高校生以上の方からの質問2

このページは中学生以上の方からの質問やお便りを掲示しています.

 

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ゲンボー先生:「一生懸命」:「一所懸命」は鎌倉時代の言葉であると聞いたことがあります.本当でしょうか.片岡.(厚木市)

ゲンボー先生

そのとおりです.ただし「一生懸命」のほうはごく最近,昭和30年代頃からちらほら現れ40年代に定着した新語です.もちろんルーツは「一所懸命」になりますが,こちらには800年間の歴史があります.一所懸命(いっしょけんめい)とは,直訳すると「ひとつのところに命をかける」という意味になりますが,これは,当時の鎌倉御家人がもともと所有していた土地を保障されたり(本領安堵といいます),御恩として与えられた新たな領地を守ることを意味します(新恩給与といいます).鎌倉時代は貨幣経済が発達した時期ですが,農村では農業がいちばんの産業でした.なかでも「こめ」はお金と同じに扱われましたから,強くなるため,あるいは一族が栄えるためにはできるだけ沢山の米を作る必要がありました.鎌倉時代にはこうしたことから新しく開墾された田や畑が増えた時期でもあるし,後期になると肥料や家畜による耕作など農業技術も進歩したと言われています.それだけに多くの土地を得ることや,自分の土地を守ることは武士の本分(命)だったわけです.

ですから「一所懸命の地」と呼ばれたのです.のちに自分の仕事で頑張ることにもこの言葉が流用され,やがて頑張ることを「一所懸命」と言うようになりました.やがて「いっしょけんめい」が「いっしょうけんめい」と誤って表現されるようになりましたが,意味としては十分に通じるために,いまでは「一生懸命」がスタンダードになってしまったと言うわけです.


中世の様々な社会発展(商業、流通、経済)をふまえて民衆の姿を具体的に教えてください。
特に一揆する民についてお願いします。

♪♪ TOMOKO ♪♪ (1999.12.13)

 

ゲンボー先生よりTOMOKO さんへ

なるほど「一揆」ですね.一揆とは本来「揆を一にする」つまり「道を同じゅうす」という意味で、吾妻鑑などには武士同士が結託することなどに用いられていた言葉です。やがて鎌倉時代末期から室町時代にかけては、多勢で寄り合い権力者に対し圧力を加えて権利を得ることを指すようになりました。主に庶民(農民)が武器をもって年貢の減免や借金の棒引きを求めたことを一揆と呼ぶようになりました。

一揆が本格的におこるのは室町時代になってからです.有名な馬借一揆や山城国一揆などが有名ですね.特に応仁の乱以後,世の中の秩序が乱れ戦国時代にはいると農民や商人の力が,時として武士以上になることもありました.加賀を中心とする一向宗(浄土真宗)の自治,商人が自治権をもっていた堺などもその例と言えます.

大都市である京都には「酒屋」とか「土倉」という高利貸しが繁栄しており,農村を巻き込んだ一揆は都市中心だった高利貸しが,農村に深く浸透していることを物語っています.このことは都市近郊において貨幣経済が浸透していることを表しています.鎌倉時代は産業や商業が農村にも広まっていった時代で,時代と供に専業化が進み貨幣による売買がふつうに行われていたことも表しています。

しかし,これらは全て秀吉による刀狩りで影をひそめます.江戸時代に飢饉の時などにおきた一揆は,武器と言えば農具であり、しかも指導者は100%死刑でしたから「思いあまって訴える」という文字通り命がけのことでした.

よくよく考えてみれば幕府を作る際に頼朝に馳せ参じた多くの武士は,荘園主や牧場主といった農民だったわけでもあるわけですね.自分達の権利を守るために武士の政権を作ったのですから,これなど朝廷から見たら「一揆」みたいなものですね.教科書には決してそうは書いてありませんが,鎌倉幕府は関東の武装開拓農民がおこした大々的な一揆によって誕生したといってもおかしくはないわけです.

質問を有難うございました.ゲンボー先生が主催するこの学習は玉川学園全人教育研究所が行っています.ただし「いつでも」「どこでも」「だれでも」がコンセプトですから,玉川以外の生徒からも多く質問が入ってきます.これからの時代は「どこそこの学校」だけで勉強する時代ではありません.コンピュータを上手くつかえば「好きな教科」を「好きな先生」から受けることだってできます.いろんな地域の人やいろんな立場の人の意見が学習に深みと広がりを持たせます.実験中ですが,この鎌倉時代の学習はそのトップランナーだと思っています.ところで,ゲンボー先生は一人ではありません.複数の先生や専門家が関っています.質問に対して最も上手く答えられる人がアドバイスをします.ちなみに私はゲンボー1号です.


