,荘園から領主にわたる税の半分以上は商品,もしくは商品を売買したことによって得た銭貨なのです.それは絹であったり鉄であったり塩だったりします.つまりその地方に産業が根付きそれを中心に生産活動を行っていたことの証というわけです.

つまり鎌倉時代になると武士もどっぷりと貨幣経済の中につかることになったと言うわけで,今まで江戸時代が米使いの経済などと言われたために,それより以前は当然米をはじめとする農作物が経済の中心だと思い違いをしていた・・・かもしれないのです.

ゲンボー先生


私は宮城県第一女子高校二年の弥生といいます。「堤中納言物語・虫愛ずる姫君」を読んだ際に主人公の(当時から言えば)非常識さに驚いたのです。けれどもそもそも当時の常識とはどの様なものだったのだろう・・・。と疑問に思いました。具体的には貴族の間の常識を知りたいと考えています。よろしくお願いします。

ゲンボー先生

弥生さんは高校2年生なのに,ずいぶん高度な質問をしてきますね.関心しています.

貴族の常識は一般人の非常識.一般人の常識は貴族の非常識ですが,単純にそうも言えない部分があります.そもそもこの時代の社会の仕組みや成り立ちが今とはずいぶん違うのです.

当時の婚姻形態は「婿入り婚」が一般的ですから,奥さんの家に男性が入るのが常識でした,庶民も奥さんが複数というのが当たり前で,男は女性の家を渡り歩くのです.女性の方だって旦那が一人というわけではなく,複数いてもおかしくありませんでした.ここからしてもう違うでしょ・・・でも,このあたりは堤中納言物語の他の章を読めば理解できますね.

で,天皇や身分の高い貴族の場合は町中をうろうろ歩くわけにもいかないので,御所や館内に女性を住まわせていました.これが局(つぼね)です.今のように一夫一婦制ではないので不倫などという言葉もないし,そこいらへんはとても大らかでした.

貴族や皇族は女性の気をひくために「歌」をたしなみました.和歌ですね.当然女性も返歌をしますので男女ともこれが出来ないと馬鹿にされたわけです.歌を作ると言うことはその人のインテリジェンスがモロにでるので,日頃より本を読み,書をたしなみ,感性を磨き上げたわけです.優雅ですな・・・それ以外に日記をつけるということもありましたね,これらの日記が歴史を調べる上で大変に役立っています.

貴族にとって結婚は大変なできごとです.自分より高位の家柄との姻戚関係を結べば収入が増えるからです.藤原道長は何人もの娘を天皇の嫁さんにしたでしょ.それは前にも述べたように当時の社会が母系社会だからなのです.

子供が生まれると母親の実家で育てられました.つまり道長で言うなら,天皇になる皇子を藤原の家で育てることなんですね.小さい頃から母親,乳母,女官そしてじいちゃんに育てられるわけですから,その子が天皇になったとき,藤原氏のためにならないことをするわけがないですね.それにじいちゃんの立場を利用して摂政だの関白になって実権をにぎることが出来たわけです.

これは藤原氏の話ですが,当時の貴族はすべて同じ体質で,少しでも良い家柄と結びつきたがっていたわけです.

日本では江戸時代に封建制度が出来あがるまでは,男女の性差による差別はありませんでした.したがって貴族の女性も男性より格下ではありません.しかし職業的には男性中心で,女性はもっぱら良い男性との結びつきを追い求めました.そのための和歌や書の練習,動作や言葉使いを洗練させていきました.紫式部や清少納言はそうした社会環境のなかで出てきた人たちです.

彼女たちの価値観の根底には「ものの哀れ」「はかなさ」「みやび」があり,それらの価値基準からはずれたものはすべて,「醜きもの」だったわけです.個々の常識,非常識をあげればきりがないのでここでは述べませんが,今書いたことがベースであることを理解すれば,だいたいのところは分かると思います.

