高校生以上の方からの質問7

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初めまして、小池と申します。学生ではないのですが、質問してもよろしいでしょうか?

現在源平合戦の頃の海賊衆について調べています。(学術的ということでもなくて、興味があるのでという感じなのですが(汗))小説で読み、熊野水軍としぼって見てみると熊野別当がいて、海賊を取り仕切るトップの人がいて、朝廷→別当→トップの人→水夫という上下関係のもと、海賊衆にかぎらずその地域に住んでいる人が別当に税を渡し、それを朝廷がすいあげている形なのかなと思っていますがそれであっているでしょうか?

またHPを拝見して、農民の生活についてはいろいろ書かれていたのですが海辺の人は衣食住はどういった感じだったのでしょうか?漁にでて、市で売り、…と農作業が海での作業にかわるだけですか?そうすると「水軍」という人たちも、普段はそういう漁業関連に勤しんでいたのでしょうか?それとも、「水軍」の人間は普通に漁業をする人とは違い、例えば交易をしていたのでしょうか?もしも交易となると、当時の日本のお金が外国にとって価値があったようには感じられず物々交換をしていたのだろうと思うのですが、どういう物を売り、どういう物を仕入れていたのでしょうか?

それから、これは海辺に限ったことではないのですが、当時の人は武士なり庶民なり貴族なり…お風呂には入っていたのでしょうか?平安時代だとお香でごまかして…だったと思うのですが。普通にお湯をわかして、湯船に入って、というようなことは日常的に行われていたのでしょうか?HPの屋敷の図には、お風呂が見あたらなかったので、もしやこの時代は「たらいで行水」が主流なのだろうかと思っております。

質問だらけになってしまい申し訳ありません。参考になりそうな本をあれこれ読んでみても、鎌倉初期、それこそ源平合戦の頃の水軍について書かれている資料に出逢えずにいます。戦国時代になるといろいろ資料があるようなのですが…おすすめの資料があれば、アドバイスも頂ければと思います。

よろしくお願い致します。

ゲンボー先生

小池様

メールをありがとうございます。私は水軍が専門ではないのですが、知っていることをお答えします。

1.漁民・水軍は特別な地位にあり、朝廷には「贄」(にえ)と言う形で税を納めています。鳥羽からは「あわび」「海藻」「心太」(ところてん)などが納められていました。また、漁民を有する荘園や国衙領からも庄家や朝廷に海産物が納められています。石橋山の合戦で頼朝を負かした大庭景親の領地「大庭の御厨」(みくりや)は伊勢神宮に寄進した荘園なので、毎年「干しアワビ」を年貢と共に送っていました。

2.水軍には色々な形態がありますが、いずれも漁業に深く関わっている豪族(この場合漁民の頭とか網元と言うべきでしょうか)が、ちょうど農園領主が武装して武士になるのと同じように、武士化していったものと思われます。鎌倉時代は物資の流通が活発になった時期でもあり、航路の開発と共に津や浦、あるいは湊が栄えた時期にもあたります。

そうした立地にいた豪族の中には港の管理や荷揚げ、運搬などに進出していくものもありました。また航路の安全確保のための護衛や水先案内をする者も現れました。瀬戸内の村上水軍や真鍋水軍がその好例かと思います。

何年か前に真鍋家ご当主にあってお話を伺いましたが、本来は漁民ですが、潮の流れが激しい瀬戸内では時間短縮や座礁の回避というニーズから水先案内も専門に行うようになったそうです。しかし、真鍋水軍のテリトリーに入っているにもかかわらず水先案内を断ったり、案内賃をけちったりすると途端に海賊に変身したんだそうです・・・(笑)

航路が開かれて彼らは全く農業をしていないかというとそうではなく、土地を耕し水路を引くなどの開拓も行っています。相模の三浦水軍がその良い例です。三浦半島の大部分は丘陵地なので畑を開墾していますが、ごくわずかですが川の作った沖積地を水田化しています。また相模内陸進出の願望は強く、一族を相模平野周辺に根付かせています。これは私のページ「幕府を作った相模の武士団」をご覧ください。

頼朝の建幕は彼が推進力になって行われたと思われがちですが、実は三浦氏をはじめ豪族たちの勢力拡大、武士の権利の確保と保障に対する強い望みが頼朝担ぎ上げに結びついたのです。その証拠に富士川の合戦で敗走する平氏を追撃しようと提案する頼朝に、上総介や主だった豪族が「まず板東の地固めが先」と反対しますね・・頼朝はこの時点でこの戦が源平の戦いではなく、朝廷をはじめとする既存の勢力との戦いであることを認識するわけです。

大河ドラマで大活躍している義経は最後までこのことを理解できなかった。・・だから滅びたのです。

話しを元に戻しましょう。三浦氏は半農半漁ですから海と陸に強い・・つまり陸軍と海軍を持っていたことになります。東京湾の入り口は完全に彼らが支配しており、対岸の安房も彼らの領地になっています。面白いのはいまでも安房の方言が相模とよく似ているところです。上総、下総地域の千葉県民に言わせると安房地方の人間は千葉県民じゃなくて神奈川県安房区民なんだそうです・・(笑)いまでも歴史の証拠が残っているということでしょうか・・面白いですね・・

反対側には伊豆半島がありますね・・三浦氏は伊豆の豪族とも深い関係をもっています。地図を見るとよく分かるのですが。房総半島と伊豆半島のあいだにちょんと出ているのが三浦半島です。彼らはその立地を生かして相模湾・江戸湾周辺をテリトリーとして活躍した漁民・水軍だったということです。

 

3.航路をおさえていたり湊を支配していた水軍の中には水運業に手を出す者も現れたと書きましたが、北九州や日本海側の有力な豪族が今で言う船会社を作っていました。荷主は主に東大寺などの大寺社が多かったようです。日本からの主な輸出品は「木材」「漆器」「硫黄」「昆布」「干しアワビ」「刀」などです。この中で最も重要なのものが木材でした。それは南宋が大変な木材不足だったからです。元に圧迫されて南に逃れた宋朝廷は華中・華南地方で南宋をおこしますが、急速な開発のために森林の過度な伐採がすすみ、深刻な木材不足になってしまいました。あまりにも木材が不足して棺桶を作るのにもことかいたと記録にあるほどです。

余談ですが、そのために南宋では薪でなく「藁」で調理をするようになったそうです。藁は燃焼時間は短かいのですが、燃えている間は高熱を発します。短い時間に高熱で勝負する中華料理がこの時誕生したのだそうです。南宋の人には気の毒だけれど、おかげさまで今日おいしい中華料理が食べられるようになったというわけですね・・・笑

さて輸入品の一番はなんと言っても貨幣です。日本は独自で質の高い貨幣を大量に造ることができなかったので、国内に流通する貨幣はほとんどが中国銭でした。日本があんまり大量に輸入するので、南宋は一時デフレになってしまうという事態におちいります。

教科書などには貨幣経済が発達するのは江戸時代・・と書いてありますが、それは大きな誤解なんですね・・古代には物々交換もあったでしょうが、鎌倉時代には立派に貨幣が流通していました。江戸時代は逆に「米使いの経済」を徹底するために農村をむりやり貨幣経済の外におこうとしたわけで、そのおしつけ制度も江戸時代後期には破綻したわけです。そこしか見ていない人が「江戸時代後期になって貨幣経済が発達した」などと言ってしまった・・・教科書もそのような書き方になっていますね・・・

