中学生とゲンボー先生13
 
 
 
玉川学園・玉川大学


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はじめまして!ゲンボー先生。福島県会津若松市立第四中学校の紗花です。

早速ですが、私の質問に答えてください。なぜ、朝廷方は源氏が絶えたときを狙って、反乱を企てたのか。また、勝利した幕府が政権を維持するためにはどうしたらよいのか。

ゲンボー先生

紗花さん,メールをありがとう.

朝廷は実朝がされたことによって,御家人どうしの争いが起きると判断したのです.事実,北条氏対他の豪族との政権争いは起きましたが,昔に戻ってみじめな暮らしをする道は選びませんでした.つまり武士の地位を守ろうとしたのです.

 なかには朝廷軍についた者もいましたが,大半の武士は鎌倉側につきました.承久の乱に勝った鎌倉方は「将軍」は飾り物で,有力な御家人を中心に話し合いで政治を行う態勢をとりました.その中心が北条氏で代々執権の地位につきました.やがて他の有力御家人を倒した北条氏が事実上の支配者になり,法律や仕組みをととのえていきました.これが鎌倉幕府です.

参考:承久の乱はなぜおきたか?

参考:「変化する幕府の組織」

当時,力をつけてきた武士の支持を集めることが,武士政権を維持していく基盤でした.やがて北条氏ばかりが良い思いをするようになって幕府は滅びるのです.

いつの時代もその時代を代表する人々の支持がれれなければ崩壊すると言うことです.今なら,国民ですね.

ゲンボー先生


鳥栖中学校1年の西林といいます。冬休みの社会の宿題で一つ興味を持ったものを調べるようになっています。それで、私は元寇の時に作った『石塁』について調べることにしました。とても詳しく教えて下さい。

ゲンボー先生

メールをありがとう.

質問1 石塁は、誰が考えたのか?

幕府が出した命令ですから,当然幕府の人間です.個人名は分かりませんが執権をはじめとする高位の武士が考えたものです.

質問2 どうやって作ったのか?

石のあるところではそれを利用して積み上げました.しかしそうでないところもあるので,博多近辺では博多湾の石を船で運びました.ほかの地域も多分同じようにされたと思います.

質問3 作るのにどれぐらいの人がいたのか?

正確な数は記録にないので答えられませんが,あの距離を石を運び地面をならし,積み上げるには相当数の労働力が必要だったはずですね.しかも石塁建設は1332年まで続けられましたから大変な人数だったのでしょう.

質問4 作るのにどれくらいかかったのか?

建治2年3月から始められました.はじめは5ヶ月くらいで完成させるつもりでしたが,翌年の1月に一部が完成しました.石塁の建設は幕府が滅亡する前年まで続いたそうです.

建設の費用は御家人,非御家人をとわず全ての領主に各々の領地の広さに応じて割り当てられました.1反当たり1寸(10アールあたり約3.03センチ),1町あたり1尺(1ヘクタール当たり約30.3センチ)の石塁の工事分です.つまり100町の領主ならば30メートル分を作らなければならないということです.はじめは各地から人夫を連れてこさせて,実際の工事をさせたらしいのですが,大変なので相当する分をお金で払わせました.          

ゲンボー先生


文永の役での元軍と日本軍の武器のちがいや性能のちがいを詳しく教えてください。富大教育学部付属中学校 大津賀

ゲンボー先生

大津賀君.メールをありがとう.先生も冬休み中だったため返事が遅れました.

1.刀:中国式の青龍刀と日本刀の違いはまず切れ味です.日本刀は鋼を鍛造して何層にもなり,折れにくく曲ってもしばらくすると元に戻ります.切れ味もカミソリのようで,刀は明らかに日本刀の勝ち.

2.弓矢:元軍の弓は短弓といって馬上から打ちやすい形.しかも毒矢.日本のは長弓で馬上から打つには訓練を要する形.これは多分元軍の勝ち.

3.爆弾.「てっはう」(鉄砲)と書いてありますが,実際には導火線をつけて投げる形の爆弾.威力はさほどないが,爆発音がすごく馬が驚き人が振り落とされたりした.これは日本にないので元軍の勝ち.

元冦は日本人が異民族と戦う数少ない戦いでした.新しい武器や集団戦法は日本軍を大いに悩ませ,戦闘自体では圧倒的に元軍が優勢でした.

それなのに元軍が負けた理由は.

1.夜は船に戻ったこと.

2.そこをねらった日本側のゲリラ戦.

3,なんと言ってもこれ!「嵐」の襲来でした.

ドラマでは嵐がなかったみたいになっていますが,実際にはあったはずなのです.詳しくは先生のホームページをみて下さい.

ゲンボー先生


印旛中学校 立花

阿津賀志山の戦い(1189)について教えてください。お願いします。(立花)

ゲンボー先生

阿津賀志山は福島県と宮城県の県境に近い国見というところにあります.現在は厚樫山(あつがしやま)とよばれています. 阿津賀志山の戦いは奥州藤原氏との最初の合戦ですが,この合戦に大勝利したために一気に頼朝軍が奥州になだれ込み,藤原泰衡を滅ぼしました.

藤原氏は陸前の国(宮城県)に頼朝軍を入れないために阿津賀志山に大規模な砦を作り,2万の兵で頼朝軍を迎え撃ちました.砦の周りには2重の濠(ほり)が作られ阿武隈川の水が引き込まれていたと言いますから, 奥州軍の気構えが伝わってくるようですね.

ところが頼朝はこの地域にあらかじめスパイを送っていたので,どこから攻めれば良いかを知っていたのです.裏から回った部隊が陣地を混乱させている間にスキやクワをもった土木部隊が濠を壊し,そこを本隊が攻め込んでいきました.奥州軍はたちまち混乱し諸将は逃亡あるいは討ち取られてちりじりになってしまいました.これが8月10日のことで,戦闘が始まってわずか2日で阿津賀志山の砦はおちてしまいました.

阿津賀志山の合戦は頼朝軍と奥州軍の最初の合戦でしたが決戦にもなってしまったのです.その後,8月20日に頼朝軍は奥州藤原氏の本拠地である平泉に到着し,逃げた藤原泰衡は家来の河田次郎に殺されてしまいます.