余談ですが,貴族の女性といえども風呂にはいるのは1週間に一回程度,その上髪の毛が長かったのでシラミなどが大変だったようです.それにやたらに厚着をしているので皮膚にカビが生えたりで・・

当時の風呂は蒸し風呂が主流でしたが,時には消毒のために湯に入ることもありました.そうしたときには「クロモジ」という木の枝を葉っぱごと入れて入りました,クロモジはヨウジの材料で有名ですが芳香と殺菌力に優れているため好まれていたようです.もちろんヨモギなど他の植物の湯もあります.こうした風呂のことを薬湯といいます.

(一般庶民の場合は,お寺が薬湯を湧かすことがありました.)というわけで,風呂に入らない間は貴族の女性(男性も)は臭いを隠すために服に香を炊き込んだり,部屋の中でお香を炊いたというわけです.これはフランスで香水が発達したのと大変によく似ています.

昔の櫛を見ると目がスゴクつまっているものがあります.平安時代の貴族が使っていたものはウルシや螺鈿細工などが施されてとても美しいものですが,あの櫛はシラミをすくためのものものです.ところで,弥生さんはそれが不潔だと思いますか?

現代人は毎日お風呂に入り朝シャンまでしているので,皮膚にカビが生えたり頭にシラミがわくこともありません.しかし,つい最近まで日本人の多くにはシラミがいたし,皮膚にカイカイができてたりしていたのです.歴史のなかではむしろその方が普通だったといえます.

常識や非常識は,土地や時代,あるいは身分によって変わるものです.現代の物差しで昔の人を測ったり,自国の物差しで他国や他民族を測ることは比較という点では意義がありますが,それをもって他を非常識と言うことは出来ないし,してはいけないことです.

歴史を学ぶと言うことは事実から客観性を学び取ることです.弥生さんはなかなか鋭い感性を持っているようですから,これからも自分の視点をしっかり持って,客観的に物事が判断できる人になってください.

ゲンボー先生


私は鳥取で小学校の教員をしています。現在は6年生の担任です。2学期になり、江戸時代の後半を学習しています。教えていただきたいのですが、テレビドラマでは、かわら版を配り、町人が読んでいる場面を見かけます。ところが一方では、お触書を見た村人が読めないので、通りがかった武士に代読してもらう場面も見かけます。

社会の発展にともない、字の読み書き、計算ができなければ商売したり、あるいは、大工をしたりできなかったのでは・・・と想像するのですが、農民は、子どもを寺子屋、あるいは手習い所に通わせる余裕があったのでしょうか?

実は岡山の渋染一揆を指導したいのですが、一揆を起こした村には手習い所があり、人々は学問を身につけていたそうです。そして、それが立ち上がり(一揆)の要因の一つではないかと考えています。でも、農業をしながら、手習い所に子どもを通わせるのが一般的なことだったのなら、それほど、要因とは考えられません。

図書館に通い調べればよいのですが、その余裕もなく、インターネットで調べていたら、貴HPを見つけたもので、メールをしました。筋違いの内容であれば、お許し下さい。

ゲンボー先生

江戸時代の庶民教育は我々の想像を超えるものがあります.村にはお寺や神社を主体にした寺子屋がありました.もちろん篤志家や教育を受けた人が寺子屋を開設することもありました.特に幕末から明治の学制発布までには学校の前進として「郷学」とよばれる私塾があり,ここでは欧米の文化について教えるところもあったということです.

もちろん,これらは村ごとに異なっており,寺子屋のない村もあったようですが,貧しい農家でも親の意志で「読み書き」や「計算」を我が子に学ばせようとした家庭は多くありました.

ですが,まったくそうでない家や村もあるわけで,その差は大きいですね.ですから先生が書いているようにまったく読めない人もいたわけです.しかし,これはおそらくですが,当時の日本人の一般庶民における識字率は世界一ではないでしょうか.

こうした基盤があったからこそ日本は世界で初めて義務教育を行い得た国になれたのです.(確かイギリスより2〜3年早く義務教育になったと思います)

テレビや映画のドラマは作家の書いたものをベースにしていますから,偏ったものになりがちです.例えば江戸時代の農民のほとんどは「お米が食べられなかった」というのは誇張しすぎです.