はじめまして。河野と申します。

鎌倉時代のホームページを興味深く読ませていただきました。そこで質問させていただきますが源義経は兄頼朝の命令で平家を滅ぼしたのに、その功績が認められないばかりか腹心の梶原影時の悪口によって討たれるはめになったと言うのは本当ですか?他にも何か理由があれば教えて下さい。それから兄頼朝に追われた義経は衣川を脱出し大陸へ渡りジンギスカンとなった説ですが紋が同じ笹りんどうと言う話は聴いた事がありますが他にも何かあればご教示下さい

ゲンボー先生

義経は兄範頼に比べて戦が上手でした.範頼が兄頼朝に援軍を請う手紙を書いているときに義経は壇ノ浦で平氏を討ち滅ぼしました.連戦連勝の義経に兄頼朝が警戒心を持つのは当然のことです.また,屋島攻撃の折には梶原景時以下重臣達の進言を無視して嵐の中を船で出て行きます.このことは,武士団の組織の決定を重視する頼朝の意に反することです.重臣達は慎重に状況を判断してから決定を下す頼朝に比べ,戦は強いが軽率な義経に不安を持っていました.

その不安が現実のものになったのが,朝廷からから賜った従五位下と太夫判官(たいふほうがん)の地位でした.その前月には検非違使・佐衛門少尉(けびいしさえもんのしょうじょう)になっているわけですから,義経にとってはこの上もない名誉だったことでしょう.しかし,これは自前の軍隊を持たない後白河法皇の義経に対する懐柔策でした.古来より武士同士を戦わせて政治の中枢を操っていた朝廷の思う壺だったわけです.とまあ,ここいらは本によく書かれていることですね・・・

そうした義経を見て,鎌倉方の重臣達が頼朝に対して義経の行状を報告するのは当たり前のことでしょう.景時もその一人でしたが記録に残っているため,後世あたかも讒言したように言われてしまいました.が,しかしこれは軍監という職務を持つものとして当然の報告義務を果たしたまでで,景時に対する中傷はかえって気の毒というものでしょう.とにかく頼朝はそうした朝廷のやりかたを警戒していましたからこそ鎌倉にとどまっていたわけで、そこへ弟が勝手に位をもらったので怒ったわけです.頼朝は義経を討つことによって朝廷に対して有利な立場に立とうとしました.それが守護地頭の配置というわけです.

ついでにというか意図的にというか義経を奥州に追いやり奥州藤原氏をも滅ぼす画策を行います.これも成功しましたね.戦闘指揮者としての義経より政治家である兄頼朝のほうが一枚も二枚も上手だったというわけです.

義経の人気は牛若丸の話や静御前とのロマンス,その比類無き戦いぶりと悲劇的結末から生まれたもので,特に江戸時代の「歌舞伎」で上演されたことが大きく影響しています.さて,その義経を簡単に死なせたくないという庶民の願いが「義経ジンギスカン説」を生み出しました.義経の首は衣川の合戦の後藤原氏によって酒漬けにされて鎌倉に送られています.それが本物かにせものなか今では確認のしようもありませんが,ジンギスカンになったと言うのはモンゴルの人に失礼と言うものです。ジンギスカンの生い立ちはにはテムジンと呼ばれた立派な少年期があるじゃないですか(笑)それに義経とジンギスカンとでは戦法が全く違います.彼らは大軍団で退路と補給路を絶ち,死か服従かを迫まる大陸的な戦法ですね・・・似顔絵も大きく異なっています.骨格が全く違うのです.ジンギスカンは扁平ないわゆる典型的モンゴリアンの顔ですが,義経は長頭でやや出っ歯です.つまり細長い顔だったのです.(鎌倉時代の日本人は現在と異なり頭が前後に長い長頭ですから,義経の顔もそうだったろうという学説です)笹竜胆の話しははじめて知りました.それは事実ですか?モンゴル軍の絵を見ても笹竜胆は見当たらないのですが?また,源氏の紋所が「笹りんどう」というのは江戸時代になって考えられたものであることを付け加えておきます.清和源氏の紋所が「笹りんどう」だったからなのですが,頼朝や義経がこの紋所を使った形跡はありません.

特に明治時代になってから,国威発揚のために「義経ジンギスカン説」や「元寇神風説」などが生み出されました.それらは今でも私たちの歴史観に大きな影響を与えています・・・

ゲンボー先生


所属 健康倶楽部  氏名 DR.TADAO 

1192年の幕府の成立は疑問点があるがその点について回答願います。

ゲンボー先生

さて,幕府成立の時期はいつかと言う論争は古く,現在にいたっても確立していないのはDr.Tadaoも御存じのことと思います.