国見には現在でも「史跡阿津賀志山防塁跡」が残っています.(ゲンボー先生)

鎌倉幕府には江戸幕府みたいに軍用金(御金蔵)があったのですか?(立花)

あったと思いますが,幕府そのものの組織が江戸幕府とは大きく異なっていますから,将軍の個人的なお金という形だったと思います.幕府という言い方は江戸時代後期の学者が勝手につけた名称ですから,そのことばに惑わされてはいけないのです.

実際の戦は将軍(鎌倉殿)の命令を受けたご家人が自分のお金で自分の家来を使って行いました.これが「奉公」です.鎌倉殿はその見返りとして,働きの内容に応じて領地を分け与えました.これが「ご恩」です.ですから幕府のお金は将軍に関わる経費のみなのだと解釈してください.(ゲンボー先生)

鎌倉時代にも貿易はあったのですか?あったとしたら主な都市はどこですか?(立花)

もちろんありました.これは先生のページにある「中世の町を歩く」に出ていますからこちらを見てください.博多が有名ですが青森県の十三湊(とさみなと)など「こんなところに?」と思うようなところにもあります.外国との貿易は中国や朝鮮が主でしたから外国貿易をする港は日本海側が多かったようです.鎌倉の和賀江や六浦へはそうした港からさらに日本人の商人の船に載せかえて運んだようです.(ゲンボー先生)

鎌倉幕府の総兵力はどれぐらいだったのですか?(立花)

ご家人の軍勢を全部あせてですが,実数はわかりません. 奥州藤原氏を攻めたときは30万人と書かれていますが,こういう記述は大げさに書くので何ともいえません.「承久の乱」以後の西国のご家人とその郎党,下人をあわせても総数で50万人いたかどうか?(ゲンボー先生)

なぜ、一体どうして豆粒みたいな山奥の砦にいた1000にも満たない楠木軍をわざわざ攻めに行ったのですか?(立花)

この質問は千早城に関係するものですね?楠木正成(くすのきまさしげ)という人物は現在の大阪府河内地方の武士ですが,ご家人ではありませんでした.「悪党」と呼ばれる在地の武士団の頭(かしら)でした.正成は優れた戦略家で幕府軍をさんざんに悩ませました.正成の奮闘ぶりを知った足利高氏(尊氏)は鎌倉幕府を見限ったのです.

質問の答えですが,敵方の武将をたおせば恩賞がもらえるのはこの時も同じです.朝廷側をうち破るためには敵を完全に制圧しなくてはなりません.だから千早城を攻めたのです.(ゲンボー先生)

鎌倉時代の船(特に軍船・商船)について教えてください。(立花)

商船には比較的大きな船が使われましたが,軍船は通常漁船程度の大きさでした.平家の軍船は大きかったのですが,これは高位の人が乗る船で戦闘する船ではありません.軍船も商船も日本の船は川にも入るので,底が平たい形のものが多かったと思います.

外国との貿易をする船は大型船で,これらの船の底は現在の船のようにキールという骨組構造で船底がとがっているものでした.(ゲンボー先生)

北条時行について教えてください。(立花)

北条高時の二男で相模二郎と呼ばれていました.鎌倉幕府滅亡の時に信濃(長野)に逃げ諏訪頼重に育てられましたが,建武2年(1335)信濃で兵を挙げ鎌倉を占領しました.しかし20日あまりのうちに足利尊氏の軍勢に敗れて逃走ししました.この事件を「中先代の乱」といいます.

その後の時行はしばらく南朝軍について戦いますが,最後はもう一度鎌倉に攻め入ったところで捕まり,斬首されました.先生はこの人をなんとなく可哀想に思います.(ゲンボー先生)

鎌倉時代の城はどんなふうだったのですか?(立花)

この時代の城は平山城という,平地の中にある小高い山の上などに作られたものが多いようです.城と言っても戦国時代や江戸時代のものとは大きく異なり,砦(とりで)と読んだ方がふさわしいような作りと規模のものが大半でした.先生のページの「鎌倉時代の道を歩く」にも小野路城のことが出ていますから,それを参考にしてください.(ゲンボー先生)

鎌倉時代の主な税制について教えてください。(立花)

源頼朝は,諸国に守護,荘園ごとに地頭をおき、全国26国の土地に兵糧米を出させることを決めました.ほかに直轄地から送られる年貢(主に農産品)や地子(じし)という家や土地にかける税が集められました.また臨時に集める税金として家ごとにかけられる「棟別銭」(むなべちせん)がありました.教科書ではこれらの税は室町時代のところで説明されていますが,それは広まったからで,実際には鎌倉時代の後期から行われていたものです.

経済の発達する後期には通行料や酒税もとっていましたが,これらの税は主にその土地の支配者がとっていたものです.近畿地方が多かったようです.(ゲンボー先生)

鎌倉時代の人は1人年間どれくらいの食料を消費していたのですか?(立花)

さあどのくらい食べていたのでしょう?階級や地域によっても異なっていたでしょうね.平均値で出すとこうなります.鎌倉時代の人口は約1200万人お米の取れ高が約1200万石だから,ちょうど一人あたりの分が180リットルです(1石は180リットル)それ以外に麦やヒエやアワ,それに動物の肉,魚,野菜を食べていましたが正確な量は計算できません.

当時の人骨を見ると極端な栄養失調は少ないので,今の人より少し少ない程度ではなかったかと思います.一日2食(朝夕食)が普通ですから,ちょうどお昼御飯を抜いた感じなのではないでしょうか.これでいいですか・・・

庶民の食事

武士の食事

調理法についてはこちら

ゲンボー先生


初めまして!!なみです.質問してもいいでしょうか?今、『鎌倉の歴史・・・鎌倉はいつできたか』という課題について、調べています。だけど、ハッキリとわかる資料もないし、困っています。鎌倉の歴史、いつできたかを、教えてください。

ゲンボー先生

メールをありがとう.