基本的には昭和30年代後半まで我が国は米不足の国でしたから,雑穀や芋を主食として食べることはありました.しかし,全くお米を食べられないという状態ではありませんでした.よく四公六民とか五公五民といって,農民は重い年貢にあえいでいたといわれますね.しかし実際には穫れ高に応じて「手ごころ」が加えられたり,目をつぶったり,隠し田があったりで,土地持ちの農民は結構お米を食べていたのです.もちろん為政者の姿勢によって程度の差はありましたが,農民の困窮や反乱はマイナスにこそなれ決してプラスにはならないことを,武士も知っていたのです.農民が苦しくなるのはむしろ徴兵制や地租改正を行った明治時代以降のことです.

水呑百姓と呼ばれる小作人の生活は確かにひどかったし,飢饉の年には東北を中心に悲惨なこともありました.しかし,大飢饉以外に死者が出なかったのは,そうしたことがあったからなのです.竹筒に入れた米の音を聞くというのは,よほどひどいところで,皆が皆あのようだったということではないのです.

同じように厳しい身分制度を持った社会でありながら,百姓の子が武士の養子になったということもさほど珍しいことではありません.優秀な子を育てようと言うのは古今東西変わらない人間社会のできごとです.ですから,こんな村にまで??と思われるようなところにも寺子屋があったのです.渋染一揆のことは勉強不足で詳しいことを知りませんが,そうしたところにも学問の尊さを知っていた人もいたでしょうし,お金や労力を提供した人はいたはずです.

町田市の小野郷学も篤志家や余裕のある人はお金や土地を提供し,貧しい家では建設の労力を出したと記録に残っています.子供や子孫のことを思う気持ちは同じで,全国の多くはそうであったろうと思います.

歴史は個々のできごとの集大成です.個々に目を向けると今まで習っていたこと以上のものが見えてきます.政治史という「上からの視線」だけではなく,庶民の生活にもっと目を向けていくとその時代が見えてきます.ですから先生の視点はとても大切です.そのような先生に習う子供は幸せですね.子供と同じようにいつまでも「なぜ?」「どうして?」と感じ続ける先生でいてください.

HPにも書きましたが「幕府」という呼称は江戸時代後期以後,「藩」という呼称は明治時代になってからの呼称でいずれも学術用語でした.テレビなどでちょんまげを結った武士が「幕府のご威光に逆らうのか」とか「〜藩おとりつぶし」な〜んて言ってるのはご愛嬌ですが,偏ったイメージをどんどん振りまいているものもあります.それが娯楽作品ならともかく,中には史実に忠実な歴史ドラマなんだろうなあ..と思わせておいてハチャメチャなのもあります.ドラマは面白いけど歴史を教える教材研究の対象にはなりえないと言うことです.

余計なことまで書きました.答えになったでしょうか?


これまで豊臣秀吉の天下統一は「戦国時代を終わらせた」という意味で理解していたのですが、鎌倉や室町時代に関する本を読むと、秀吉は「それまでの多元政治や連合政治を終わらせた」のではないか、という疑問がわいてきました。 この「天下統一」の意味について教えてください。よろしくお願いします。

ゲンボー先生

秀吉はまがりなりにも全国の大名を屈服させました.検地を行いそれぞれの領地のランク付けを行いました.また刀狩りによって身分の固定化を図りました.さらに「枡」の容量を決めるなど,度量衡の統一を図りました.

これらはすべて次の徳川幕府に受け継がれ完成しますが,信長をスタートとし,それを更に発展させたという意味で「最初に天下の統一」を果たした者として評価されてよいと思います.

鎌倉時代も完全な武士の時代ではなかったように,どの時代も便宜上その時代を言い表す標語がありますが,実際には旧勢力が残っていたり,新興勢力が台頭したり,経済や文化も変化しています.つまり人間の社会は常に変化をしているのです.天下統一も徐々に仕上がっていきました.恐らくそれは三代家光のころでしょうが,その後,経済の実権は商人へと移り「武士の政治」とはなにか?という疑問も湧いてきます・・形の上では統一された社会であっても,武士の望む社会とは本質的に変化をしていくからです.