そもそも,鎌倉時代に幕府と呼ばれたのは将軍の館のことでであって,政治組織を指しているわけではありませんでした.鎌倉の武士政権をもって「鎌倉幕府」と称したのは江戸時代になってからのことです.(近衛の大将も幕府を開けたので,1192年以前にも,前右近衛大将の肩書きをもつ頼朝の御居所を幕府と称しています)

もともと幕府は出征した将軍の本営を指すわけですから,学校で習った「イイクニ作ろう鎌倉幕府」の1192年と言うことになります.しかし,これはあくまでも形式上のこと.頼朝は三年で征夷大将軍を辞めています.そうなると三年で政治的な組織としての「幕府」を廃止しなくてはならないという矛盾が生じます.

幕府を武士の政権として定義つけるなら,その勢力範囲がどこまで及んだ段階でそう呼ぶべきかがポイントになります.

1180年には鎌倉に本拠をおき,味方についた武士達に論功行賞を行っていますからこの時期でもおかしくないという学者もいます.

私はこれを幕府?成立のプレ段階と考えます.なぜなら,この時期の頼朝の頭には「武士政権」の構想が芽生えていないからです.彼は関東の武士を束ね支配権を確立して,それから朝廷で重きをおく地位を望んでいたようです.

上総介/千葉介/三浦介などの経験豊かな大豪族達も,「中央からの理不尽な扱いに抗して関東を武士の支配する地域とする」くらいのことは考えていましたが,全国にその影響力を与えるところまでは初めのうちは考えていなっかたでしょう.「いけるかも」と感じるようになったのはおそらく平氏を破ったあたりからだと思います.

ライバル義仲を破った1183年は,頼朝が覇者レースのトップに躍り出た年です.それでこの時を幕府成立の年とする説もあります.しかもこの年の宣旨で頼朝は東海道/東山道の実質的支配権を認められています.

しかし,この段階では平氏が四国/中国地方に残っている状態ですから「武士政権の確立」という言葉のイメージにある「源氏が平氏にかわって政権を握った」ということにはなっていません.ただ頼朝を中心とする関東武士団が最強であり,その力が認められたということは大きい.私はこれが「幕府」成立のスタートだと考えています.

形式的にせよ全国的に影響力をおよぼすのは,頼朝が日本国総地頭/日本国総追捕使に任じられた1185年です.いわゆる「守護・地頭」の設置ということになります.これにより全国の国衙領・荘園に御家人を配置できるようになったからです.もっとも西国における平氏所領以外の設置は承久の乱以後になりますが・・・

1184年の公文所・問注所の設置を実質的な幕府成立とする説もあります.

きりがないのでここいらにしておきますが,「幕府成立の年は無い」というのが一番正しいのではないでしょうか?誤解されては困りますが「成立」はしているのです.その成立のありかたが「ここからが幕府の政治」でという区切りみたいなものがあるわけでなく,頼朝自らが「今から幕府の政治を行うぞ」というものでもなかったということです.

それは,それまで「さぶらふ者」と蔑まれていた武士が自分達の安全を保障する機構を作るにあたり,様々な機会を捉えて徐々に権利を拡大していったからなのです.

源氏が三代で絶え北条氏が武家政治の中心となっても,朝廷との二重政治は続きました.

幕府という言葉のイメージにはどうしても,「徳川幕府」がつきまとい「政権の一元化」という感がありますね.本では鎌倉幕府が,あたかも「武士が政治を行い」「政権を握った」かのように書かれているために,今でも多くの人々がそう思っているようですが,知れば知るほど実体は異なっています。

鎌倉幕府は武士にとっての「よりどころ」的存在だったのではないでしょうか.ハイカラに言えば「武士ユニオン」,難しくいえば「武士の集団安全保障組織」というところでしょうか.

ゲンボー先生より


はじめまして。福岡県 山笠振興会の者です。

牛若丸の”牛”の字は、”午”と”牛”は、どちらが正しいのでしょうか?よろしかったら、教えてください。

ゲンボー先生

午は「ご」十二支の7番目,つまり「うま」です.牛は「ご」とも読みますが「うし」です.

ですから通常は「牛若丸」ですね・・・「午若丸」というのは見たことがありません.もしかしたら原資料にそうあったのでしょうか? だとすると誤記だと思います.

もし,午若丸と書いてある資料を御存知でしたら教えてください.

ゲンボー先生 より

追伸 山笠は本物を見たことがありませんが,ずいぶん勇壮なのでしょう?もしかしたら,その山笠に牛若丸が使われるのですか?