鎌倉の地名が書物に出てくるのは平安時代からで「鎌倉郷」として記されています.当時は郡の役所である「郡衙」(ぐんが)が置かれていたと書いてありますから,それなりの豪族がいたことを示しています.しかし,人が住んだのはそれよりもず〜っと以前で縄文時代早期(1万年前)の遺跡が発見されています.もちろんそれ以前の旧石器時代にも人は住んでいたと思います.

鎌倉じたいは周りを山に囲まれた狭い土地で,その上大きな川がありませんから大規模な水田稲作はできなかったと思います.山に囲まれた小さな漁村というところでしょう.ということは弥生時代から古墳時代,大和朝廷の時代は経済的に大きな地域ではなかったことを示しています.鎌倉に郡衙が置かれた一番の理由は,やはり防衛上の理由で豪族がそこにいたからなのだ思います.

平安時代になると源氏の一族が鎌倉に住み着きますが,周りの土地を広げるために争いもあったようです.頼朝の父の義朝(よしとも)は三浦氏とともに,鎌倉のとなりにある鵠沼(くげぬま)の土地を,藤沢一帯を支配していた大庭氏から奪い取ろうとして何度も侵略しています.

この時のことが伏線になって,大庭景親(おおばかげちか)が頼朝旗揚げの時に敵になったと言われています.

頼朝の時代になってからは鎌倉は政治都市であり商業都市として栄えました.しかし,幕府がつぶれると元の小さな漁村に戻ってしまいました.幕府のような特別の機関がでもなければ栄えないと言うことですね.

ゲンボー先生


佑です.源頼朝はどのようにして武士の政治を行ったのでしょうか?

ゲンボー先生

メールをありがとう.

まず,関東で旗揚げした頃には戦争に勝つことが第一ですから,司令部となる侍所ができました.次に,公文所を作りましたがこれは,源頼朝という個人と家族(つまり源家)の私的な仕組みでした.なぜかというと,当時の三位(さんみ,という)以上の貴族は公文所を開いて一家の生計を立てていたからです.彼らは自分の領地以外に広大な荘園を持っていましたし,多くの人間を養っていたからです.頼朝はそれをまねたのです.その頼朝が関東の豪族を束ね木曽義仲をうち破る頃には,御家人間の争いごと(主に土地をめぐっての争い)を調停する問注所や公文所を発展させた政所などの組織が作られていきました.

頼朝は武士の願いを良く知っていました.それは「自分の領地を認めてもらう」ということと「新しい領地が欲しい」と言うことなのです.農業生産が増えればそれだけ豊かになり一族が繁栄するからです.武士は頼朝の味方をすることによってまず自分の領地が認められました.これを本領安堵(ほんりょうあんど)といいます.次に戦で手柄を立てるとその働きによって,領地がもらえました.これを新恩給与(しんおんきゅうよ)といいます.この二つを公平に円滑に行うためにできたのが,幕府と呼ばれる組織です.

頼朝はその時期ごとに必要に応じて役所を作っていきました.そこで働く役人ははじめの頃は都から呼び寄せました.彼らは朝廷の仕組みや役所の仕組み,書類の書き方を知っていたからです.頼朝はどうしても武士の棟梁(とうりょう=親分)ということから,「武士」と言うイメージが強いのですが,実際には武士をまとめてはいたが,皇族の子孫としての部分もかなり多く残していました.ですから,子供の頼家や実朝もそうした部分を持っていたのです.

本当の意味で関東に武士の政権が確立するのは,北条氏が実権を握る執権政治になってからです.ところで,先生のページにも書いてありますが,これらの政治組織を当時の人は「鎌倉」とか「東国」と呼び,将軍は鎌倉殿と呼んでいました.役所はそのまま問注所とか侍所と呼ばれていました.じゃあ,それらをまとめて幕府と呼んだのはいつの頃か・・といえばそれは江戸時代の後期からなのです.

幕府と言う言葉から「確固たる武士の政治組織」 というイメージを持ってしまいがちですが,実際にはそうではありません.私たちが今日「鎌倉幕府」と呼んでいるものは,武士の成長にあわせて作られていった「武士という階級のため」の組織なのです.やがてその力は朝廷をもしのぐものになりますが,形式的にはあくまでも朝廷のなかにある一つの職である近衛大将(このえのたいしょう)や征夷大将軍が開設する組織です.

教科書では1192年に頼朝が征夷大将軍になって幕府を開いた,と書いてありますが,別にその時に「幕府を開くぞ」と言ったわけでもないし,今書いたように徐々に組織は作られていったので「ここからが武士の時代」というものもありません.「征夷大将軍になって幕府を開く」ということは江戸時代の徳川氏にとって大切なことだったために,後の世にそういう解釈をしたにすぎないのです.

「あいまいだなあ」とおもうでしょうが,先生は逆に初期の武士たちが自分たちの生活を守るために,少しずつ力を付け,朝廷に対抗する組織を作っていった思いや努力が見えるようでとても面白いと思うのです.

時期ごとの組織については先生のページに詳しく出ていますから,そちらを見てください.

変化する幕府の組織.

ゲンボー先生


私は中村中学の、友佳です。承久の乱について質問します。

鎌倉幕府の政治は、貴族や平氏の政治と、どうちがうか?

承久の乱では、どうして幕府が、勝ったか?

鎌倉幕府の社会は、どんなしくみで、なんというか?

鎌倉時代と、室町時代の、農業と農民についてまとめよう。

生産を高めるため、どんな工夫を、したか?

村の自治は、どのように、たかまっていつたか?

おねがいいたします。

ゲンボー先生

メールをありがとう.

朝廷が負けた理由はただ一言「甘かった」です.天皇が命令すればたちどころに武士が集まって,鎌倉方を攻め滅ぼすだろうくらいにしか考えていなかったのです.もう一つ付け加えるなら朝廷が「幕府を倒すぞ,味方につけ」という命令より早く倒幕の知らせが鎌倉側に入ったことです.当時の東海道はどんなに早くても1週間はかかったのですが,この時はわずか3日で知らせが届いています.ことの一大事に一刻も早く知らせを伝えようとしたのですね.おかげで天皇の命令が届く数時間前に鎌倉側は手をうつことができました.