ですから、当然、貿易にはお金が使われたわけです。ただし、対価と言うことで「バーター貿易」はあったと思います。

4.お風呂はありました・・ありましたが今のものとは違います。貴族や高級武士階級では「蒸し風呂」に入っていました。平治の乱で敗走する源義朝が入浴中に殺されるのは蒸し風呂の中です。当時は浴衣を着て入りました。汗が流れて汚れが浮き出たところでお湯をかぶる・・・浴衣を着替えて身体を拭く、という手順です。もちろん毎日はいることはありません。夏は行水です。

我々がイメージするお風呂もありましたが、それは薬湯といって風呂桶の中に薬草を入れて入るものです。古くは光明皇后が貧民(主にらい病患者)を薬湯に入れたと記録にあります。仏教ではお風呂にはいることが七病を防ぎ七福を招来するということで、お寺に浴場を作ることがあたり前になりました。このお風呂には一般庶民も入れたようです。鎌倉時代では特に律宗のお寺が貧民救済のためにしばしばお風呂を炊いています。

貴族の女性は、十二単なんていう動きにくく、蒸れちゃうような服を着ていたものですから皮膚病が多かったと言われています。そこで彼女たちは定期的に「クロモジ」の枝葉をいれたお風呂に入浴していました。クロモジには芳香と殺菌作用があるからです。紫式部や清少納言もカイカイで悩んでいたのかもしれません。というわけで、現在、爪楊枝がクロモジなのはそうした理由があるからなのです。

そうそう、湯殿にはポンと風呂桶がおいてあるだけです。お湯は下女や下男が桶に入れて運びました。これは西洋のバスタブと同じですね・・・

一般庶民は、行水や川の中で身体を洗ったり、水やお湯で身体を拭いていた程度です。頼朝や政子はたびたび伊豆や箱根の温泉を訪ねていますが、これは入浴と言うより「湯治」ですね・・この時代すでに料理やお酒を出すところもあったそうだから、まあ、いつの時代も考えることは同じかなあ・・なんて思います・・(笑)ざっと説明しましたが、これでよろしいでしょうか?もっと知りたいことがあったらまたどうぞ・・・

ゲンボー先生


私は、歴史好きの33歳です。さて、北条義時が結婚するときに起請文を書いたとかありますが、その状況は何だったのか、また、その他エピソード類を教えてください。

ゲンボー先生

メールをありがとうございました。義時には4人の女性がいたと考えられます。質問の女性は姫の前といい2番目か3番目の側室です。

義時は武将としての勲功はあまり無く、どちらかと言えば官僚タイプの人でした。その力は頼朝死後の一連の動きを見れば一目瞭然です。つまり政治家ですね・・このところが頼朝にとってのお気に入りだったのです。その義時がせっせとラブレターを書いて口説き落とせなかったのが比企氏の娘で、女官ナンバーワンの美貌の持ち主「姫の前」でした

そのことを聞いた頼朝は義時のことが哀れに思えて、だったら「絶対に離婚はしません」と起請文を書いて約束せよ、それだったら俺が口をきいてやる・・という展開になりました。

この時代の結婚の主流は婿入り婚で、正室以外にあっちこっちに側室を持つのが一般的でした。ところが関東においては徐々に嫁入り婚が増えつつあり、家の中に奥さんがで〜んとかまえる形になってきたのです。

頼朝の正室である政子さんなどは、完全に夫は私だけのもの・・という気持ちが強く、頼朝の愛妾「亀の前」の屋敷を壊させているくらいです・・(笑)

そういう背景もあったので、多くの御家人が嫁にしたいと願っている姫の前を口説き落とすには、神仏に誓うくらいのことはしろよ、ということになったのでしょう。吾妻鏡ではそのところをこのように記しています。

建久3年 9月25日 甲午

幕府の官女(姫の前)今夜始めて江間殿(義時)の御亭に渡る。これ比企の籐内朝宗が 息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太だ美麗なりと。而るに江間殿、この一両年色に耽るの志を以て、頻りに消息せらるると雖も、敢えて容用無きの処、将軍家これを聞こし食され、離別を致すべからざるの旨起請文を取り行き向かうべきの由、件の女房に仰せらるるの間、その状を乞い取るの後、嫁娶の儀を定むると.

※ちなみに,この姫の前との間にできた子供が朝時で名越流の始祖になります.ついでに言うならこの朝時も官女にラブレターを出して、タイミングが悪かったものですから義時に叱られています・・・親子ですなあ(笑)その話に行く

ゲンボー先生


神奈川在住 高校 一年 岩田です

鎌倉の時代に土井実平というひとがいます。この人は僕の祖先に当たるようなのです。今 興味を持ち、しらべはじめたのですが、この人が源氏を助けたりしたのがわかりました。ですが、この人が戦で死んだのかなどがわかりません。もし、この人の知っていることがあれば おしえてほしいのですが

ゲンボー先生

岩田君。メールをありがとう。

土肥実平(といさねひら)は頼朝旗揚げの時にもっとも働いた相模の豪族で、頼朝の命の恩人でもあるのです。つまりこの人がいなかったら鎌倉幕府はなかったということになります。先生のページ「幕府を作った相模の武士たち」を見ても分かるように、土肥実平は相模の大豪族中村氏一族です、兄弟には土屋氏がおり、三浦氏系統の岡崎や真田とも親戚関係を結んでいました。いまここで名前を挙げた豪族と伊豆の北条だけが頼朝旗揚げの時の仲間と言うことになります。

君も知っているとおり、石橋山でこてんぱんにやられた頼朝一行が山中に逃げ込んだとき、実平が「少人数」になって逃げると指示しなかったら、おそらく頼朝一行は見つかって討ち死にしていたことでしょう。

というわけで、鎌倉に武士の政権ができた後も頼朝はこれら旗揚げ時からの御家人を大切にしていました。実平の最後は記録がないために分かりませんが、戦で死んではいません。おそらく普通に亡くなったのだと思います。湯河原に城願寺というお寺があり、そこに土肥一族のものと言われる五輪塔が祀(まつ)られています。おそらくそのうちの一つが実平のものなのでしょう。君も機会があったらぜひ一度訪れてみてください。土肥一族は、後に小早川、早川を名乗り後々まで栄えました。君のルーツを知ると言うことはとても大切なことです。がんばって調べてみてください。土肥実平について詳しいホームページがあるので紹介します。

http://www56.tok2.com/home/bamen/tohi.htm

          

土肥一族の館があったと言われる城願寺境内       土肥一族の墓所

ゲンボー先生


はじめまして。前橋東高等学校の真理子です.