お返事ありがとうございました。山笠(飾り山)。今年は”飛燕牛若丸”という標題です。山の説明文で、”午若丸”の方が使われておりまして、問い合わせを受けました。今日の午前中にいろいろと調べまして、説明文の”午”を”牛”に直すことになりました。

久しぶりに歴史の授業を思い出して、懐かしい気がしました。先生からのお返事が早かったこと、感謝いたしております。また、歴史について迷ったときにお世話になります。どうぞよろしくお願いします。

福岡県 博多祇園山笠振興会(十五番山笠)の者です。(平成12年7月)


はじめまして、大下と申します

貴殿のホームページを拝見いたしました。小学校6年生の長女に聞かれたのですがわからずにいろいろWWWを見ていくうちにホームページにあたりました。質問というのは学校の教科書には奈良の大仏に関しては詳細が書いてあるのに鎌倉の大仏は殆ど触れていないのはなぜかということでした。特にわからないのが、奈良の大仏はかなり建造目的が出ているのに鎌倉の大仏はあまりWWWでも出ていないので不思議になっています。

鎌倉の大仏の建造者とその目的をわかる範囲でお教え頂ければと思いましてご連絡いたしました。失礼と思いますがもしよろしければご回答ください

ゲンボー先生

さてご質問の件ですが.

吾妻鏡によれば1243年に阿弥陀信者の浄光が人々にすすめられて木造の大仏と大仏殿を作ったと書かれています.その10年後の1252年に同じく浄光が金銅の大仏を作りはじめました.現在の大仏はこれにあたります.当時は金箔がおされ光り輝いていたようです.銅の成分を見ると「鉛」が多く浄光が人々から一文銭の寄付をねがっていることから,どうやらこの一文銭を鋳つぶして作ったようです.このことから、当時一般庶民が貨幣を持っていた・・・使用していたことが分かりますね・・・

鎌倉の大仏の資料が少ないのは,時の権力者が作ったのではなく,庶民が作ったからに他ありません.本当はこうしたことを調べることによって立体的な時代が見えてくるのです.(平成12年8月)

ゲンボー先生

 


非常に解りやすく、読ませて頂いています。現在、京都女子高校2年で、日本史には興味があります。

日本史の先生の先生がかなり話術に、たけた人で授業がかなりおもしろいです。

これからも、このページ、読みます!


田中と申します

蒙古襲来ごろの鎌倉時代に関心があるのですが,この頃の食生活について,もっと詳しく知りたいと思います。食材等については,コラムで拝見させていただきましたが,この時代のいわゆる「御馳走」というと,どんなものがあったのでしょう?

芥川龍之介の小説には「芋粥」は御馳走のように書かれていましたし,司馬遼太郎の本には「菜飯」という料理が紹介されていました。また,「お刺身」が本格的に食べられるようになったのは室町時代からだと何かで読んだような気がします。

いずれの文献も,鎌倉時代とは異なる時代のものです。この頃の貴族及び武士などが「御馳走」として食していたものをご存知であれば,是非教えてください。

ゲンボー先生

メールをありがとうございます.ではまず武士の食事と貴族の食事を見てみましょう.

これが貴族の食事(武士の御馳走)

左の膳(マグロの焼き物/酒)  

右の膳(里芋/茹でた車海老/鴨と蕪のあつもの/蕪の漬物/姫飯(白米)

奥の高杯(揚げ菓子)

 

こっちが武士の日常の食事

左の膳(酒)

右の膳(干しイワシ/昆布とゴボウの煮物/大根汁/梅干し/玄米飯

写真資料 碧水社「武士の生活」より

おおむね武士の食事は質素です.例えば北条時頼のある日の食事ですが「玄米飯」「味噌汁」「大根味噌漬け」「焼きイワシ」だけです.楠正成は「玄米飯」「かぶの漬物」「味噌汁」「煮豆」「山鳥の焼肉」「芋の煮つけ」です.

正成のほうがいくぶん内容がいいのは,時代というより,おそらく近畿地方という土地柄のためと思われます.

近畿地方は東国に比べて畑に肥料を入れたり,鍬や鋤などの鉄製農具も早くから行きわたり,二毛作も行われていました.もちろん作物のバリエーションも東国より多彩でした普段はこんなものを食していた武士ですが.ハレの日や大きな行事の際にはご馳走が出ました.

記録にあるのは「姫飯」(白米)「かぶの漬物」「マグロの焼き物」「鴨と蕪のあつもの」「ゆでた車えび」「サトイモ」「揚げ菓子」です.おっしゃるとおり,お刺身は後世のものです.これは保存技術と運搬手段の問題です.多くの魚は塩蔵されたり干物にされました.