あとは.数万の軍勢が一気に京都を目指すと,ほとんどの朝廷側の武士は逃げ出してしまいました.

今も昔も,情勢をいち早く知り,迅速に手を打つこと・・これが勝利の条件です.

 

鎌倉時代の仕組みを表す言葉はありません.しいていうなら武士の政権が誕生して軍人が政治を行う「軍事政権」でしょうか.それでも日本全国を支配していたわけではなく,関東の武士の利権を守る組織と考えた方が分かりやすいと思います.それでは不便だというので江戸時代の後半以後の学者によって「鎌倉幕府」とよぶことにしたのですが,そのためにかえって全国を支配する政権なんだと誤解を招くことが多くなってしまいました.

政権の仕組みや役所については先生のホームページにくわしく出ています.「変化する幕府の組織」ですからそちらを見てください.

 鉄の刃をつけた「クワ」や「スキ」といった農具が普及し,開墾地が増えていきました.また牛や馬を使っての蓄耕も西日本で一般的になりました.鎌倉時代の後期には水車がとりいれられて水面より高いところに水田を作ることができるようになりました.同じく後期には「人や家畜の糞尿」を肥料にするようになり,これでも生産が上がりました.

さらに二毛作の普及で冬場に麦を作るようにもなりました.

日宋貿易では中国を経由して新しい野菜も入ってきました.

 鎌倉時代の終わり頃になると,都市のまわり,特に京都周辺で農民の意識が高まり,自分たちの村での共同作業を行うことや,そのための組織が作られていきました.そうすることによって金貸しや地頭をはじめとする武士の横暴を防ごうとしたのです.

やがて,室町時代になると民衆の力が強まり「一揆」(いっき)とよばれる集団で借金を帳消しにさせたり,武士の支配からのがれるようなものに成長していきました.

分からないことがあったらまたメールをください.

ゲンボー先生


中尾中学校の恵理です。質問は、飛鳥時代から明治時代までの火のおこし方を、くわしく知りたくて。画像も欲しいです。お願いします。

ゲンボー先生

恵理さん.メールをありがとう.

マッチやライターが発明されるまで,火のおこし方は世界的に見ても二つしかありません.

一つは「打撃式」といって火打ち石を使う方法.もう一つは「摩擦式」で,木や竹をこすって火をおこす方法です.

日本では回転摩擦式が最古の方法と考えられています.つまり「火きり木」と「火きり板」を使って火をおこす方法です. 先生のホームページにに実物の写真があります.

火打ち石を使った打撃式は奈良時代に始まったと言われています.

鎌倉時代ごろになると「火打ち石」を使った火のおこし方が一般に広まります.この時代の絵の中にしばしば男性が腰から「火打ち袋」を下げているものがあるからです.火打ち袋の中には発火道具一式が入っているものと思われます.つまり「火打ち石」と「火打ち金」それに「火口」(ほぐち)の3点セットと,「うつし木」ですね.

火打ち石の種類ですが,日本ではチャートと呼ばれる珪酸質の石か石英と呼ばれる水晶の仲間が多かったようです.この他にメノウやサヌカイトと呼ばれる火山岩質の石もあります.

これらの石と火打ち金をたたき合わせると火花が出ます.この火花を,ほぐすと綿のようになる「ガマの穂」などの火口に落とし火をおこすというわけですね.

「うつし木」には薄く削った木を使います.こうして灯心やカマドに火を入れたわけです.

余談ですが,火打ち袋の中には小銭も入っていました.つまり財布の役目もしていたんですね.ところで,鎌倉時代の男性は成人すると武士でなくても刀を差していました.刀と言っても武士が持つような長いものではなく,脇差しと呼ばれる小刀です.火打ち袋はこの小刀と一体になっています.つまり「刀を持って」「火がつけられて」「小銭を持ち歩いている」というのが当時の成人男子ということになるわけです.面白いでしょ・・・

鎌倉時代以後は徐々に火打ち石での発火が主流になりました.江戸時代になると「切り火」といって家を出ていく人の安全を願って背中にカチカチとやる風習も出てきました.

明治時代になるとマッチが輸入され,またたく間に日本中に広まりました.そのマッチも今ではほとんどがライターか圧電式の自動着火になってしまい姿を消しました.

ゲンボー先生


渋谷教育学園幕張中等部1年の下西といいます。鎌倉時代の女の人の地位は、男の人と同じだったのですか?お金など(お給料など)も同じように貰って、独立していたのですか?夏休みの宿題で研究するし、とても興味があるので教えてください。お願いします。

ゲンボー先生

メールを有り難う.難しい質問ですね(笑)

一般に平安時代や鎌倉時代の家庭は女性が中心で,夫は複数の奥さんの家に通っていました.位の高い人はそれでは不便なので大きな館の中に何人も奥さんを住まわせていました.貴族は娘が産まれることをとても大切なことと思っていました.それは位の高い人と結婚して子供が産まれればその子は娘の実家で育てることになり,やがて成長すると娘の家の位があがり収入が増えるからです.

ただし,役人などはほぼ100%が男性で職業的には男性が中心でした.しかし,鎌倉時代には女性の地頭もいたくらいですから,地位が同じなら男女は同権です.

この時代には「決まった給料」という考え方がありませんから,男女の差は分かりません.先生は仕事の内容が同じなら同じ収入だったと思います.

ゲンボー先生


質問したいことがあります。「鎌倉文化」について具体的に教えてください!!伊達中学校真麻

ゲンボー先生

真麻さん,メールをありがとう.

鎌倉文化といってもたくさんの分野があり一つずつ説明するにはとても時間がかかります.具体的に知りたいことがあったらしぼった質問をください.

大まかに言うと平安時代とは異なり庶民や武士の力が強まることによって,前の平安時代に比べてとても写実的な表現が多くなったと言うことです.

有名な彫刻家の運慶や快慶の作品を見たことがありますか?筋肉のつきかたから顔の雰囲気がとても力強く写実的です.また一遍聖絵(いっぺんひじりえ)や竹崎季長絵詞(たけざきすえながえことば)なども,細かいところにいたるまでとても写実的でこの時代の生活を知る上でとても参考になります.

