玉川学園中学年 6年生 社会科の学習 2006年版

目次

五輪塔ってなんですか? 切り通しはどうやってつくったのですか? 切り通しは7ケ所あるって聞いたのですが・・ 

まんだら堂に庶民は入れなかったのですか? 滑川で何を運んだのですか? 頼朝の墓にどうして島津家の家紋がついているのですか?   

なぜ切り通しは色々なタイプがあるのですか? 頼朝は誰から征夷大将軍の位をもらったのですか?


誰が書いているかを鉛筆アイコンの色で分けました.

みんなの質問  みんなのアドバイス  父母のアドバイス  葛西先生  ゲンボー先生  他校


釈迦堂の切り通しのごりんとうなどは、なんですか??榎組 由里菜 6.21

五輪塔(ごりんとう)ってなんだろう?わかる人がいたら教えてあげてください。ゲンボー先生 6.21

なぜ五重塔は五重じゃないといけないのですか?また一つ一つ意味があると聞きましたがどんな意味が込められているのですか?教えてください 榎組 優希 6.21

五輪塔は上から「空」「風」「火」「水」「地」の順番で宇宙を表しています。これを作って亡くなった人の霊を慰めているのです。榎組 レナミ 6.30

五重塔は、「供養するため」に作られました(今でいうと、お墓にまつってあるやつのようなもの?)。五つの石は下から「地」「水」「火」「風」「空」とそれぞれ意味があります。もっとくわしくしりたければ、情報の部屋(6年)のサイトのムービーに説明があります 椚組 麻衣 6.21

優希さん  五重塔ですか?五輪塔ですか?

五重塔はお寺にある塔のことで、三重の塔や七重の塔などいろいろなのがありますが、どれも原型はストゥーパというお釈迦様(おしゃかさま)の霊や骨を供養(くよう=霊をなだめる、あがめる)するために作られたもので、形は異なりますが仏教の国には必ずあるものです。日本の塔の場合は芯柱(しんばしら)のねもとにお釈迦様の骨「舎利」(しゃり)を容器に入れておくのが一般的です。お釈迦様の骨は死後に分けられたと言われています。)中には本物の舎利ではなく水晶のような宝石をかわりに入れてあるものもあります。

やがて、庶民のお墓にも木で作った簡単なストゥーパを立てるようになりました。それを卒塔婆(そとうば)と言います。お墓にお参りに行った人なら必ず見ている、と思います・・

まん中の石を積み上げているのが五輪塔、左側の木の板が卒塔婆

ということで、こんどは誰かが「五輪塔」について説明してください。

ゲンボー先生 6.22

 


あの、切り通しのことでちょっと思ったんですが、切り通しってどうやって作ったんですか?それと、切り通しをつくるためにどんな器具で作ったんですか?椚 麻衣 6.21

鈴木さん・・・これのことだよね・・・

それは

これで掘ったのです・・「鋤」(すき)という、今で言うスコップですね。全体は木で出来ています。しかし刃の部分(黒いところ)

だけは鉄です・・どうしてこの部分だけが鉄なのかわかるかな?

次に、想像してください・・あの切り通しをこの道具で掘っていったら何人ぐらいで、何日ぐらいでできるのか?

ゲンボー先生 6.21


切り通しは7つあるんですけど、名越え切り通しと、釈迦堂切り通しのほか、なんという切り通しがあるんですか???榎組 レナミ 7.1

極楽寺坂・大仏坂・化粧坂・亀ケ谷坂・巨福呂坂・朝比奈切り通し・名越坂だと思います。椚組 麻衣 7.1


まんだらどうには、武士は入れたけれど、農民は入れませんでした。それは、なぜですか? 榎組 愛奈 6.21

愛奈さん まんだら堂(曼荼羅堂)は武士の墓所でがけに掘られた四角い穴のことを「やぐら」といいます。やぐらの中には五輪塔を安置しますが、下に骨があるものとそうでないものがあります。曼荼羅堂の場合は多くの人骨が出てきました。そのほとんどは武士のものですが、彼らが戦で死んだのかどうかはわかりません。

江戸時代になるまで、庶民のお墓は「ない」と言った方がよいでしょう・・死んだ人は穴に埋められて石ころがおかれる程度です。土地の余裕がない都市では河原にすてたり、集団で穴の中に入れられました。「道に捨てられている死体はちゃんと穴をほってうめなさい」という「きまり」が出されるくらい、死人を目にすることはさほど珍しいことではなかったのです。