私たちは歴史を学ぶ上で「固定観念」にとらわれすぎるきらいがあります・・江戸時代の農民・・といえば「貧しい」「苦しい」というイメージがありますが,実際はそうでもありません.

江戸時代の農村は貧しい・・やがて商品経済が浸透して貨幣経済に組み込まれた,なんて本に書いてあるから,「じゃあそれ以前はもっと遅れていたし貧しかったんだろうなあ・・」と思ってしまいますが,鎌倉時代には既に農村で産業が興り貨幣経済がバッチリ浸透していたのです.

地頭のイメージも「泣く子と地頭には勝てない」なんて書いてあるから,総ての地頭が暴力的だったように理解されてしまいますが,実際には多くの地頭が農民や領家に気を使っていたのです.

ですから,あなたのように「天下統一」というイメージにとらわれない思考はとても大切だと思います.私のページでもしつこいくらい「幕府」という「イメージにとらわれるな」と書いてあるのも同じスタンスだと思います.

ゲンボー先生


室町時代の民衆は、なぜ多くの一揆を起こして権力者に抵抗することが出来たのですか?その原因や背景について考えたことを述べよ。これが今度の中間で250字でかかなければいけない試験問題の一つなのですが、民衆はこの時代あまり字などをならっていないはずなのに、どうして権力者に抵抗できたのかが全くわからない状態です。考えを書くから、ちゃんとした答えはないのですが、あまり違うことも書けないので・・・。おしえてください!! 

高等学校 2年  愛矢

ゲンボー先生

愛矢君,メールを有り難う.大変だね・・・(笑)

こういのうはなんでもそうだけれど,まず単純に考えることです.

先生のページは「鎌倉時代」ですから,頼朝が幕府を作ることができた原因は何か?と考えたとき.結果から言えば「頼朝を支持する武士がたくさんいたから」ということになります.では,なぜ武士が支持したのか?このことを考えればいいわけです・・・このことにしぼって調べていくと「関東の武士(豪族=農民)が不安定な生活を送っていたことが分かります.ここから先はくわしく書きませんが,要するにこれが学習の手順です.

「答えを考える」−「仮説を立てて,調べる項目を考える」−「調べる」−「結論を出す」です.

では,本題・・・

室町時代に民衆の一揆が増えたのはなぜか?

「答えを考える」=1.民衆の力が強くなったから・・・もしくは,2.武士が弱くなったから・・・

どっちだと思う?

後のことを考えると2はあまり考えられない・・・となると1ということになる.

ここから先は教科書にも書いてないことなので,そのまま書いたらバツになるかなあ???答えに説得力が有ればいいわけだ・・・江戸時代のことからさかのぼるよ・・

まず,本にはこう書いてある「江戸時代になって商品経済が農村にも広まり,貨幣が使われるようになった」もしくは「農村が貨幣経済に組み込まれた」・・・

これは間違いです.・・偏りすぎています.

いまだにこういうふうに書かれているから「じゃあ,それ以前の農村は物々交換だったんだあ・・」てなことになるんですね・

最近の考古学の発見で近世「江戸時代」や中世「鎌倉時代・室町時代」のことが随分と詳しく分かるようになってきました.

それによると,農村の中心的な産業は「農業」ですが,それ以外の手工業も私たちの想像をはるかに超えて発達していたことが分かってきたのです.

特に鎌倉時代はそれ以前の平安時代に比べて飛躍的に経済が発達した時代であることが分かってきました.その証拠に,全国の街道が整備され,湊(みなと)の数が増えて,物と人の往来が盛んになりました.道や海路が整備されるというのは,そのニーズがあるからです.

青森県の十三湊(とさみなと)遺跡からは,大規模な港とアイヌとの北方貿易や中国との交易を裏付ける遺物が沢山出土しています.「あんなところで??」と思うでしょうが,近世まで日本海は重要な海上交通の道だったのです.