室町時代や江戸時代になると鎌倉時代ほどの写実性は無くなります.ということはそれだけ鎌倉時代の民衆が力強く生活していた,ということになります.

鎌倉時代には貴族を頂点にした社会がこわれ,武士を中心とした民衆の力が強まった時代です.また街道や海路の整備も進み,物の行き来が盛んになり経済も発達してきた時代です.

日本の歴史のなかでは明治維新とならんで大きく変化した時代,それが鎌倉時代なのです.

文化のことや政治のことを調べるためにはこうした一般の庶民の生活の様子や変化を知ることがとても大切なんですね...

ゲンボー先生


玉川学園中学部の市川です

元(モンゴル)はどうして日本を襲来したのですか?元はどんな影響を与えたのですか?資料などで調べたのですがいまいち解りません・・・・。よければ詳しく教えてください。お願いします。

ゲンボー先生

元は西はハンガリーから南はアフガニスタン,東は高麗(こうらい=朝鮮).宋(そう=中国)を支配する世界最大の帝国でした.

遊牧民だったモンゴルは,はじめの頃は物を奪うことに力を注いでいましたが,やがて農耕民族のよいところを取り入れて,政治の組織をととのえたり,交易して経済を活発にしていきました.元という国の名前も中国を支配して都を北京に定めたときに中国風にかえたものです

今述べたように,ひと昔前のモンゴルは「略奪」(りゃくだつ)が中心の国でしたが,フビライの時代には農業をはじめとする産業を盛んにし,貿易を広く行う国に変わりつつありました.

マルコポーロはイタリアの商人ですが, ヨーロッパとアジアの交易を大々的に行っていたためにフビライハーンに信頼されていた人の一人でした.

さて,おもだった国がほとんど元の支配下に入っているとき,東方の海上に浮かぶ島国日本だけは元と交易するでもなく,使者を送るでもなく,まったく無関係だったわけで,元としては面白くなかった・・

その日本ですが中国人には「黄金の国」「金のでる国」と思われていましたから,元としても「そんなに豊かな国なら属国にしてやろう」という気が起きないわけがありません.ちなみに当時の中国では「日本」を「ジップン」と発音していました.後年マルコポーロが東方見聞録で日本を「ジパング」「黄金の国」と紹介したのはそのためです.実際に当時の日本は世界一の金の生産量を誇っていましたから,あながちでたらめな話ではないのです.

そこで,フビライハーンは日本の王に対して「交易をしよう」という手紙を書きました.しかし,その手紙には「交易しないのなら,軍隊を送るがそんなことはしたくないなあ・・」というおどしの言葉も書いてありました.元にはもう一つ目的がありました。それは当時元と戦っていた南宋と日本の貿易額が大きく人の行き来も多かったため、日本と南宋をなんとかして切り離そうとしたのです。

しかし、日本には南宋から日本に逃げてきた人が沢山いて,その人達が「元」の恐ろしさを伝えていたために,日本は元の申し出を拒否したのです.こうして起きたのが文永の役です。さらに幕府は拒否のしるしに2度目の元寇(弘安の役)の前に元の使者を処刑しました.

ゲンボー先生


田島中学校1年の藍子です。武士のことについて質問をしたいのですが、よろしいですか?武士は何歳からなれるのでしょうか?

ゲンボー先生

藍子さん メールをありがとう.

武士は職業ではありません.もともと農民や漁民や,牧場関係者が自分たちを守るために武装したのが始まりです.ですから何歳から武士になると言うことではありません.関東地方ですと普通の農家に生まれたら,ふだんは農業をしていても,いざ戦の時には武装して戦いに参加します.豪族の家の子どもだと農業の比率より武士としての訓練の比率が高まります.

さて,それとは別に「元服」といって大人になる儀式があります.当時は一人前の人間になるには頭に烏帽子という帽子をかぶることが必要でした.テレビでよく見る「あれ」です,これがだいたい15歳前後のことです.烏帽子を最初にかぶるときには一族が揃い,みんなの祝福を受けます.この時,烏帽子をかぶさせてくれる人のことを「烏帽子親」といい,実の父と同じように大切にしなくてはなりません.反対に烏帽子親はその子の相談役になったり,なにかと面倒をみる立場になるのです.今で言う後見人とか保証人と言った感じですね.

ところで武士は元服すれば戦に出ます.当時の武士は先頭に突っ込んでいくのがあたりまえだし,戦うときはあいてとの一騎打ちです.負ければ首が切り落とされます.勝っても相手の首を切り落とさなくてはならないのです・・・大変だね・・君と同じくらいの年令だよ・・・できますか?(笑)

ゲンボー先生

ゲンボー先生へ

とってもくわしくありがとうございましたm(_ _)m

そうなんですか・・・。熊谷直実が平淳盛の首を切ったときに15歳ぐらいっていっていたから、「いったい武士はなんさいからなれるんだっ!」と思いまして・・・・。私だったら平淳盛みたいなことはできません(-_-;)また何かあったらきいていいですか?

おねがいします!

藍子  


田島中学校1年の藍子です。また質問していいですか?(2回目です)武士はどのくらい手柄をもらえるのでしょうか?お願いします。

ゲンボー先生

働きの第一は戦争で活躍することです.うんと働いた人にはたくさんの・・そうでない人には少しの「恩賞」が与えられました.恩賞とは何か?というとこれまでにもこのページで説明したとおり「土地」です.土地と言っても農地を含む広い地域のことで,君が学校で習った「荘園」や「国衙領」(こくがりょう)と呼ばれる朝廷支配地の「地頭」に任命されることなのです.地頭になるとその土地の税を集めたり地頭分の生産物や収穫物を取ることができます.やがて地頭として任命された武士は,元々の持ち主から土地を奪って自分の物にしたりしました.鎌倉時代の半ばにはこうした土地が全国的に増えていきました.こうしたことを下地中分(したじちゅうぶん)というのです,もう学校で習いましたか?

ゲンボー先生


仙台第一中学校一年の高橋です。承久の乱の、以前にも、朝廷と幕府の、戦いは、あったのですか?

ゲンボー先生

高橋さん.メールをありがとう.