今、学校の課題研究で昔の人の髪型について調べています。縄文時代、または鎌倉時代の人は、どのような髪型をしていたのですか?おしえてください。

ゲンボー先生

真理子さん、メールをありがとう。

縄文時代の髪型は土偶からしか判断できないのですが、それで見る限り男性は髪を髷状にまとめています。女性もアップにして「かんざし」やクシなどをさしていたと考えられています。絵で見るようなぼうぼうの髪型などではないということです。この時代にはすでに色つきの糸や組紐なども発見されていますので、服だってちゃんとしたものを着ていたのです。そういう人たちが髪型に気をつけないわけがないですね。縄文時代と一言で言っても1万年ほど続いていますから、時期によって髪型も変化したと思います。

鎌倉時代は、男性は髷です。しかも烏帽子をかぶっています。烏帽子は今日我々が考えているような帽子としての感覚ではありません。フロにはいるとき、寝るとき以外は常にかぶっていました。烏帽子を人前ではずすことは大変に失礼になるし、恥ずかしいこととされました。

ある武士が喧嘩をして烏帽子をとられ、これ以上の侮辱はないと嘆いたと記録にあります。 つまり今で言うとパンツのような感覚でしょう・・・(笑)

女性は身分によって異なりますが、通常は長く伸ばしていたようです。場合によってはアップにしたり、まとめたりしたと思いますが。いわゆる日本髪が現れたのは江戸時代になってからで、それも一般に広まるのは中期以後です。

しかし、面白いことに興味を持ったね君は・・どうしてそのテーマを選んだのかを先生は知りたいなあ.

ゲンボー先生


福岡在住の僧侶で小林と申します。先生のHPに、「鎌倉時代にはHの音がなくて、Fだった」と書いてあり、また別の資料(失念しましたが)には、「ガギグゲゴ」も「グヮグィググェグォ」だったと書いてありました。私の宗派の祖師は日蓮聖人ですが、上記の発音からすると、「なむみょうほうれんげきょう」も、「なむみょうふぉうれんぐぇきょう」となるのかも知れません。これ以外にも鎌倉時代と現代とで異なる発音があるのでしょうか?特に僧侶としては日蓮聖人が唱えたお題目の響きに興味があります。是非お教えください。また、今後この点について自分で勉強するための資料があれば、併せてご教示ください。合掌

ゲンボー先生

小林様。メールをありがとうございました。

うぃ うぇ(ゑ と ゐ と を 、ですね)なども鎌倉時代の発音といわれています。

日蓮聖人は千葉で生まれ育ち、比叡山で学び、相模で活躍されますが、安房は変わったところで千葉県の方言よりどちらかといえば神奈川の言葉に似ています。 これは三浦半島と房総半島が一衣帯水の関係にあり、相模の大豪族三浦氏の影響が強かったためで、 人の交流も盛んにおこなわれていたからでしょう。鎌倉に来た日蓮聖人にとっては、幼少の言葉と同じ響きを持つ鎌倉の言葉に親近感を覚えたかもしれません。おそらく聖人は武士に説法するときには京の言葉を使ったと思います。田舎者の武士にはそのほうが威厳があるからです。しかし、下級武士や庶民への説法は多分安房弁だったはずです。そのほうがはるかに相手に通じるからです。

当時の安房・相模の方言がどのようであったかは定かではありませんが、もしかして「〜だべ」などといっていたかと思うと微笑ましさも感じます。と、書いているうちにこのテーマが非常に興味深いことに気付きました。日蓮聖人がどのようなお言葉で説法をしていたのか・・・・もう少し調べたいと思います。

ご質問の中に資料のことがありましたが、わたしは言語学が専門ではないので資料については分かりかねるところがございます。申し訳ありません。

ゲンボー先生

小林

ゲンボー先生、ご丁寧な回答をありがとうございました。相模と安房とが言葉が近いというのはおもしろいですね。大変勉強になりました。

ただ、武士に説法するときに京ことばを使っていたかどうかについては疑問が残ります。といいますのも、日蓮聖人のお弟子に三位房日行という人がいて、この人が京都へ留学している最中に出されたお手紙に次のように書かれています。

「定てことばつき音なんども京なめりになりたるらん。ねずみがかわほりになりたるやうに鳥にもあらず、ねずみにもあらず。田舎法師にもあらず京法師にもにず、せう房がやうになりぬとをぼゆ。言をば但いなかことばにてあるべしなかなかあしきやうにて有なり。」(法門可被申様之事 昭和定本日蓮聖人遺文第一巻449頁)

現代訳:おそらく言葉づかいや話をする声なども京訛りになったことでしょう。鼠がコウモリになったように、鳥でもなく鼠でもなく、田舎法師でもなければ京法師ともみえず、さぞや少輔房のようになったと思われます。中途半端なのはかえって聞き苦しいものです。(日蓮聖人全集第五巻 238頁下段 春秋社)

とありまして、公家の前で法華経の講義をして、そのことを自慢げに報告してくる弟子にたいして、厳しく名聞利養の心をおさえるように教示しています。これが即、武士の説法に京ことばを使わなかったとする根拠にはなりませんが、京ことばにたいする何らかのこだわりを持っていたことが分かります。また、世俗的な言い方をすれば反骨精神というか、世間の権威にたいして、仏法という別の次元からものを見る姿勢も伺えます。もっとも、聖人自身は京都・関西に10年以上留学されていましたので、三位房よりも流暢に京言葉を話すことができたと想像できますし、それ故、鎌倉でにわか京言葉を使う人の聞き苦しさもよくご存じだったのでしょう。しかし、聖人自身は鎌倉でTPOに応じて言葉を使い分けていたのを三位房が見ていて、京都に行って師匠の真似をしたのかも知れないですね。

ともあれ、私も先生と同じく聖人の説法時の言葉遣いに興味が湧いてきました。私も調べてみます。

それにしても先生のHPは本当に勉強になります。元来、歴史は嫌いではありませんが、難しい文献を読むよりも、先生の書かれたものを読んでいると、その時代のことが今までより数倍身近に感じることができました。これからもよろしくお願い致します。 合掌

ゲンボー先生

小林様.ありがとうございます。こういうことが素人には分からないのです。なるほど聖人が弟子を諭したこと分かります。聖人は何事にも真っ直ぐ対されたのですね。今後ともよろしくお願いします。

ゲンボー先生


神戸市須磨区の金谷です.こんにちは、この歳になって歴史に興味を持ち始めて勉強?している65歳のリタイアです。宜しくお願いいたします。

平安末期から中世にかけて荘園制度が発達したことはよく知られていますが、鎌倉時代末期には御家人〜地頭と幕府を支えてきた荘園制度に行き詰まりが生じその結果、新田義貞の挙兵などが起きてきたのではないかと推察しますが荘園制度の当時の問題点などその辺のところを詳しく教えていただければ幸いです。どうぞよろしくお願い致します.