今も昔も「大量に」「安く」物を運ぶ手段は船なのです.私たちは陸に住んでいるために,つい陸路にばかり目がいきますが,海運国日本に住む私たちは,もっと目を海に向ける必要がありますね.津々浦々(つつうらうら)とは,「そこいら中」という意味ですが,津も浦もともに港のことです.本当にこの時代は津々浦々が発展しました.

農村の話に戻ります.

岡山県にあった「新見の庄」(みいみのしょう)と言う荘園の記録を見ると,農民が作った「鉄」を地頭が集めて,いつ売って,それがいくらであったか,ということが詳細に書かれています.これは村の中に鉄を作る「製鉄の施設」と「技術者」(多分それは農民)であったことをものがたっています.

さらに,この地頭は領家に鉄の値段(相場)が上がったときに売りましたよ・・とか,年貢を集めたときに農民の労をねぎらうために「飲み食い」をさせて,それがいくらであったことも書いて報告しています.計算してみると,飲み食いにかかったお金は領家に渡す分からちゃんと差し引いてありました・・・つまり,必要経費ですね・・・(笑)

で,そのお金と収支報告を今で言う「運送業者」もしくは「郵便屋」(飛脚といいますが)に渡して京都の領家にとどけているのです.

このことから分かることがいくつかあります.

1.農村の産業は農業だけではない.(製鉄の他に養蚕やウルシや酒や紙やロウソクなどなど)

2.この地頭は経済の動きに敏感であった.なぜなら値段の高い時期に鉄を売っている.

3.多分他の商品にも同じように相場があったと思われる.鉄の相場があったくらいだから.

4.手紙やお金が安全に運ばれるシステムがあった.

5.地頭は領家に報告書を書き,農民に気をつかっていた.(教科書には「地頭の横暴」ばかりが書かれていますが,そうでない地頭もいたと言うことです.先生はこうした地頭の方が多かったと思います.)

このような経済活動が物々交換で行われていたと君は思いますか?それは絶対にあり得ません.貨幣経済は確実に農村に浸透していたのです.そのことは鎌倉の大仏が人々の出した一文銭を鋳つぶして作られたという記録をみても分かります.大仏様の全部が全部「一文銭」で作られていたとは思いませんが,相当量のお金が庶民から出されたということは事実なのでしょう.多くの庶民(農民や都市の商工業者)がふつうに貨幣を持っていたということを裏付けています.

「物を作る」「運ぶ」「売る」それぞれの産業が鎌倉時代から室町時代にかけて発展しました.

馬借一揆はいまでいう運送業者の一揆です.また,正長の土一揆のように都市近郊の農民が「酒屋」や「土倉」をおそっていますが,あれは「借金棒引き」の一揆であることを知っていますね?幕府に対する徳政令の要求なども庶民に力が付いてきたことの証拠です.

一つ一つの一揆にはそれぞれの理由がありますが,基本的にはその一点です.つまり農村を含めて商品経済が発達しそれに関わる庶民の力がついた.ということです.

ただし,今述べた多くのことは東国より西国のできごとです.それは当時の日本が西国に人口がかたよっていたことと,京都や奈良,それに九州から続く山陽道が発達して,多くの町が街道にそってできました.ですからこの時代の一揆は近畿地方に集中しているのです.

どうですか?高校2年生には難しいですか?250字で書き表すのは大変ですが.整理して箇条書きにすると無駄も省けるし,読む方も分かりやすいものです.先生もそうですが,ていねいな字で書いてあると,同じ答えでもついつい二重丸なんかをつけちゃいます.だいたいどこでも先生はそうみたいですよ・・(笑)

後は自分の力で頑張ってください.