人を殺し合う戦争はありませんでしたが,守護や地頭の設置をめぐって政治的な戦いがありました.

後白河法皇は頼朝の考えが解っていましたから,守護や地頭を全国の荘園や国衙領(こくがりょう)においたら自分たちの利益が損なわれることは十分に理解していました.そのために頼朝の望む征夷大将軍の位を与えなかったのです・頼朝が征夷大将軍になるのは後白河法皇が死んだ後のことです.

ですから頼朝は無理をせずに,朝廷や院の力の強い近畿地方や中国・四国.九州地方の大部分の荘園や国衙領の実質的な支配権を奪おうとはしませんでした.

したがって,鎌倉時代の前期は朝廷の力の方が強かったのです.

しかし,徐々に武士側の力が増して朝廷に様々な圧力をかけました.このことが承久の乱の原因になっているのです.

参考:承久の乱はなぜおきたか?

ゲンボー先生


富山県戸出中学校の大樹です。

今、学校で鎌倉時代の仏教について勉強しています。親鸞、浄土真宗の悪人こそ救われる。の意味を教えてください。あと、日蓮宗についても教えてください。お願いします。

ゲンボー先生

大樹君

善人なおもて往生す,いわんや悪人をや・・ですね・・・

普通に生活していた人間ですら「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の念仏(ねんぶつ)を唱えれば極楽に行けるというのに,悪いことをして心にキズを持っている者や,悩んでいる者がなんで救われないことがあろうか・・というように解釈されています.

それまでの仏教は仏の教えを「経典」によって伝えていました.僧侶の話も内容のレベルが高くてとても一般庶民が理解できるものではありませんでした.

親鸞や法然は難しいことは抜きにして,まず「南無阿弥陀仏」と念仏しなさい.そうすれば仏の救いがあるでしょうと唱えました.「善人〜悪人」の説法はこの時に語られたもので,親鸞はこのことを弟子に伝えました.弟子の唯円はその教えを「歎異抄」(たんにしょう)という本に書き残しました.それまで極楽に行ける人はお経を唱える余裕や教養のある人,お寺を作ったりできる裕福で高い身分の人たちだけで,一般人は「どうにでもなれ」という感じでした.法然や親鸞はそうでない一般民衆に,すべて極楽に行けるぞと唱えたのです.

ただし,ここで言う悪人とは我々が考えるような犯罪者のことだけではなく,他人を押しのけたり,自分だけが良い思いをしたいという欲望を持つ人のことも含めていることを忘れてはなりません.(だから人間のほとんど全員ということにもなります)

こうして分かりやすい浄土宗・浄土真宗の教えは庶民に広まりました.

さらに,一遍(いっぺん)というお坊さんはこれをもっと簡単にして,念仏に踊りをつけて時宗を広めました.

日蓮は法華経こそ人類を救う最高の経典として,「南無妙法蓮華教」(なむみょうほうれんげきょう)と,お経の題目(だいもく=名前)を唱えさえすれば救われると唱えました.これに,禅宗の臨済宗と曹洞宗を加えたものを鎌倉新仏教と言います.

哲学的な禅宗は武士に好まれ,それ以外の宗派は武士も加えて農民や町人に広まりました.特徴としてはどれも簡潔で解りやすいということがあります.

日蓮宗が他の宗派と違うのは日蓮宗だけが人の心を救える宗派として,他の宗派を敵視したことです.こうしたことは 「立正案国論」という本に書いてあります.日蓮は災害が続くのは念仏(浄土宗・真宗)が悪いからだ,やがていくつかの経典にも預言されているように外国が攻めてくるぞ.国を護りたいなら日蓮宗だけを信じなさいと,当時の最高権力者だった北条時頼に進言しました.

しかし,時頼は完全にそれを無視しました.

更に,日蓮の教えに怒った念仏信者が日蓮を襲ったり,幕府に訴えたりしたため,日蓮は伊豆に流されたり,再び佐渡に流されたりと波瀾万丈(はらんばんじょう=次から次へと凄いことがおきること)の生涯を送りますが,やがて門弟達によって日蓮宗は広まっていきました.

仏教のページ  小学生への説明

ゲンボー先生


鎌倉時代の武士と、室町時代の武士の違いを教えてください!あと、鎌倉時代の有力な武士は分かったのですが、室町時代の有力な武士がどうしても分かりません!どうか教えてください!!宜しくお願いしま〜す

中華学校  中1 テレサ

ゲンボー先生

テレサさんメールをありがとう.

室町時代の有力武士は時期によって異なります.

応仁の乱前ですと

細川・山名・京極・六角・畠山・斯波・大内・島津・赤松・菊池・千葉・佐竹・一色・上杉・土岐・武田・富樫・少弐・宗

という守護大名がいました.彼らは鎌倉時代に守護だった家柄の子孫です.

戦国時代になると

津軽・南部・秋田・伊達・北条(後北条)・上杉・武田・浅井・朝倉・今川・織田・松平(徳川)・斎藤・毛利・尼子・陶・小早川・吉川・細川・長曽我部・島津・細川・

などの戦国大名が有名です.この人達は守護大名を倒して実力で大名になった人たちです.(ただし島津などいくつかは守護大名から続いています)

室町時代になると地頭クラスの武士が守護クラスの武士の家来になっていきました.つまり有力な武士がたくさん生まれたということなります.鎌倉時代にも有力な武士がいたじゃないか?と思われるけど北条氏をのぞいて規模が違います.守護大名の方がはるかに力を持っていました.

しかし,その守護大名も応仁の乱後の戦国時代になると,実力のある家来や小さな豪族に家を乗っ取られたり国をとられたりしました.上杉や武田は有名ですが,戦国大名の上杉や武田と守護大名の上杉・武田とは違います.どちらも家来が主人を倒しています.そう言う大名が戦国大名です.中でも北条早雲と斎藤道三の二人は典型的ですから調べてごらんなさい.

ゲンボー先生


1219年源氏は何代で滅ぶか教えてください.中学一年 友理香

ゲンボー先生

有理香さん.メールをありがとう.

1219年は実朝が暗殺された年です.しかし,それで源氏が滅びたわけではありません.