「塩さば」「塩ぶり」はその名残です.ですが,恐らく漁師たちは新鮮な魚を生食していたと思います.もっとも今で言う「御醤油」「わさび」は使っていなかったでしょうね・・・ただし「醤」(ひしお)と呼ばれる「たまり」や「魚醤」(ぎょしょう)はありました.これはこれで美味しいものです・・・

ところで,戦の携行食のなかに「塩」「味噌」「梅干」「しょうが」「さんしょ」が見られることから,当時の人もただ塩味だけではなく,スパイスをきかしたり,塩梅を加減したりしていたことがわかります.これは下人も同じですから,そうした味付けは庶民にも及んでいたと考えるのが自然です.

私は,ホームページで子供達にも述べているように,どんな時代でも人々は食に「工夫」してそれなりに美味しく食べていたと考えています.なにせ,食は人間の営みの中心にあるものですから・・・・

記録から垣間見る昔の食事は現代に比べて貧弱なように思われがちですが,どっこい「うまいもん食ってたんだぞー」かも知れません.

農民の食事のページはこちら

ゲンボー先生


福岡在住 社会人

頼政が挙兵したのは、76歳のときです。きっかけは、子供の仲綱の馬を平宗盛が欲しがった事とされていますが、76歳にもなり、平氏政権下でそれなりの地位を得た人間が果たして馬のことで、以仁王にすすめて平家打倒の令旨を要請するなど時の権力者に対して挙兵を計画するものでしょうか?実際はほかに理由があったのではないかと考えるのですが、どうでしょうか?

ゲンボー先生

源三位頼政は平氏政権にあってただ一人源氏として昇殿を許された武士です.保元の乱,平治の乱でもそれなりの武功をたてたのですが,なぜか評価をされずにきた人です.同じ清和源氏と言っても摂津源氏ですから関東に勢力を持っていた為義,義朝たちとは一線を画していました.ですから平治の乱の際にも義朝と戦うことにさほど抵抗感は無かったと思います.

頼政は先祖代々宮廷に使えていた家柄ですから,教養が深く,特に和歌の才には長けていました.彼の歌は「金葉和歌集」をはじめ勅選和歌集に多くが選ばれています.頼政は75才の時に従三位に任じられました.平氏一門の栄達にくらべればかなり遅かったといえます.また,この時の昇進にはエピソードがあって,三位への推薦状は平清盛が書いているのです.清盛の信任はかなり厚かったといえるでしょう.清盛の書状の中にも「正直者」との人物評価が書かれています.

息子の馬の話は有名ですが,頼政ほどの人物がそれだけで平氏に反旗を翻すなどとはとても思えません.この点で貴方のご意見に賛同いたします.

源平盛衰記などには以仁王の一件は頼政から話があったと書かれていますが,実際には逆ではなかったかと私は思います.安徳帝が即位しこのままでは到底天皇になれない以仁王と側近がまずはじめに画策したことではないでしょうか.

鹿ヶ谷の事件を目のあたりにした王や側近が,失敗した際の事を考え,頼政側から持ちかけたということにして,自分達の立場を少しでも良くしておこうと思ったのでしょう.これが,王から持ちかけた話となれば,当然王は流罪,側近は良くて流罪,下手をすれば斬首ですから・・・

クーデターを持ちかけられた 頼政はしばらく考えた後,源義盛を呼び「行家」と偽名を名乗らせ,諸国の源氏に対していわゆる以仁王の令旨を伝えさせました.

クーデターが発覚した際にも,清盛が頼政を先鋒に任じたほど彼は疑われてはいなかったのです.これほど冷静に事を運ぶ人物が安易に「平家打倒」など持ち出すわけがないでしょうね. 天皇や皇子を守る 宮廷武士として仕えてきた頼政は,以仁王とその側近から話をもちかけられ,実直なその性格から断われなかったというのが本当のところではないでしょうか.冷静に判断すれば圧倒的に不利なのですから・・・もちろん,平治の乱でも活躍したのに「冷や飯」を食わされていたこと,平家がおごりたかぶって,武士を含む民衆の心が離反しているという状況もバックグラウンドとしては当然ある上でのことです.

頼政は情勢判断の結果,寺院勢力の応援と諸国源氏の応援を得られればと「イチかバチかの賭け」にでたのです.しかし,時間はあまりにも少なかった.結果は御存知のとおり,十分な準備もなくクーデターは始まってしまいました.

ゲンボー先生より


福山高校 啓治

何故,将軍になると幕府といって別の政権を作ることができるのですか?

ゲンボー先生

メールを有難うございます.

将軍とは「征夷大将軍」のことです.読んで字の如く「朝廷に従わない者を征するための軍隊の,最高位の職種」です.現代の戦争でも制圧した地域は占領軍が政治を行います.第2次大戦で日本が負けたときにもGHQ(連合軍最高司令部)が日本の政治を行いました.