ゲンボー先生

金谷様。メールをありがとうございます。

荘園制度は形を変えながらも応仁の乱以後も続きます。事実上荘園が消滅するのは戦国大名が出現してからになります。8世紀に発生し16世紀までの、実に900年間の長きにわたって存在していました。つまり社会的、経済的に見ると、歴史時代の約半分は荘園制度ということになりますが、地域、年代によって形態が複雑に異なるために実体が一様ではありません。そのために難解で、研究が進んでいるようで進んでいないという分野なのです。鎌倉幕府を支える御家人体制が崩れるのは荘園制の行き詰まりというより、御家人自身の経済的破綻のほうが原因としては大きいかと思います。

つまり、大きな戦が無く「新恩給与」が極端にへったこと。にもかかわらず子供達への分割相続が続いたこと、そして元寇に対する多大な経費負担です。これに、北条氏(得宗家)による専制政治への不満や反発が加わったというわけです。

御家人というより、一般の武士にとっては一族繁栄のための領地があればいいわけで、それが鎌倉殿であろうと天皇であろうと、新田義貞であろうと、誰でもよかったのです。鎌倉幕府の創生期に多くの豪族が頼朝に従ったのは、このことが最も大きな要因と言ってもよいのです。その証拠に彼ら豪族のほとんどは板東平氏であり、頼朝の遺恨をはらすための「源平の戦い」などとは微塵も思っていません。

武士が頼朝に従った理由

1.三浦一族・上総の介など相模や上総の大豪族が頼朝麾下に入り、軍事的に優勢になったため。

2.私財を投げうって論功行賞をおこなった八幡太郎義家の直系であることに対する期待感。

の2点です。

頼朝はそのことを理解し、旗揚げの早くから論功行賞をおこなってきました。鎌倉政権ができて鎌倉殿と呼ばれるようになってからも、問注所でおこなわれる裁判には必ず関わり、公平で公正な裁きを目指したことも御家人の絶大な信頼を得る理由でもあります。

以後、その姿勢は北条氏が執権政治として受けつぐわけですが、冒頭にも書きましたように、政治の私物化が進み御家人からの信頼が失墜したわけです。

足利尊氏に比して新田義貞が御家人達に人気がなかったのはこの点にあります。後醍醐天皇のやり方に不満を持つ武士達の気持ちをいち早く察知し反旗を翻した尊氏は弟の直義とともに、武士による論功行賞をおこない御家人達の大きな信頼を勝ち取ります。一旦危うかった戦況が好転し、最後は勝者となった尊氏にくらべ、義貞は大局的な判断ができませんでした。このあたりは頼朝と義経の関係に似ていて非常に面白いところです。

ご質問とは関係のないことまで長々と書きました。荘園制度の崩壊ということより、御家人経済の逼迫ということが大きな要因であるということです。

次のご質問、当時の荘園制度の問題点ですが、冒頭に書きましたように地域、年代によって様相が異なるために一概に「こう」とは言い切れません。豪族達の所領も荘園ばかりではありません。国衙領もあれば、名田もあり、その地の歴史や政治的な要因も加わってかなり複雑です。

ただ、これらの御家人の所領で、相続による分割がおこなわれていたことは事実と言えます。元寇で有名な竹崎季長は一族から相手にされなかった、土地を持たない御家人です。彼は頑張って幕府に自分のてがらをアピールし領地を得ました。この時期には大変にめずらしいことです。ここで大切なのは季長が土地を持っていなかったということで、このような御家人には一般に「無足御家人」と呼ばれていました。そうした御家人が多かったと言うことです・・分割相続が進み、ついには庶子に所領も与えられなくなった御家人も現れたことを意味しています。しかしそれも、荘園や国衙領の形態が変わったというのではなく、荘園や国衙領内の地頭支配地内部の出来事なのです。

ご質問の回答になりましたでしょうか?

ゲンボー先生.早速のご回答メールを頂きありがとうございました。律令国家成立以来国家財政を支えてきた荘園制度、またその中で日本社会形成の原点をつくってきた荘園制度益々興味が沸いてきます。現在の国のそして社会の諸制度につながっているところが多々あるように思います。この視点からのご推奨の本をお教え頂くと幸甚の極みに存じます。

有難うございました。  金谷  拝


こんにちは、北部高校に通っているあさぎと申します。私は歴史が好きでいろいろと調べているのですが、「鎌倉時代の女性たちは誰にでも姿を見せていたのか」ということを疑問に思いメールをさせていただきました。平安時代の高貴な女性は、親兄弟や夫などごく身近な男性にしか自分の姿を見せていなかったといいますが、それは鎌倉時代も同じだったのでしょうか?

仮に貴族の女性はそうだったにしても、武家の女性はどうだったのでしょう?やはり貴族ではないから、とくに気にすることなく男性に自分の姿を見せていたのでしょうか。北条政子は御家人たちの前で大演説を行っているので、そうだったのかなとも思うのですが、それは政子さんが尼となってからのことだと記憶しているのでよくわかりません。尼となった女性も身近な男性にしか自分の姿を見せなかった、としたらまた話は変わってくるのですがどうなのでしょうか?

少し変わった質問かもしれないので、先生のわかる範囲でお教えいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

ゲンボー先生

あさぎさん、メールをありがとう。

日本の女性が男性の後ろを歩くようになったのは江戸時代になってからです。昔の女性はゆかしかった・・などというのは歴史を知らない人の言葉です・・(笑)

古くは万葉時代の額田王(ぬかだのおおきみ)・・・「あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」(紫の咲く野原を、狩り場を行くあなたは私に服の袖を振っていましたが、誰かが見ているじゃありませんか、お馬鹿ねえ・・)という意味ですが、額田王はこのとき人妻です・・あいては大海人皇子・・つまり天武天皇・・このころは二人とも熟年にさしかかっているのでおふざけ半分ですが、女性から男性に積極的にアプローチする時代でもあったわけです。推古天皇・持統天皇・皇極天皇などなど・・女性の天皇もごく普通にいました・・・

平安時代の貴族の女性は庶民には顔や姿を見せなかった・・これは女性だからというのではなく、身分が違うことのほうが大きいですね。平安時代は婿入り婚といって、男性が女性の家に転がり込んで面倒を見てもらうというイイ時代です・・(笑).男性は複数の家を回って「ここぞ」というところに落ち着くというわけです。「この世をば我が世とぞ思う〜」なんていう「ものスゴイ」和歌を作ったあの「藤原道長」もそうでした・・男性の方も家柄が合わなかったり、居心地が悪いとさっさと他へいっちゃうし、女性だって「こいつはダメ男ちゃんね」と思えば追い出すし・・まあ、見た目のゆかしさはあっても、現代女性も真っ青のおねーちゃん達だったのです・・面白いでしょ・・・

貴族達が血眼になって「恋の歌」だの「お忍び」なんかをやっているのは、軟弱なんだからではなく、生きていく上で相手選びがすごく大切だったからなのです。源氏物語はその極地をあらわしています・・・ようするに男女間の関係が今とは全くちがった感覚だったということです。

鎌倉時代の武士の法律「御成敗式目」には男女の同権が当たり前のように書かれています。女性の地頭や戦争で闘う女性もいたのです・・

後の時代ですが、安土桃山時代に日本を訪れたルイス・フロイスは「日本では夫婦の間でも金の貸し借りには証文をとっている」とか「若い女性が夜に帰ってこなくても親が怒らない」とか「女性も男性と同じように財産を持っている」とか面白いことをたくさん本に書いています。

女性が男性より低く見られ、権利もせばめられたのはすべて徳川幕府の封建社会秩序維持のための政策が原因です。将軍を頂点として大名、家来、士農工商、家の中も家長以下長男、次男・・・とすべてに身分差をつける上で、女性を男性より下に置く必要があったのです。

そして、その影響は今日にまでも続いています・・・でも君たち世代はちがうよね・・どう見ても女の子の方が強い・・(笑)

質問の件ですが、もちろん鎌倉時代の女性は堂々と歩いていましたよ。なかでも北条政子は頼朝が側室を持つことを許さず、亀の前というかわいこちゃんの家をぶっこわさせているくらいです・・鎌倉殿といわれ、板東武者の頂点に立つ頼朝も政子だけには頭が上がらなかった・・(笑)

もちろん、君が書いているように、一般庶民の前に姿を現すことはなかった・・それは最初に述べたように身分差からくるものです・・どうですか?君の感想を聞かせてください。