頼朝と頼朝の子ども達の系統が途絶えたというだけのことです.

源氏は諸国に散らばっており,現に鎌倉幕府の滅亡時には新田義貞や足利尊氏が活躍しますが,どちらも源氏です.

この時代の東国では源氏だろうと平家だろうと,そう言うことはあまり関係ありません.その証拠に頼朝を支えた北条氏も三浦氏も千葉氏もすべて平氏です.このところは先生のページにくわしく書いておきましたが,鎌倉の武士政権は関東に住む豪族が頼朝をうまく利用して作ったものであるということを忘れてはなりません.歴史の上では確かに頼朝が中心になって政治を行いますが,その中身は豪族達の希望にそったもので,彼らの力がなければとても平家や朝廷に対抗する力はありませんでした.頼朝が優れた政治家なのはそうした豪族達の願いをうまく叶えて,武士の権利を拡大したという点にあるのです.

ですから,「源平の戦い」とか「源氏の将軍が3代で滅びた」などの説明は,その時代の実際の状態を言い表してはいないのです.それらはほとんど江戸時代の学者が言ったことや,歌舞伎などの影響から生まれたものです.

もし源氏が滅びたと言うことを正確に言い表すなら「頼朝の家系が2代で絶えた」という方が正しいと言えますね.頼朝の家系が途絶えたあとも京都から貴族や皇族の源氏を連れてきて将軍にしていましたが,実際には幕府(この呼び方も江戸時代から)の運営は北条氏などの有力な豪族が行っていました.後に北条氏が執権になると,幕府の政治は北条氏中心になっていきます.

この時代の武士の感覚から言うと鎌倉幕府は時期によって次のようになります.

1.「頼朝の時期」=頼朝を中心にして俺たちみんなで作り上げた政権.

2.「頼朝死後の時期」=有力豪族達を中心に動いている政権.自分はどこにつけば一番安全かを考えなければならない.

3.「執権政治の時期」=北条氏が中心になって政治を行っている.自分たちは北条氏の言うことには逆らえない.

ですね.

参考:幕府を創った相模の武士たち

ゲンボー先生


初めまして。保谷中学校3年の女子です。

遣唐使について質問なんですが、当時、遣唐使らは何ヶ月も船旅をするのですが、その旅の間の食事は、一日三食おもに何を食べていたのですか?そして、どのように食べ物を保存していたのか、教えて下さい。

ゲンボー先生

メールをありがとう.

遣唐使は確かに何ヶ月もかけて当時の都「長安」にいきましたが,船の旅は長くて1週間程度です.当時の航路は行きと帰りが異なっていました.

行きは博多から出発して,朝鮮半島から遼東半島をこえ寧波(にんぽー)まで行きました.さらに船を乗り換えれば長江を遡り,さほど長い旅ではなかったのです.しかし,中国に渡ってからは徒歩の人もいたので,それで何ヶ月もかかったと言われているのです.※朝鮮半島の(しらぎ)と日本が仲が悪くなると,今度は五島列島,奄美大島を経由していく航路に変わりました.

当時の食事は1日2食が普通です.大型船ですと調理ができますから「こめ」や「雑穀」「野菜」.干し肉や塩漬けの魚など,野菜や動物性のタンパク質に困ることはなかったと思います.また途中でよる港でも水や食料を補給したでしょうから,我々が想像するよりは,まともなものを食べていたと思います.

帰りは寧波からダイレクトに鹿児島の坊津を目指してきました.これは黒潮に乗るとまず鹿児島に着くからです.そこからは徒歩と言うことになりますね.この航路だと3〜4日で日本に来ることができます.早いでしょ・・

後に対馬海流に乗り換える航路が発見されると,帰りも博多になりました.博多からですと瀬戸内海をとおって,ダイレクトに難波の津に着けます.(現在の大阪の近く)

当時一番怖かったのは,やはり嵐です.大型船とはいっても当時の船は30メートル程度の簡単なものでしたから,嵐にあって多くの船が沈没し,優秀な人材がたくさん失われました.

ですから,遣唐船は複数で,同じ職業や目的の人は分散して乗ったのです.誰か生き残りが唐について学問や技術を身につけて欲しいという願いからです.帰りも同じく複数の船で帰ってきたのですよ.弘法大師も伝教大師も小野妹子もみ〜んな命をかけて渡航し,運良く帰れた人たちです.

帰れなかった人の例では阿倍仲麻呂がいます.仲麻呂の船は途中で難破し,今のベトナムに漂着しますが,現地の人に襲われて180人のうちたったの10数人だけが生き残ったといわれています.仲麻呂は運良く命は失いませんでしたが,その後2年かけて長安に戻り,以後は中国での生活を送ります.

仲麻呂が乗った遣唐船は,4隻のうち2隻が難破しています.この時第二船に乗っていた鑑真は五度失敗して,ようやく六度目に日本に渡ってきた中国の偉いお坊さんでした.その間12年間を要しています.

私たちの祖先はこのように命をかけて,日本を近代的な国にしようと努力してきたのです.このことを忘れちゃあいけないよ・・

君の質問ですが,冷蔵庫のない時代の食料の保存方法は三つです.一つは「乾燥」つまりカラカラの干物にすること.次に薫製.もう一つは「塩蔵」つまり塩漬けです.遣唐船にもこのような物が積まれていたことでしょう.しかし,短い航海ですから保存食にたよる割合は少なかったと思います.むしろ漂流したり難破したときの非常食としての役割のほうが大きかったのではないでしょうか.

また普通に食べていた食事の内容ですが,それほど凝った食事は作るのが無理だったでしょう.しかし,肉や野菜やお米の料理としか言いようがありません.なぜならメニューが記録として残っていないからです.ここから先は想像してください.資料は食事のページにあります.

ゲンボー先生


質問があります。鎌倉時代には城下町が存在したのでしょうか。とある入試問題(国立高校)の『一遍上人絵伝』の説明に、「港町や門前町、城下町の様子が描かれている」とありました。城下町というと一般的には秀吉以降からだと思うし、また、古代の多賀城なども城と考えれば城下町があったのかとも思われるし?いかがなものでしょう。

大阪市立文の里中学校 和也

ゲンボー先生

メールをありがとう.