これと同じく,古代や中世にあっても占領地域は軍人が政治を行いました.武士たちが「白い幕」の中で軍議を開いている場面を映画やテレビで見たことがあると思いますが,あれが語源となって「幕府」という名前がつきました.

しかし,幕府はあくまでも朝廷の臨時の出先機関である事を忘れないでください.ですから形の上で朝廷から位をもらったり命令書をもらったりします.(これもそのときの力関係によってかわりますが)

今年の大河ドラマは「北条時宗」で鎌倉幕府がクローズアップされていますが,朝廷との関係に注意してみると分かるかもしれませんね.ただあくまでもドラマですから,そのまま史実と思ってはいけませんよ.

もう一つ,鎌倉の武士政権に幕府という呼び名がついたのは江戸時代になってからのことです.ドラマの中で「鎌倉幕府」とか「幕府」といったらそれは間違いです.(ドラマだからいいか・・・)※頼朝の頃に幕府といったら,それは将軍の住む館のことをさすのです.

ゲンボー先生より.


福山高校 啓治

源将軍の直参というか江戸でいえば はたもと ご家人はいなかったのですか 有力武士 たとえば北条 足利は 譜代の家臣 直参をもっていたとおもっています

ゲンボー先生

藤井君,メールを有難う.福山は広島県ですね.

頼朝の家来と言えば「御家人」全てでしょうね・・「執権」も役柄から言えば家司ですから家臣と言えますね。北条氏には御内人(みうちびと)と呼ばれる家来がいるので他の豪族にもいたことが分かります。当時の幕府の機構は,とてもシンプルで政所,侍所,問注所などの機関はもともと頼朝が東国の豪族達を束ねる私的機関として始まりました.このころの直接の家来は公事奉行人(くじぶぎょうにん)と呼ばれた下級官僚グループです.彼等は京都からやってきた事務官吏です.なにせ当時の武士は読み書きできる者が稀でしたから組織や法制,事務能力にたけた彼等は頼朝がもっとも頼りとする存在でした.

武士としての家来ももちろんいました.頼朝の護衛や頼朝知行国の荘園を管理する武士達です.頼朝の領地支配は以下のようにいくつかに別れます.ただしこれらは当然の事ながら源平の戦いのあとの話です.源平の戦い前の頼朝には父義朝のように直接の軍隊を持っていませんでした.石橋山の合戦も小豪族の寄せ集めで戦ったのです.

1.頼朝の荘園=平家滅亡後に与えられた平家領500ケ所

2.頼朝が朝廷から与えられた知行国=相模・武蔵・ 上総・下総・伊豆・ 駿河・ 信濃・越後・豊後の9ヶ国.

このうち500箇所の荘園内にいる武士達の中には直接の家来がいます.ただしこの時代は形にはまって「こうだった」と言い切れないことが多く,全ての荘園がそうだったとは言いきることができません.また将軍の回りにいる家来の中には御家人の息子や家来も混じっています.

答えにならなくて申し訳ないのですが,教科書や本にでている鎌倉幕府の政治機構図は,流動的だった鎌倉時代全体を通して「ひとつにまとめちゃった」ものなので,実際とはちょっと違っています.関東の豪族達の「集団安全保障」の意味あいが強かった幕府の機構は,土地土地によって異なっていた習わしに合わせて時々に変化しているのです.君も知ってのとおり鎌倉時代における実質的な将軍は頼朝ただ一人です,あとはかざりものでした.頼家や実朝は父親とは違って政治には疎かった上に他の豪族に利用されていました・・

有力ご家人は領地で生活せず鎌倉にいたのたのですか

有力御家人と言っても本拠地は自分の領地です.もちろん鎌倉にも屋敷(館)がありました.彼等は幕府の重要な官僚でもあるからです.いまでも,国会議員の家が郷里である選挙区と東京にあるのと同じです.有力御家人の鎌倉での屋敷の位置はほぼわかっています.面白いのは三浦と北条の屋敷が目と鼻の先にあると言うことです.彼等は犬猿の仲で戦もしていますね.テレビで見ると遠くから攻めてくるような感じなのですが,あれはやっぱりドラマなんですね.実際は走ったら1分もかからないのです.有力御家人には更に別荘もありました.彼等は必要に応じてそれらの屋敷にすんでいたのです.これでいいですか?