ゲンボー先生


沼津市大岡字三明寺に経塚があります。建久5年(1194)の造成。40個の土甕と6個の銅製経筒があり、その内の4個に施主名として、散位・藤原貞宗。散位・橘氏伴宗長。源宗包。散位・紀家重とあります。この経塚と牧宗親の関係。それに散位の意味。この人達の事など知りたいと思います。教えてください。
三明寺の地名が示すように、真言宗上津池剛嶽山三明寺が建っていたといいます。経塚は東、南、西の三方を池面に囲まれた丸山にあります。寺域はかっては八丁池を含めて20町といわれる。この地域は、大岡牧のあった所、牧宗親が管理、本家職は後白河院。領家職は平頼盛(池禅尼の息子)。1説によれば牧宗親は池禅尼の弟で、北条時政の後妻・お牧の方は宗親の娘だという。三明寺の廃寺の時期は諸説あって不明。享保19年(1734)に台風で老松が倒れ、土甕40個、銅製経筒6個が出土した。経筒の4つに前記の施主名があった。当時の地主は飯田家。武田源氏の家来で、浮島の合戦のおり、平家の背後を襲い、水鳥の羽音で平家が逃走したときに活躍した飯田五郎家義の子孫。梶原義時が鎌倉を逃れて京に行く途中、清水市で討ち果した。この時の恩賞で地頭になったと「静岡姓氏500選」にありますが、大岡に関係あるのでしょうか。併せて知りたいと思います。なお、同じ沼津市内の愛鷹山ろくに阿野全成の領地があります。
御殿場市 中村

ゲンボー先生

メールをありがとうございます.

「散位」は(さんみ)(さんい)と発音し,位階はあるが現職についていない人のことを指します.過去に参議以上の職についた人である場合は「前の〜」(頼朝の場合:前右近衛大将)とつけますから,お尋ねの人々はそうした重職には就いていなかったことがわかります.恐らく「外散位」(げさんみ)と呼ばれる地方官だったのでしょう.牧宗親と縁故の人たちと思いますが,勉強不足にてそれ以上のことは存じ上げません.

地方のことは,その地方の郷土史家や教育委員会の研究員,あるいは博物館等の学芸員の方にお問い合わせしたほうが早くて正確かと思います.

飯田五郎家義については大庭御厨に隣接する鎌倉郡飯田郷の武士で,一説によれば清和源氏と言われていますが, 出自は不明です.当初,梶原景時等とともに大庭景親軍に参軍しましたが,ご存じの通り途中で頼朝側に組みし後の働きにより論功行賞で飯田郷の地頭として安堵されました.後に梶原一族を駿河国清見あたりに追いつめ,これを討ち取りその時の恩賞としてご当地の地頭職となったものでしょう. ご存じのように大岡牧と大岡庄は池の大納言「平頼盛」の所領であり,平家にあってただ一人頼朝に命を救われ所領を安堵された人物です.更に景時暗殺当時の駿河国守護は北条時政であり,時政が後妻に牧の方を娶ったのは頼盛との関係を深めたかったということが伺えます.つまり大岡の地は北条氏にとって話がしやすい土地ではあるわけです.

経筒の銘にある建久5年は梶原一族滅亡の8年前ですから,経塚とは無関係と思います.

ゲンボー先生


はじめまして。私は韓国の高麗大学に通う3年生の鄭といいます。日本で生まれた在日韓国人です。4年前から韓国に来て大学に通っています。東洋史を専攻しています。そして今回 ’北アジア史’という授業のなかで’元寇’について発表したいと思っています。日本から留学に来ていますので日本的な視点から考え発表したいと思っています。そこで色々と資料を集めるためにホームページを探していました。とても分かりやすく見させていただきました。そこで元寇についてもっと詳しく教えていただければ、、、、と思いまして質問の方にメールを書かせていただきました。突然のメールではありますがもしよろしければ’元寇’について教えていただける事があればお返事いただきたいと思います。宜しくお願いいたします。

ゲンボー先生

鄭さん.メールをありがとう.

元寇については沢山の本やホームページに紹介されていますので,鄭さんもすでにかなりのことを知っておられると思います.今回は「元寇当時の日本の国際交易と国際認識」という点について簡単に説明をしましょう.

青森県の十三湊は鎌倉時代に安藤氏が支配していました.近年十三湊遺跡の発掘が進むにつれて「日本海貿易」が大規模に行われていたことが分かってきました.ご存じのように日本海には対馬海流とリマン海流という2大潮流が環流していて,この海流にうまく乗れば日本海沿岸と沿海州,朝鮮半島東海岸の行き来が極めて容易に行われます.