鎌倉の由比ヶ浜にはそうして集められて埋められた人々の骨がたくさん出てきます。先生のページにもくわしく出ているので見てください。

由比ヶ浜遺跡のページ

君たちは「お墓ぐらい」と思うでしょうが、穴をほったり墓石を置くにはお金がかかることなのです。ですから一定以上の人だけにお墓があったと思ってください。でも写真を見ればわかりますが、小さな子供をていねいに埋めたり、お金を持たせたりと・・親子の愛情を感じさせるものもあります・・・死に対する感じ方が今とは大きく違っていた時代ですが、肉親の愛情にはかわりがないということかな・・ゲンボー先生 6.22


滑川は、生活ではどのように使われていたんだろう?榎組 遼  6.21

私も滑川のことなんですが、滑川はものを運ぶためにあったけど、川まで運ぶのはどうやっていたんですか??榎組 亜璃紗 6.21

亜璃紗さん 滑川は見たとおり川幅もせまく水量の少ない川です。鶴岡八幡宮や将軍の御所を作るときに滑川を使って木を運んだと書いてありますが、それは水量の多い梅雨とか夏の時期のことで、おそらく「いかだ」を組んでひっぱったと考えられます。

和賀江島や材木座海岸に荷揚(にあげ)げされた、商品は一たん、川の近くにある倉庫のような建物に入れられました。そこから馬や人や船に乗せて鎌倉市中に運んだのです。材木の場合は貯木場(ちょぼくじょう=木を大きさや種類に分けて置いておくところ)においておきました、

日本の川は浅いので船底が平なのが普通です。鎌倉時代の絵を見ても川船はそこが平です。滑川を行き来していた船もそうしたものだったと思います。さて、どんなものなら船で運ぶ方が良かったでしょうね・・皆さんで考えてみてください。ゲンボー先生 6.22

私も同じなんですけど、木材のほかに、なにか運んでいたことは、あるんですか??榎組 レナミ 6.23

食べ物も運んでたんだと思います。榎組 理佐子 6.23

あと、衣類も運んでいたと思います。榎組 睦月 6.23

そうですね・・生活に必要なものを大量に運ぶときには船は便利です。他には何が考えられるでしょうか?滑川ではありませんが、浅い川で上流に木材を運ぶ時の様子を描いた絵を紹介します。滑川でもほとんどこのようにして運ばれたものと思います。

ゲンボー先生 6.23


頼朝の墓に、しまずの家紋があったのですが、なぜしまずの家紋があったのか、また頼朝としまずの関係はどうなっているのか。教えてください。榎組 睦月 6.23

     
  頼朝の墓前にある家紋(左)  ○に十字は島津家の家紋(右)

有馬さん・・良く気がつきました・・このことについて何かを知っている人、説明してあげてください。ゲンボー先生 6.23

江戸時代に、薩摩藩の「島津重豪」という藩主が、源氏の子孫だったので、五輪等の墓を立て直したときに自分の島津家の家紋を彫ったからです。椚組 悠梧 6.24

悠梧君.ありがとう!ではなぜ島津家は頼朝の墓に自分の家の紋をつけたんだろうね???また、本当の頼朝の墓はどこにあるんだろうか???ゲンボー先生 6.25

頼朝の墓の前にある「ささりんどう」という階段は、頼朝の亡くなった年と何か関係があるのですか。教えてください。榎組 悠大 6.26

悠大君 「ささりんどう=(笹竜胆)」は源氏の家紋ということで、お墓に登る階段の両脇に「ささりんどう」の紋がついている旗をたてているのです・・

しかし、頼朝の家系が「ささりんどう」の紋だったということはなく、実は江戸時代の歌舞伎で「武士の服に家紋がないのはおかしい」ということになって、役者の着る服に貴族の源氏がつけていた「ささりんどう」 の家紋をつけちゃったというわけなのです(笑)それ以後、ず〜〜〜〜と(源氏)=(笹竜胆)ということで、鎌倉市の市章も「ささりんどう」になっています・・・(微笑)

大切なこと

1.鎌倉時代の武士は「名前」や「名誉(めいよ)」をおもんじ、戦でも勇敢(ゆうかん)に戦いました。いくさでは「目立つ」ことが大切で派手な色の鎧(よろい)を身につけたり、自分の名前を連呼しながら戦いました・・ちいさな紋を服に付けるようになったのは、室町時代になってから「かっこよさ」でつけはじめたのが始まりです・・