ゲンボー先生より


社会人の橋本と申します

四半世紀前の大学時代(理科系)、教養課程で鎌倉仏教の授業を聴講して以来鎌倉時代に関心があったのですが、素人が読めるような本がなかなかなくて、次のような基本的なことでもイメージがわかないことだらけです。

1. 御家人の生活というのはどういうものだったのでしょうか。

 - 幕府全体で何人ぐらい御家人がいたのか。

- 御家人イコール地頭なのか。

非幕府系、すなわち京都被官の地頭はいなかったのか。

地頭以外の(たとえば武装商人のような)御家人はまったくいなかったのか。

- 典型的な御家人や地頭は一人でどれくらいの広さの領地をもっていたのか。

- 農業生産からの年貢以外に収入はなかったのか。

(たとえば商工業者の運上金、関銭など)

- 一生の間に京都、鎌倉など、都会に行く機会はどのくらいあったのか。

- 足利など有力御家人は鎌倉に屋敷があったのだと思いますが、鎌倉常住の御家人は何人ぐらいいたのか。どういう人たちか。

- 典型的な御家人の場合、近隣領地の御家人同士で婚姻していたのか、そ

れとも全国規模で嫁のやりとりをしていたのか。

そもそも御家人は妻問婚なのか、嫁入り婚なのか。

- 引退年齢や、平均寿命は?得宗家は若死にが何人もいますが、当時は普通のことだったのでしょうか?

2. 御家人と御内人の関係もあいまいでわかりません。

 - 御内人は御家人では絶対ないのか、両方兼務する者はいなかったのか。

- 同様に足利家などの有力御家人の執事で、御家人になっているものは?

- 御内人の経済基盤は何か。

金銭や米などで主人から給料をもらっていた?

主人の領地を代官として事実上領有して年貢をもらってた?

ゲンボー先生

橋本さんメールを有難うございます.

ご質問にお答えしますが,ご存知のように鎌倉時代は江戸時代とは違い,資料が少ないため推測の部分が多くあります.考古学の発達とともに実証されてきた部分もだいぶ増えましたが実際には分からない事も数多く残っています.そのことをまず理解してください.

1. 御家人の生活というのはどういうものだったのでしょうか。

- 幕府全体で何人ぐらい御家人がいたのか。

惣領以外への土地の分配や,没落,と様々なことがありますので正確な数はわかりません.義経が頼朝に反旗を翻した時に鎌倉にいた御家人は二千余人だったと書かれていますが、古い時代の記録では誇張されて書かれることが多いのでなんとも言えません。また東国と西国では密度が大きく異なります.承久の乱以後,西国にも地頭配置が進みましたが,それでも多くの武士や領主は幕府の支配を嫌っていました.一番の理由は「名主・地頭階層」の武士の独立心が強かったためです.若狭の御家人は三十三人と記録されていますが、日本国総地頭の支配下である「地頭」になったものは一人もいません。すべてが名主や下司のままです・・それは守護の中に鎌倉の権力をかさにきて支配力を強めようとした者が少なからずいたからだと言われています。御家人なのに幕府の組織には組み込まれていないということです・・したたかですね(笑)

- 御家人イコール地頭なのか。

違います以上のような例からもわかるように、鎌倉政権の庇護の元に地頭.公文.名主.下司の職名をもつ領主が御家人です.

非幕府系、すなわち京都被官の地頭はいなかったのか。地頭以外の(たとえば武装商人のような)御家人はまったくいなかったのか。

寄人(よりうど).神人(じにん).供御人(くごにん)など貴族や皇族に仕える武士がいました.彼らは地頭ではありません.この時代の地頭は将軍と主従関係を持った御家人のみに与えられた称号です.また,一般庶民を「凡下」(ぼんげ)とか甲乙人(こうおつにん)よ呼びますが,彼らのなかにも武装しているものがいました.特に西日本は東国と違い経済も発達していましたので,武装商人もいました.もちろん彼らは御家人ではありません.

- 典型的な御家人や地頭は一人でどれくらいの広さの領地をもっていたのか。

大体は大字ないし1村程度です.畿内では数町程度の狭いものもありました.東国.九州には1郡程度の広いものがあり領内にいくつも村があったところも多かったといわれています.

つまり,まちまちということです.ちなみに後世になって開拓の進んだ東北は別として,今日の農村で見られる耕地面積の半分くらいが農地でした.この時代はまだ荒地や未開墾地が多く残っていました.また単位面積あたりの収穫量は今日の四分の一程度と言われています.

- 農業生産からの年貢以外に収入はなかったのか。(たとえば商工業者の運上金、関銭など)

基本的には農業経済の基盤上にありますから,農業生産物からの収入が大部分です.しかし地域によっては漁業収益や手工業的な生産物などの特産物からのとりたてもありました.特に鎌倉時代後期になって政権が安定してくると畿内では商工業が盛んになります.通行を保障する一方で関銭をとるものも現れました.