ゲンボー先生


山梨県の教員をしている宮本です。

元寇の戦いをいろいろな視点から,子どもたちと考えていきたいのですが,武士でなかった人たち(農民など)がどんなふうにかかわったか,がわかる資料が少しでもあったらと思います。何か,あるでしょうか。又,具体的には,農民たちはどのように元寇の戦いにかかわっていたのでしょうか。

ゲンボー先生

宮本先生,メールをありがとうございます。

元寇に関わる農民のことは記録に出ていないために今ひとつはっきりしない部分があります。しかし、領主である武士が労力や出費をしているわけですから、当然なんらかの影響はあったと考えるのが自然です。当時は農民といっても郎党や所従や下人として、主人に従って戦闘に加わっています。自作農は郎党ですからよろい甲に身をまとって馬に乗って戦に参加をします。小作農や従者は裸足で胴巻きをつけ、戦に参加するものや主人の身の回りの世話をしました。

また、博多をはじめとして元軍に襲われたところでは都市住民や農民に大きな被害が出ています。彼らは戦闘員でないだけに悲惨でした。

壱岐・対馬では生け捕りにされた住民の手に穴を開け、そこに縄を通して船の側面にならべたと書かれています。これは日本の武士からの攻撃に躊躇を与えるためです。博多は火の海となり逃げまどう住民がたくさん殺されたと記録にあります。

もう一つ文永の役の後「要害石築地役」(ようがいいしついじやく)が御家人、非御家人を問わず全ての領主に義務つけられました。

それによると田一反につき一寸、一町につき一尺分の石築地を負担しなければならないというものでした。これはたとえば100町の田地を持つ領主ならば百尺つまり三〇メートル分の長さを負担しなくてはならないと言うことです。本来は個々に領内の農民らをつれて現地におもむき石を運ばせ積ませたものですが、後には費用だけを納めて工事を請け負わせていました。近隣の領主達はおそらく安くあげるために領民を使ったことでしょう。また北九州、山口県の沿岸地域の漁民や農民は仕事として報酬を得て働いた者も数多くいたと考えられます。「要害石築地役」の義務は幕府がほろびるまで続きました。

ご存じのように元寇のばあい論功行賞するにも相手が国外なので領地を分配することができず、多くの武士はその働きに応じた恩賞が貰えませんでした。さらに相続のための領地の分割が進んだため、御家人の生活は逼迫し土地を担保に借金する者まで現れました。幕府の根本は御家人制度です。これが崩れると言うことは幕府の基盤が揺らぐことになります。悪評高い永仁の徳政令はこうした御家人救済のための苦肉の策として出されました。

これ以外には主に九州の御家人に対し「異敵警固役」が任命され、彼らの負担は一層苦しいものになりました。領主の生活が苦しくなれば当然、年貢ははね上がりその影響は農民にまで及んだことでしょう・・・このように、元寇は直接・間接を問わず、武士だけではなく一般都市住民や農民にも大きな影響を与えたものでした。

お役に立てたでしょうか?

ゲンボー先生

宮本先生

早速のお返事ありがとうございました。こんなに早く教えていただけるとは思っていませんでしたので,大変うれしく思いました。子どもたちも,農民のことが気にかかっているようでしたので学習が深まると思います。また,子どもたちも何か質問させていただくかもしれませんがよろしくお願い致します。


はじめまして,静岡県在住の頴川と申します。

先生のホ−ムペ−ジをみて、あつかましくもMailいたします。ご教示いただけたら幸甚です。

といいますのも、NHKで義経さんをみて、ふとおもったんですが、木曾義仲を打ち滅ぼす前後、あるいは、衣川で、西の方にいってしまわれるまで彼はどうやって経済、家計のやりくりをしていたんでしょう。

小生が調べたかぎりでは、最後まで所領はおろか、決まったサラリ−を受け取った形跡がないのです。神経衰弱になりそうな人間模様のなか、いちいち、お金やら、なにやら、頼朝さんのところにもらいにいったのかしら。それとも、生涯ただ働きだったとか。

ゲンボー先生

頴川様 

メールをありがとうございました。義経は頼朝の弟ですがあくまでも御家人の一人です。御家人である限り領地を安堵、あるいは給与されます。奥州から来たばかりの義経は居候状態ですが、義仲・平家との戦では論功行賞がなされ、平家没官領24カ所を給与されています。 義経が給与された荘園としては、平信兼の所領であった「伊勢国一志郡須可庄」が知られています。

文治元年には義経と行家は後白河法皇にせまり九州・四国諸国の兵糧米徴収権と荘園・公領の沙汰権・国衙組織の支配権を内容とする四国・九州地頭職をに任命されたことがあります。この時行家が四国、義経は九州地頭職になっています。

この後、頼朝に反旗を翻したために、義経の領地24カ所は全て取り上げられました。文字通り「無一物」になって義経の逃避行が始まったわけです。

「サラリー」や「ただ働き」ではなかったということです・・・(笑)

ちなみ大河ドラマは面白くて私も見ていますが、史実ではないことや、鎌倉時代にはなかったものが出てきて、オヤオヤと思うことがあります。あれは歌舞伎の延長線上にあるドラマですからそのつもりで見てくださいね・・・ということを日本中の人に言いたい・・・(笑)

ゲンボー先生


千葉県山武郡成東町在住の戸村です.素晴らしいHPで感服いたしました。じっくり勉強させていただきます。

ところで、頼朝が安房−上総−下総を行脚して旗揚げして行った経路ですが史実としての証拠は定かではないのですが、

当地(千葉県山武郡成東町)には、幾つかの伝説が残っています。

1.白幡八幡神社八幡宮(八幡様)

2.頼朝と房総との関係

これらの件は文献ではどうなっているのでしょうか?

ゲンボー先生

戸村様、メールをありがとうございました。

お尋ねの件ですが安房に渡ってからの頼朝は 一度だけ長狭六郎常伴という人物に命をねらわれましたが、三浦氏・安西氏の警護もあって比較的安全に過ごすことができたようです。 安房滞在は8月29日から9月12日までの13日間でした、吾妻鑑にはその間に頼朝が洲崎明神に参ったり、丸の御厨を巡見したことを記しています。頼朝はこの間に千葉氏ならびに上総氏に対して参軍の要請をしています。この期間はその返事待ちの期間でもあるわけです。

9月13日頼朝軍300騎は下総に向けて進軍します。同日、いち早く頼朝麾下に入る旨をあらわした、千葉介常胤の子胤頼、甥の成胤らが下総国目代をおそい殺害しています。(市川市国府台?)

14日に千葉介常胤孫の成胤の軍勢は千田の庄(多古町)判官代千田親政を生け捕りにしています。

15日の記録は信濃の動向を伝えているだけで、千葉氏ならびに頼朝一行のことには触れていません。

16日は無し、

17日には 千葉の介常胤の子太郎胤正,次郎師常らが下総国府(市川)に参集、頼朝と謁見しています。

こうしてみると、頼朝軍の足取りというのは吾妻鑑にははっきりと書かれてはいません。下総の豪族千葉氏の軍勢は頼朝軍を迎えるためにおそらくは八街方面からやってきた思われます。 当然頼朝一行もそれに合わせたルートを通ると思いますから、15日あたりに成東にいても不思議ではありません。 頼朝らが富津、木更津などの湾岸を進まなかったのは、そのルート上にいた上総の介広常を警戒してのことだと思われます。

言い伝えには富津、君津、袖ヶ浦方面を通ったというのもありますが、やはりこのルートは危険が大きすぎると思います。と言いながらも私のページの地図があたかも湾岸ルートのようになっているので、いきさつの一部手直しとともに書き直しました。戸村様のお陰です、ありがとうございました。

お住まいの地方には言い伝えではなく、頼朝通過の証拠になるものはあるのでしょうか?

