玉川大学教育博物館 館蔵資料の紹介(デジタルアーカイブ)

教育博物館では、近世・近代の日本教育史関係資料を主体とし、広く芸術資料、民俗資料、考古資料、シュヴァイツァー関係資料、玉川学園史及び創立者小原國芳関係資料などを収蔵しております。3万点以上におよぶ資料の中から、月刊誌「全人」にてご紹介した記事を掲載しています。
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館蔵資料の紹介 1995年

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日本の夏には欠かせない「団扇」と「扇」

日本の夏には欠かせない「団扇」と「扇」

(左)渋団扇(しぶうちわ)
(右)扇

団扇(うちわ)
団扇はうちはらう、また打羽の意。扇よりはるかに歴史が古く中国より伝えられた。
奈良時代には白団扇は無地、絵団扇は上等な絹張りで、主にあおいで涼をとったり蝿や蚊を追い払うのに使用され、渋団扇は丈夫な骨に紙を貼り柿渋を引いて頑丈にして、火勢を強めるためにあおいだりと、使用方法は現在とほぼ同じであった。
団扇は扇と違って折り畳むことができず、したがって携帯に不便で壊れやすく、扇に取って代わられた。しかし戦国時代の武将武田信玄が団扇を持つ姿は有名であるが、平安時代の末期からは軍勢の指揮に団扇が用いられるようになり、現在でも相撲の行司が軍配(軍配団扇)を使って勝者を示すのは当時の名残と思われる。
現存する団扇は、平成6年法隆寺昭和資材帳調査完成記念国宝法隆寺展で公開された。治暦5(1069)年仏師円快が彫刻し、絵師秦致貞(はたむねさだ)が彩色した聖徳太子座像(7歳像)の左手に団扇を持たせており、事実は以前からあったと思われるが、日本で初めて団扇を使用した人物は聖徳太子であると言える。

扇(おうぎ)(扇子)
平安時代は泰平が続き、貴族は服装にも温度や湿度の高い時期は通風がよく着心地のよいものを、そして立ち居振る舞いに優雅さを求めて日本的な束帯や直衣や十二単衣が発達した。それにともない装身具として平安貴族の趣味を反映した美しく装飾が施された扇が我が国で創始され、舞や儀式にも欠かせないものとなった。現在でも和服で正装する時に扇を持つのはこの名残と思われる。
扇の起源は笏(しゃく)からとする説、拍(はく)という楽器からとする説、翳(さしば)から生まれたとする説があり、折り畳み式の形態になったのは、蝙蝠(こうもり)の羽を真似てできた説が有力である。
古くは儀礼的に用いる檜や杉で作られた檜扇(ひふうぎ)(板扇)と、日常用いる紙製の紙扇(蝙蝠扇)(かわほりおうぎ)が代表される。紙扇は檜扇に比べ軽やかで、和紙の製紙技術と竹細工の発達により檜扇より紙扇が重宝され、平安時代の後期になると扇を使った「扇合」のような遊びが発達した。
室町時代になると京都を中心に多くの扇屋が現れ、江戸時代になると民間にも普及し、扇は末広と言われ繁栄を意味し、家紋等に取り入れられたり、投げて置物を落とす「投扇興」といった遊びも流行した。

近世になるとE・S・モースの膨大な日記の中に「団扇は顔をあおぐか日除けにするのに使われるが、日本では、火をおこすときにはふいごの役目をさせ、スープをさますのにも使い、舞子は扇で優雅なしぐさを演出する」とあり、日本の民具として団扇と扇がセイラム・ピーボディー博物館にモースコレクションとして、また、本館にも民俗資料として団扇と扇が収納されている。

「全人」1995年8月号(No.566)より

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