- 一生の間に京都、鎌倉など、都会に行く機会はどのくらいあったのか。

住んでいる場所にもよりますが,多くの御家人が都会と所領を往来したと思います.また有力御家人には鎌倉にも館が有りました.京都へは職位によって異なりましたが,主に六波羅探題への出向や将軍上洛の供としての上京がありました。

- 足利など有力御家人は鎌倉に屋敷があったのだと思いますが、鎌倉常住の御家人は何人ぐらいいたのか。どういう人たちか。

正確にはわかりませんが,常住というのは有力御家人でも北条氏.三浦氏・安達氏・和田氏・比企氏と少なかったと思います.基本的には自分の所領がホームです.

- 典型的な御家人の場合、近隣領地の御家人同士で婚姻していたのか、それとも全国規模で嫁のやりとりをしていたのか。そもそも御家人は妻問婚なのか、嫁入り婚なのか。

近隣との婚姻は互いに血を交えて争いを無くそうとか,「人質」的な要素が大でした.また有力者との婚姻もその多くは政略的な結婚です.近い遠い,色々だったと思いますよ・・それまでは婿入り婚(妻問婚の変化したもの)でしたが、ちょうどこの頃から関東地方で嫁入り婚が増加してきたと言われています.

- 引退年齢や、平均寿命は?得宗家は若死にが何人もいますが、当時は普通のことだったのでしょうか?

平均寿命は50までいきません.長生きする人もいましたが現在のようわけにはいきません.病気,怪我,戦と,この時代の人々は常に死と背中合わせでした.得宗家に若死にが多いというのは記録があるからで,子供の死は貴賎に関係無く多かったのです.孤児も多かったようです.時頼の出したお触れのなかに「死んだ孤児の遺骸を路頭に捨ててはならない」というものがあるくらいです.

引退の年齢は「あとつぎ」の状態によってかわります.子供が元服したからというのはあまり関係ありません.タイミングを見て引退しますが,実権は握っているというケースは今日でもあるじゃありませんか.

2. 御家人と御内人の関係もあいまいでわかりません。

- 御内人は御家人では絶対ないのか、両方兼務する者はいなかったのか。

いません.御家人は将軍の直臣.御内人は得宗家の家来が他の御家人に対して特別な意味を持つようになったのでそう呼ばれるようになりました・・.明らかに立場が違います.

- 同様に足利家などの有力御家人の執事で、御家人になっているものは?

いません.室町時代になり(応仁の乱以後)には,そういうこともあったでしょうが,鎌倉時代は直臣と陪臣は明確に分けられています.

- 御内人の経済基盤は何か。

金銭や米などで主人から給料をもらっていた?

主人の領地を代官として事実上領有して年貢をもらってた?

幕府の役人になって、その手当で生活していた?

商工業者の運上金や、関銭、津銭で稼いでいた?

チップやワイロが主な収入源だった?

主に土地から上がる農業収益です.(税としての)主家から領地を分けてもらうのです.この基本は江戸時代まで続きます.

3. 幕府の役職について

- 内管領平頼綱が武者所の所司を勤めていたとあるが、御家人でなくて も幕府の高官になれるのか。

得宗家が実権を握るとともに,代々北条氏の家臣であった内管領頼綱が力を持ったということなのです.

有名な霜月合戦で,最後の有力御家人安達一族が滅びてからは完全に得宗家が実権を握ります.

執権政治とはいっても,御家人から選ばれた評定衆による合議制が基本だった鎌倉政権です.ところが得宗の力が強まると得宗家内での話し合いがこれに優先するようになってしまいました.いわゆる「寄合い」というやつです.NHKでちょうどやっているように,執権職も得宗家の1職務になってしまいます.

つまり,鎌倉政権創設当時は将軍である頼朝が実権を握り.その死とともに将軍は名誉職となり,しばらくは執権を中心とした御家人による合議制で政権が運営されました.ところが時頼,時宗,貞時の時代に北条氏嫡流が実権を握るようになると,評定衆による政治を身内内での寄合い重視に変え,さらに執権職をも名誉職としてしまったのです.その中枢が得宗家で得宗家を補佐する内管領家までもが権勢を振るったということです.彼はその立場を利用して恐怖政治を行いました.この期におよんで御家人を中心にまとまっていた幕府の性質が陪臣重視による政治へと大きく変貌していきます.高時の時あっけなく幕府が滅びる一因はここにもあります.御家人の信頼が潰えたのです.

- 幕府の役職に就くと手当がつくのか、それともノブレスオブリージュなのか

収入はあくまでも自領からの収益で手当てはありません.が,役得はあります.こんなところでよろしいでしょうか?

ゲンボー先生より


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