玉川大学教育博物館 館蔵資料の紹介(デジタルアーカイブ)

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館蔵資料の紹介 1990年

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草書大辞典『草露貫珠』光圀刊 漠代以降明代に至る諸家法帖より集録

草書大辞典『草露貫珠』光圀刊 漠代以降明代に至る諸家法帖より集録

『草露貫珠』21巻、23冊(含目録)
中村立節撰
元禄9・佐佐宗淳序、徳川光圀刊、宝永2(1705)年刊
28.3×20.0cm
(左)全冊 (右)索引「子部の項」の一部

写真は徳川光圀が宝永2(1705)年に刊行した『草露貫珠(そうろかんしゅ)』という漢字草書字典です。光圀は「草字」(草書体)の「真字」(楷書体)を判ずることのむずかしさを思い、中村立節(りゅうせつ)に命じて本書を編輯させました。

光圀は少年の頃より筆墨に親しんでいましたので、書法への関心も深く、本書の必要性を強く感じていました。立節はもともと書法に精通しており、家には多くの法帖(ほうじょう)(習字の手本)を収蔵し、書に関する研究は深く、著書に「書法纂要」、「墨池妙訣」、「書法指南」などがあります。中村立節(立節は号)は本名を義竹といい、出雲の出身で、書をもって光圀に仕え、300石の禄を受けていた人物です。光圀の命を受けた彼は、漢代以降、明代に至る諸家の法帖(ほうじょう)を広範にわたって調べ、少しでも変異があるものはことごとく集録につとめました。しかし、残念ながら、彼はその編を終えずして死歿しましたので、彼の書法の門人である岡谷充之が後を継ぎ、8年がかりでやっと稿を完成させました。実に、真字6,070字、それらに対する草字は49,500余字にのぼっています。掲載の草字は、いずれも日本の能書家に影響を与え続けた後漠の張芝(ちょうし)、東晋の王羲之(おうぎし)、唐の欧陽訽(おうようじゅん)、李邕(りよう)、顔真卿(がんしんけい)など、漢魏以来の帝王人臣おおよそ740有余人の書から採収しています。

本書の索引法は普通の漢和字典のように、漢字書を用いた「部首索引」によっています。

岡谷充之は立節(りゅうせつ)の優秀な後継者で、この編輯の外に、光圀の命を受け、古人の筆法、書論を集めた「古今書纂要」6巻を撰しています。他に「道家秘要」16巻を著しています。

本書の序文は元禄9年に佐佐宗淳(ささむねきよ)が書き、その冒頭部分に草字の複雑さ難解さについて次のように記しています(原文は漢文)。

……草(そう)は則(すなわ)ち書家者流(しょかしゃりゅう)、競いて新奇を構え、変幻百出す。夫(そ)の怒猊渇驥(どけいかっき)の勢、游龍驚蛇(ゆうりゅうきょうだ)の態、謄蚊起鳳(とうこうきほう)の姿、奔雷墜石(ほんらいついせき)の状、博学精究に非(あらざ)るよりは、何ぞこれを識(し)ることを得ん。……

因みに、佐佐宗淳(宗淳は諱)は号を十竹、通称は介三郎といい、「水戸黄門漫遊記」の助さん(佐佐助三郎)のモデルだといわれています。彼は光圀に見い出されて彰考館の史臣となり、『大日本史』編纂のため、光圀の命をうけて史料の収集に奔走した人で、平常は温厚無口だが、学問のこととなると、談論風発、大いに盛りあがったということです。

「全人」1990年12月号(No.510)より

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