頼朝さんのお墓にある二つの家紋、青丸が島津家家紋・赤丸が笹竜胆・・どちらも頼朝とは直接の関係はありません。つまり、これは本当のお墓ではなく、江戸時代に作られた「供養塔」(くようとう)なのです・・・では、頼朝のお墓はどこに?ゲンボー先生 6.27

「島津重豪」が源氏の子孫なのは源氏の家系を買ったからで、皆そのことを口に出さないだけで知っていたから「俺は、源氏だ!!」と証明するために立て直しました。

頼朝の本当の墓は色々な説があるけれど、最も有力なのはすぐ下の白旗神社にあるという説です。椚 悠梧 6.26


なぜ切り通しは色々なタイプがあるのですか?また切り通しは主に7本だったのでしょうか?教えて下さい 榎組 遼 6.26

 

遼くん 切り通しは山に囲まれた鎌倉に入るには必要なものでした。と、同時に敵から攻められにくいように「狭く」「深く」作られました。名越切り通しのように山の頂上を切りひらくようなタイプのものや、化粧坂切り通しのように片方が崖のところもありますから、形はそれぞれ異なっています。しかし、どちらも馬が2頭横には並べない広さです・・これが大切なことです。広いと意味がないからね・・

ところが釈迦堂切り通しは結構広い・・これは鎌倉市内の切り通しだったからです・・守ることより交通に「便利」を優先したからですね・・・ゲンボー先生 6.27

 

極楽時切り通し(左) 名越切り通し(中) 釈迦どう切り通し(右)


源頼朝は、誰から征夷大将軍の位を貰ったのですか?反対に 誰から征夷大将軍の位をあげたのですか? 榎組 優希 6.30

征夷大将軍は後白河法皇という人に貰いました。後白河法皇は保元の乱に出てきました。あの人が天皇から上皇へ、法皇となっていたのです。後白河法皇は力を持ち、朝廷が日本の王だから位を上げられるのです。

後白河法皇は義経をしたっていたが、兄の頼朝に何も言わずに高い位についたりした為、頼朝は怒り、朝廷から義経追討のめいを貰おうとし、頼朝は法皇を脅したとも考えられます。 樫組 健太郎 6.30

九北兼実じゃないんですか? 榎組 優希 7.1

九北兼実ってだれですか? 榎組 雅俊 7.3

征夷大将軍の話・・面白いですね・・

1.征夷大将軍ってなんだ?

2.なぜ頼朝は征夷大将軍になりたかったのか?

この二つが分かると、鎌倉(関東)に幕府を開いた理由が分かるよ!!!

また、誰が頼朝にあげたのか?そのいきさつが分かると・・・・はは〜〜〜〜ん・・と思えます。

ゲンボー先生 7.3

九北兼実は鎌倉初期に摂政、関白を務めた貴族で最初は頼朝の協力者でしたが後に二人は離れていきました

そのあと公卿の九条兼実が院の実権を握った人です 榎組 優希 7.3

たぶん、九条兼実だと思います。この人は摂政や関白になったひとです。藤原家の人で鎌倉幕府の協調に努力した人です。樫組 健太郎 7.4

1.征夷大将軍ってなんだ?・・・・・・一番えらい人で幕府を開く事ができる人です榎組 雅俊 7.3

2.なぜ頼朝は征夷大将軍になりたかったのか? 頼朝は、権力がほしかったから征夷大将軍になりたかったんじゃないんですか? 榎組 理佐子 7.4

皆さん正しいと思いますが、もう少しくわしく説明してください。 ゲンボー先生 7.4

征夷大将軍は元々平安時代に行われた蝦夷の征伐の最高司令官のことであった坂上田村麻呂や文室綿麻呂に大伴弟麻呂が征夷大将軍についた。頼朝がなってから武家政治を行い、とうりょうという意味にもなっていた。樫組 健太郎 7.4

 

 

    

段葛のなぞ 五輪塔と宝篋印塔 建長寺の柱 鶴岡八幡宮は町造りの中心 新田義貞の鎌倉ぜめ 

稲村ヶ崎の黒い砂 化粧坂の切り通し 釈迦堂の切り通し 天園コース展望台からのながめ 

政所(まんどころ)のあと 滑川   大江広元の墓 頼朝の墓 大御堂

名越切り通し  和賀江島
「鎌倉時代の勉強をしよう」はこちら.(いろんなことが分かるよ・・・)