ゲンボー先生

早速にもご丁寧なる返信、恐縮致しております。有難うございました。

‘言い伝え’と‘証拠’の厳密な違いが定かではないのですが

以下のような傍証が残っています。

1.上総国山辺郡白旗村字本郷(現、千葉県山武郡成東町白旗824)

  白旗八幡神社に伝わる次の行事と社記

  .イザリバタによる白旗の機織行事

  .お竹取り;徳川家康が頼朝の故事に感動して東金御殿の竹を旗竿として献上

  .建久七年九月 頼朝の対八幡宮へのお礼参り

   (代参者;曲田道行、内山善久、原善正、田中道本)

2.千葉県山武郡成東町成東3419

  成東八幡神社に伝わる社記

  “養和元辛丑年頼朝当社に参篭、

   このとき千葉五ケ国の諸士望陀郡に頼朝を迎え、

   翌十五日当社神主を召して太平の御酒宴を開く”

千葉県山武郡成東町 戸村


尾崎と申します.楽しく読ませて頂きました

確か高麗軍は幕府軍にメタメタにやられフビライに泣きついた資料があったかと(2度とも)思うのですが 台風の為に助かったのではなく どうにも攻めても攻略できず 仕方なく沖に停泊していたところ嵐に襲われた・・と 日本側の資料ではなく朝鮮の資料で見ましたが いかがでしょう?

ゲンボー先生

メールをありがとうございます。 元寇に関する第1級の資料は「八幡愚童記」「高麗史」「竹崎季長絵詞」と言われています。ところが、どこの国の記録もそうですが、自分たちにとって都合良く書かれている部分があるので100%信じるわけにはいきません。そこで、学者はそうしたことを加味しながら事実を読みとっていこうと努力しています。

今日の最も新しい説では第一回目の文永の役では、元軍は威嚇という目的を果たしての帰路で嵐に遭っているようです。「八幡愚童記」を読む限り、文永の役でメタメタにやられていたのは日本の武士達です。ところが朝起きてみたら敵が消えていた・・と書かれていますから、これは真実だと思われます。

高麗としては日本との戦で得るものはなにもなく、出費や人的な損害が出るばかりですので、フビライに対して悲観的な報告をおこなっていました。しかし、正式な使節を斬首した日本に対するフビライの怒りは強く、高麗王の泣き言は一蹴されてしまいました。それで第2ラウンドがあったというわけです。

弘安の役では日本軍は善戦しています。長期戦に持ち込めば補給のつきやすい日本側に有利ですから、おそらくそのままでも勝っていたと思います。しかし、嵐がきて結論は早く出ました。日本は3回目もあると準備していましたが、元側の状況によって日本遠征は中止されました。

しかし、ホームページにも書いたように御家人の出費はかさみ、間接的に幕府崩壊の道に拍車をかけた結果となりました。

ゲンボー先生


今日は北原です、私は歴史ファンです。特に中世に興味があります。戦後まもない頃、鎌倉でたくさんの遺骨が発見されたという話を本で読んだ事があります。

鎌倉幕府滅亡の戦乱の犠牲者の骨が1000体あまり見つかったという話でした。まだ、鎌倉の地中にはそのたくさんその骨があるらしいとも書いてありました。私はこれにとても興味をもってしまいました。もし、調べたら色々な事が発見されるとおもいます。

現在鎌倉の発掘とそういう研究はどの位されているのですか?よろしく

ゲンボー先生

メールをありがとうございます。由比ヶ浜は多数の人骨が発見されたので有名な場所です.

ただし、それらの人骨が戦乱の犠牲者かというとそうでもありません。刀傷が残っていたり斬首されたと思われる人骨が極めて少ないからです。

どちらかというと、普通に死んだ人という感じです・・この時代には庶民のお墓がありませんので、亡くなったら河原や道端あるいは浜辺に捨てておかれました。それでは臭うし見た目もすさまじいので穴を掘って放り込んだという感じのものが多いと思います。

ただし、別の場所から刀瘡の残る頭蓋骨がまとまって発見されていますので、これらは記述から新田義貞の鎌倉責めと関係がありそうです。

外傷の見あたらない人骨については、自然死か何らかの災害による死かは判明しません。

鎌倉市内での発掘はマンション建設や道路の拡幅などによるものがほとんどで、学術的な発掘はごく限られた数になります。人骨の出る可能性の高い由比ヶ浜近辺での発掘は周囲に塀を作って一般人にはなかなか見えないようになっています。

700年もたてば幽霊も出ないと思うのですが・・・・笑

ゲンボー先生


雪と申します。学生では無いのですが、現在とても興味があることなので質問させて下さい。

源平の合戦では戦局に大きく関わったであろう『熊野』と、『湛増』のことについてです。沢山の疑問が有って申し訳ないのですが、熊野の資料があまり見つからないので、よろしくお願いします。

1.まず、熊野には熊野三山を治める別当が居ましたが、別当とはどんな仕事をしていて、熊野の機構・内情はどんな感じのものだったのでしょう。三山が別当の元でどのようにまとめられていたのか、源平との繋がりや、他の諸国との関係なども出来たら教えて下さい。

2.熊野の力は、平氏・源氏双方から欲されていますが、立場的に同等であったのか、それとも「どちらかに従わなければならない」という、下位の立場だったのでしょうか?朝廷との繋がりも有ったということなので、私としては割と優位で、”一目置かれている”といった風に感じているのですが……。

3.熊野でも交易が盛んだったようですし、三山へのお布施などもありましたし、そういう点ではかなりの財力を持っていたと考えています。実質はどうだったのでしょう?

4.それから、当時別当と紀伊の国守との関係はどういうものだったのでしょうか。上下関係というか力関係みたいなものが気になります。紀伊の中の”熊野”でも、国主が別当を無視して水軍を動かしたりは出来なかったのですか?また具体的に、湛増が別当をしていた頃の国守は何という人ですか?

5.次に以前の質問にもありました水軍のことで、もう少し詳しいお話しを聞かせて下さい。熊野の水軍が朝廷に献上する税(贅)というのは、水軍から直接朝廷にではなく、水軍→別当(統治者)→朝廷という流れで納められていたのでしょうか?そして、やはり時として(通行料が足りない時など)暴力や略奪を行う海賊に変身したのですか?