十三湊遺跡からはそれを裏付けるように,中国や朝鮮の青磁や白磁.アイヌとの北方貿易を示す遺物が多数発見されました.十三湊以外にも鎌倉時代には日本海沿岸に多数の港があったことが分かっています.また日本と大陸の交易は日本発-朝鮮半島-遼東半島経由のルートが古くから開かれており(北路),中国からは黒潮と対馬海流に乗るダイレクトのルートもありました.このルートですと寧波(にんぽー=上海に近い明州の町)から北九州まで3〜4日で来られます(南路).奈良時代の遣唐使の頃は対馬海流に乗らずそのまま鹿児島に来るルートが使われていたようです.

いずれにせよ中国や朝鮮との交易は博多をハブ港として発展しました.ですから多くの日本人が朝鮮や中国に渡り,反対に中国や朝鮮からも多くの人が日本を訪れていたわけです.

モンゴルが高麗・ 北宋を支配したころも民間の貿易は存続していたと思われます.当時の日本は特に南宋との結びつきが強く,南宋から元の支配を嫌う人が多く日本に亡命したことが記録として残っています.

北条時宗に元の恐ろしさを伝え,異民族の支配を許さないと決意させた鎌倉円覚寺の開祖「 無学祖元」自身も元の兵に首を切り落とされそうになった人です.

高麗との関係はまだ不十分ですが,国土を蹂躙されたと言っても三別抄のような抵抗集団もあったわけですから,日本に来ることができる立場(商人・漁民)の人は亡命しているかもしれませんね・・というより多分いたでしょう.そうした庶民から無学祖元のような高僧にいたるまで多くの人が,元支配の恐ろしさを日本に伝えていました.ですから港町や商人という限られた枠内ですが,庶民レベルでは「蒙古」(当時はムクリと呼ばれていました)についてのうわさ話や情報のやり取りはあったわけです.特に商人は商売をする上での死活問題ですからかなり詳しいことを知っていたはずです.

しかし当初の日本の朝廷や幕府は国際情勢に疎く,民間人からの情報を得るでもなく,1271年に三別抄から送られた国書も無視してしまいます.

日本の政権が元に対して認識するのは元の国使がフビライ の国書を携えて来てからのことです.当時の朝廷には全く問題解決の能力はなく,その交渉は幕府に一任されましたが幕府とて「どうしてよいか分からない」状況でした.日本は島国のため異民族との交渉やその前提としての情報の収集,分析,外交上の国是などは無かったのです.日本と外国の関係は「文化を受け入れる」ことはあっても侵略を受けたことがないために「国」という意識が極めて希薄でした.

そこで幕府はあわてて情報を収集したわけですが(無学祖元からもその時話を聞いたわけです) ,いずれも「元の恐ろしさ」を示すものばかりでしたので,積極的な解決策をとらずに,結果として国書を無視し続けたわけです.つまり「関わりを持たない」という態度ですね.日本がもう少し国際情勢に敏感であれば「交渉」ということができたはずなのですがそれはできませんでした.それどころか「弘安の役」の時は使者を2度とも切ってしまいました.時宗は断固とした態度を示した・・と言われていますが,外交使節を罪人並みに殺すと言う途方もない異例の処置です・・・たまたま,どちらの遠征も失敗に終わったから良かったようなものですが・・・・・・

私が今後,調べたいのは,鎌倉期における水上交通(交易)についてです.12世紀〜13世紀には宋から大型船建造の技術が伝えられ,日本の商人も国際貿易を積極的に行うようになりました. 芙美さんも興味がありましたら,当時の高麗と日本の貿易について調べてみませんか.

ゲンボー先生鄭です。今回の質問に対し、お返事ありがとうございます。とても興味深く読ませていただきました。今回の発表の良い資料とさせていただきます。高麗と日本の関係についてもこれから少し調べていきたいなと思います。ちょくちょくホームペ−ジを拝見させていただきます。またメール差し上げることと思いますのでその時は宜しくお願いします。

ありがとうございます^^


次のページに行く

ホームにもどる

注意 目次や項目のフレームが表示されていない人は,ここをクリックしてください.