6.最後の質問は、湛増周辺の人物関係についてです。湛増も藤原氏の家系ですが、別当家と奥州藤原氏とは何か繋がりがあったのでしょうか。単に姓が同じだけですか?また、彼は弁慶の父とされていますが、では湛増の妻(弁慶の母)は誰なのでしょう。

長くなってしまって本当にすみません。熊野と湛増関連のことがわかる書籍などご存知でしたら、自分でも調べてみますので、どうぞ教えて下さい。では、失礼致します。

ゲンボー先生

雪様・メールをありがとうございます。調査で石川県に行っていたため返事が遅れました。

熊野水軍は当時としては最も大きな水軍といわれています。もっとも水軍といっても生粋の海軍力ではなく、熊野地方の農民・木こり・漁民、そして修験者をはじめとする寺社を統括する「別当」の支配下におかれている漁民の集団です。当時の武士というのは開拓農場主・牧場主・網元などが武装したもので、同じような神奈川の三浦水軍も半農半漁の民をまとめた豪族といえます。

地図を見てもわかるように熊野地方は、水田耕作が盛んなところではありません。したがって林業や漁業に依存ずる経済形体であったと思われます。日常的には漁民ですが、他の漁民集団との漁場争いのときなどに備えて武装していました。また当時としては比較的容易に航行できる日本海航路とは異なり、海流の動きの激しい太平洋側での水先案内、運搬・護衛も行っていたと考えられます。

1.別当は本来、本宮以外に職を持つ神官のことをさし、大別当・少別当・権別当などがあり、検校の下位におかれました。五位に準ずる位をもらっていましたから昇殿は許されませんでしたが、地方においてはかなり高位になります。ところが熊野においては新宮・本宮・那智社を支配する別当が実質的な支配者となり、強力な軍事集団を築き上げました。特に湛増は源平争乱時の別当であったため、実際に壇ノ浦で源氏側について戦功を上げたため勇名を残すことになりました。

2.そのとおりです。最大の水軍として一目置かれていました。しかも吉野・熊野は比較的京や南都に近くありながら、山深く、軍事的にも攻めにくく守りやすい土地柄です。その上水軍を持っているとなると、海辺からの攻撃や逃亡に大変に便利です。

衣笠城を攻められた三浦氏の大部分が船で安房に逃げたのはその好例と言えます。古くは大海人皇子が潜伏し、新しくは後醍醐帝が南朝をおいた例がそのことを裏付けているとも言えます。熊野はその吉野の後衛です。こうした理由からも時の為政者が吉野熊野を特別視していたわけです。

3.交易はもちろん、朝廷の庇護もありかなりの財力を持っていました。また記録にありませんが、鎌倉時代の中期〜後期には木を南宋に輸出していたとも考えられます。当時の日本の最大の輸出品が木材なのはあまり知られていないところですね・・・実際には南宋はものすごい木材不足で棺桶を作ることすら困難であったと記録に残されています。

4.安元元年(1175)に平頼盛が紀伊国知行国主になっています。 頼盛は清盛の弟ですから、このことからも平氏が熊野を重要視していたことが分かりますね。しかし、実質的な支配者は湛増であり、平氏は湛増や熊野水軍を平氏側に取り込みたかったのです。

水軍は湛増が差配するわけで、決して国主や国司の命で動くものではありません。当時の組織はそれぞれの独立性が強く、武士集団(水軍も同じく)では棟梁以外の命令は届きません。

5.贄の献上は直接朝廷や領家に送られたものと思われます。その実質的な統括者が別当です。水軍の日常は漁師であったり、水先案内だったり、運搬業者であるわけで、彼らの利権が侵されるときには武力によって解決されたと思われます。

逆に言えば湛増支配下にいれば集団的な安全保障がなされたわけです。 しかし、基本的には話し合いで解決したでしょうね。

6.奥州藤原氏と藤原氏は無関係です。 湛増の家系は藤原師尹流(小一条流)と言われ、その子孫は熊野別当家として繁栄します。

弁慶の母は弁吉という紀伊田辺の人といわれていますが、弁慶が湛増の息子というのと同様に伝説ですので本当のところはわかりません。

ゲンボー先生


ゲンボー先生へ

はじめまして。大学1年生の泉と申します。鎌倉時代の上級武士(北条氏、三浦氏、足利氏など)についての質問です。

1、名前について

他の人の質問で「名前の呼び方」を読んだのですが、北条義時の場合、家族間では「義時」とは呼ばないと書いてあったのですが、父親(または母親)は目上の人に当たらないのですか?目上の人とは“身分的に”目上と言うことなんですか?また、知人・友人間で「太郎」「次郎」が複数いることもあると思うのですが、その場合どうやって呼び分けていたのですか?それと、元服する前は「幼名」が通り名になるんですか?

女子の場合も成人したあとに実名が付くと思いますが、男子の「太郎」のような通り名はないんですよね。だったら成人した女子は名(諱)で呼ばれるのですか?それとも通り名があるのでしょうか。通り名と実名は別々にあるんですか?女子の成人式はなんていうのでしょう。武家の娘も裳着というのでしょうか?

男子の通称「太郎」「次郎」は、年の順につけるつけるのが一般的だと思うのですが、(嫡子、庶子ということを除いて)曾我兄弟のように、兄が「十郎」弟が「五郎」となるのは何故ですか?足利氏が、嫡男で跡取りでも「三郎」とつけていたのはどうしてですか?

2,その他

食事は今のように家族で1つの部屋に集まって食べるのですか?それとも自分の部屋で摂るのですか?11時に食べるのが朝食で、16時に食べるのが夕食になるんですよね。間食のことはなんていうのですか?「おやつ」と呼ばれるのは江戸時代だと思うのですが…

寝具は畳がベッド代わりだそうですが、当時の天皇が使っていたような「御帳台」を上級武士も使っていたのですか?それともただ畳を敷いただけですか?

それから、枕はどういうのを使っていたのでしょう?大人と子供、男性・女性で違ったんですか?夫に先立たれた妻は、必ず出家しなければいけないんですか?

当時の甘味(お菓子?)はどんなものがあるのでしょう。お団子なんかはあったんですか?

質問が多くてすいません。よろしくお願いします。

ゲンボー先生

いずみさん、 メールをありがとうございます。

1.「何々〜の太郎」と読んでいました・・・例えば北条の四郎(時政)・江間の小四郎(義時)ですね。家族内では太郎・次郎・・です。通常元服するまでは幼名で呼ばれています。元服といっても平安時代から鎌倉時代の平均的な元服の年齢は13歳ですから、ほとんど子供から一気に大人になるという感じです。

目上というのは通常官位でのことで、親子はこれにあてはまりません。ただし、父親には諱(いみな)を使ったかもしれません。女性は着裳の時に諱が送られました。〜子がそれです。つまり北条政子の政子です。彼女の幼名はわかりません。当時は男尊女卑ではありませんが記録上は女(娘)と書かれるのが通常です。記録のことを書きましたが吾妻鑑をみるとおり位の高い人は記録上実名で書かれることはなく、その時の立場や官位によってその人をあらわしました。頼朝は「武衛」「佐」「右大将家」「二品」「前右大将家」。北条政子は「御台所」「二品」「二位尼」です。その他女性で「〜前」「〜御前」「〜局」など立場をあらわした呼ばれ方もありました。

2.食事のとりかたは身分によって異なりますが、この時代は銘々膳ですので、一家揃って団らんの場ではありません。通常武家の場合は主人と惣領がともに食事をとります。その他は一つ部屋で銘々膳で食べたと思われます。「ちゃぶだい」のように一家揃って食事をする風習が広まるのは大正・昭和の時代になってからです。

・昼食は駄餉とか昼駄餉(ひるだしょう)と呼ばれていました。

・御帳台は天皇や高位の貴族の寝台ですから、武士は使っていません。鎌倉時代も後期になると寝所に畳を敷き詰めるようになったようですが、本格的になるのは室町期からです。つまり多くの武士達は板の間に畳をおいてその上で寝ていたと思われます。まくらの形は絵で見る限り庶民は穀物を入れた「袋まくら」,僧や武士は四角い形をした「くくり枕」です.くくり枕とは袋まくらの両端を布や木でくくったもので,見た目は四角柱をしています.

・たまたま記録に残るような高位の女性が出家したからみんな尼さんになったように思われますが、庶民はそのようなことはありません。それでは尼さんだらけになっちゃう・・・(笑)

・甘みは果物・干菓子(ドライフルーツ・柿など)や。甘葛(あまかずら)からとった甘味料が中心です。もちろんお菓子もありました。おもに貴族階級が食べていたものや禅宗のお寺などから普及したもので、揚げ菓子のようなものが多かったようです。お団子はこの時代にあったかどうか謎ですが、十字(むしもち)と呼ばれる「おまんじゅう」のようなものはあったようです。

ちなみにお団子のもとのような丸いお菓子が入ってきたのは奈良時代・・それを串に刺したのはもっとあとかと思います。よく縄文時代にあったと書かれていますが、今日のお団子のルーツではありません。

面白い質問でした。解明されていないこともあって曖昧な説明部分があることを許してくださいね・・・泉さんは史学専攻ですか?

ゲンボー先生


いずみと申します。

質問にお答えいただきありがとうございました。またお礼のお返事が遅れましたことをお詫びいたします。

何度も申し訳ないのですが、下記の質問にもお答えいただけると嬉しいのですが、お願いいたします。

男子の通称「太郎」「次郎」は、年の順につけるつけるのが一般的だと思うのですが、(嫡子、庶子ということを除いて)曾我兄弟のように、兄が「十郎」弟が「五郎」となるのは何故ですか?足利氏が、嫡男で跡取りでも「三郎」とつけていたのはどうしてですか?お忙しい中すみません。それと、私は史学科ではないのですが歴史物が好きで、個人的に調べております。

ゲンボー先生

泉さん、メールをありがとう。

普通兄弟は太郎・次郎・三郎・四郎の順番でつけられ、これがかわることは滅多にありません。また名前も共通の一字を入れるのが常識なのですがこの兄弟に限って兄が十郎祐成・弟が五郎時致と大きく異なっています。一説によると父を亡くした兄弟のうち兄は祖父の養子となって元服したため、叔父九郎佑清の弟分として十郎に、弟は烏帽子親北條時政の息子四郎義時の弟分としての五郎になったとも言われています・・・兄の名前は伊東氏系らしく祐の字が使われていますが、弟の時の字は北条氏一族が使う時の字となっています・・・ ・・・曾我兄弟といえば仇討ち騒ぎもナゾだらけで・・単純な仇討ちとはいえないような状況です。モノの本ではクーデターだったとも書かれていますが、真相は歴史の闇の中です・・・

ゲンボー先生


薮越と申します.徳政令は、御家人が貸主であったり、買い取ったものは20年を過ぎていれば取り戻すことはできない。非御家人や民衆が買い取ったものはその年数にかかわらず、取り戻すことができる。とゆうところまではわかるのですが、なぜこの徳政令がかえって社会を混乱させたのか、なぜ鎌倉時代は相次いで新しい仏教が起こったのか。その二つを教えてください。

ゲンボー先生

藪越さん

メールをありがとうございました。

1.武士は貸し主ではなく「借り主」・・つまり借金する方です。武士は相続で領地が狭くなったり、貨幣経済が浸透したために消費が増えました。一方米を中心とする農産物からの年貢は急に増えるわけではありません。ですから鎌倉時代の中期から後期にかけて木材の切り出しや、製鉄、漆器など地方独特の産業が生まれました。才覚のある武士はこうした産業を振興しています。・・・と書くと教科書にある「江戸時代」の記述にそっくりですね・・(笑)庶民レベルで産業が発達しはじめたのが鎌倉時代で江戸時代はその延長線上にあるものなのです。

こうした才覚があったり条件の良かった武士を除いて、大部分の武士の生活は苦しくなりました。そこに追い打ちをかけるように「元寇」があったのです。日本は元に勝ちましたが恩賞はほとんどありません・・・これが借金の大きな原因になります。借金の形は「土地」です。武士にとっての生活基盤は土地です。もともと親から相続を受けられなかった子供が増えており、土地を持たない「無足御家人」が急速に増加しました。更に惣領すら相続が危うくなった状況で幕府は危機感を持ったわけです。御家人の生活が不安定になることは幕府の体制そのものが危うくなるからです。

そこで出されたのが「徳政令」というわけで、御家人の場合借金から20年以内ならば無条件に土地の返還と借金の無効が行われました。

ところが永仁の徳政令は御家人救済のために出された法律だったのですが、御家人の関与していない質券・売買地にも法の効力が及んでしまいました。その影響はすぐに現れ「無条件返済忌避」のための「担保状」が急速に広がっていきました。

金を貸す側からすれば徳政令は「悪政令」に他ならず、前述の担保状のように防衛策をとりました。しかし、御家人に関して言うならば庇護者である幕府の存在が大きいために、用心をした酒屋や土倉が御家人には金を貸さないようになったのです。一時息をつないだ御家人でしたが経済基盤の改善はなされないまま、今度は借金すらできなくなったというわけです。御家人の困窮は社会の不安定要因として大きく存在し続けていったわけです。

1333年にあっけなく北条氏が滅ぼされたのは、多くの御家人が幕府の政治(つまり北条氏のやりかた)に不満を持っていたためと、政権がかわることによって新恩給与がなされるとの期待感があったからなのです。更に言うならば「建武親政」があっというまに挫折したのは朝廷の恩賞が武士に及ばなかったからで、それを読み取った足利尊氏・直義兄弟の先見が足利幕府を作った大きな要因となります。

2.新しい仏教が次々に生まれたのは鎌倉時代が庶民の時代の始まりであったからです。庶民の代表は武士であり商人でした。この後の時代になると武士は支配者となりますが、鎌倉時代の武士は開拓農民だったり、地主だったり、網元というわけですからほとんどは庶民側の存在でした。

鎌倉時代になるとこうした武士が原動力となって農業生産も増加し、それにともない商品経済の発達、交通網の発達が加速しました。こうしたことが下地となって仏教が庶民レベルにまで広まっていったのです。

つまり、受け入れ側の民衆の力がついてきたということですね。

次ぎに社会状況があります。当時、庶民が死ぬと河原にすてられたり、穴を掘って埋められる程度で墓標はありません。病気や怪我で死ぬ確率は現在の比ではなく、平均寿命は高めにみても45〜6歳です。また、武士に限って言えば戦が増え戦死する者も多く、人々にとって「死」は常に生活の側にあったものなのです。ところが、当時大部分の人にとっての宗教とは「神道」であり、お寺や仏像は「神道」の一環でしかありませんでした。

そうした状況の中で、死を真正面から見つめて「善を行うことを説いた」仏教が浄土宗や浄土真宗であったわけです。さらに、これに禅宗や時宗、それに日蓮宗などが加わりました。禅宗は庶民はもとより内面を深く見つめるということから、特に「武士」に受け入れられていったのです。

以上です

ゲンボー先生

 


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