そのとおり!・・・鎌倉時代の城は,城というより砦(とりで)といった方がよいものです.つまりそこは防備のための施設であって,後世の城のように政治上の施設でもなければ生活の場でもなかったのです.当然,その回りに町ができることはありませんでした.

城が政治上・軍事上の施設になるのが戦国時代です・・・この時代になると城下町ができるところもありますが,なお山上にあって城下町ができなかったところもあります.本格的な城下町ができるのは安土桃山時代前後で,このころになると支配者一族が城の中で生活するようになります.

ちなみに,多賀城は城というより朝廷の出張所・・塀で囲まれた役所・・と表現した方がいいでしょうね.したがって多賀城の回りにできた・・かもしれない町は「城下町」とは言わないのです.

純粋に城下町と呼ぶのは前に述べたような戦国時代後期から江戸期までのものをさします.ですから指摘の通り一遍上人聖絵に城下町は出てきません・・門前町もしかりです.一遍上人がいた頃の時代には「門前市」が開かれていたのであり,市が町に発展するのは中世も終わりの頃です.

港は「湊」・「浦」・「津」とよばれ,中世に発展しましたからこれはありました.

ゲンボー先生


平塚市立大住中学校 俊行

鎌倉時代は約140年間も続いたのでどれくらいの争いがあったのか、その争いの指揮をとった人物は誰か?興味を持ったので教えて下さい。

ゲンボー先生

俊行君.メールをありがとう.

鎌倉時代には小さな争いも含めると,数多くの戦がありました.

主なものは,

源平の戦い・奥州藤原氏との戦い・比企の乱・和田合戦・承久の乱・宝治合戦・二月騒動・文永の役・弘安の役・霜月騒動・平禅門の乱・正中の変・津軽の乱・元弘の乱・吉野合戦・千早城合戦・建武の親政にいたる戦争

と,これだけあります.ちょっと詳しい年表をみれば年号が分かります.君はこれらの合戦を

1.幕府を作るための戦い(幕府対?)

2.幕府内の主導権争い(ご家人間の)

3.幕府とは無関係の争い

4.幕府を滅ぼすための争い

に分類してみてください.その過程で誰が何のために戦ったが分かるはずです.こうしたことを自分で調べると「時代」がみえてきます.自分の学習になるわけですね・・頑張ってください

分からないことがあったらまたメールをください.

ゲンボー先生


大住中学校 綾乃.私は、鎌倉時代の農民と貴族の服装(男女)&服装の生地(農民、貴族)は、何を使っていたかについて知りたいです教えてください。お願いします!!

ゲンボー先生

綾乃さん,メールをありがとう.

面白い質問ですね.現在私たちは様々な種類の素材を使った衣服を着ています.木綿・絹・化学繊維・羽毛・・ところが,鎌倉時代にはそれほど多くの繊維が無く,したがって衣服の素材も限られていました.

現在知られている素材から考えると,庶民は「麻」を素材とした服を着ていました.麻と言ってもいくつかの種類があり苧麻(ちょま)と言う種類で,英語ではRamie(ラミー)といいます.麻というと私たちは丈夫だけどゴワゴワしていて着心地が悪いと思いがちですが,それは亜麻(あま)Linen (リネン)という種類で,日本で作られるものとは異なります.苧麻の原料は「カラムシ」といい,今日,雑草としてあちこちに残っています.多分君の家や学校の回りにも生えているはずです.

この繊維を加工するとしなやかな糸になります.これで作った織物には「越後縮緬」(えちごちりめん)や「近江上布」(おうみじょうふ)があります.どちらも今では大変に高価なものです.もちろん当時は「安くて丈夫」だったから庶民に着られたのです.

貴族や高級な武士は,夏は麻を着ていましたが,それ以外は絹を着ていました.鎌倉時代には養蚕が盛んになり,美しく暖かい絹が好まれていました.

日本で木綿が一般的なるのは江戸時代になってからのことです.

ゲンボー先生


大住中学校の諒平です。鎌倉時代に流行った遊びとか有るんですか?色々教えて下さい。 

ゲンボー先生

諒平君メールをありがとう.

もちろん!遊びのない時代なんてありません・・人間である以上必ず遊びがあるのです.人間にとって遊びは必要なものなのです.とは言っても・・遊びだけじゃだめですよ・・と釘をさす(笑)

鎌倉時代にあった遊び

竹馬・こま・羽子板・貝あわせ・けまり・ぎっちょう(ホッケーのよなもの)・石つぶて(石を投げ合う・・コワイ・・痛い)・将棋.双六(すごろく)・腕相撲・耳相撲(耳にひもを付けて引っ張り合う)・首引き(耳相撲のように首にひもをかけて引っ張り合う)・腰引き(腰にひもをかけて引っ張り合う)・にらめっこ・綱引き・子弓(こゆみ=小さな弓で的を打つ)

などです.これらのいくつかは先生のページ「鎌倉時代の勉強をしよう」の「中世の町を歩く」の中に実物の写真がありますので見てください.

大人の間ではやったのは,サイコロ・耳相撲・首引き・腰引きなどで,これらはいずれもお金をかけて行うバクチでした.幕府はたびたびこれを禁止しています.たびたび禁止すると言うことは,とても盛んに行われたと言うことと,言うことを聞かなかった・・ということですね.「ゲームばっかりやって,勉強もしなさい!」と言われている君たちと同じです.(笑)

ゲンボー先生


岡崎四郎について教えて下さい。どんなことを行ったのか。どういう人なのか。 など教えて下さい。 平塚市立大住中学校1年 詠美

ゲンボー先生

詠美さん.メールを有り難う.

岡崎四郎義美(よしみ)は,相模の大豪族三浦一族です.兄は三浦本家を継いだ義明で,この人は頼朝の父「源義朝」とともに,君の住んでいる場所から南東にあった大庭一族の領地「大庭の御厨」(おおばのみくりや)に何度か侵略したことがあります.

広い領地を支配している割に平地の割合が低くい三浦半島の三浦一族にとって,平野が広がる藤沢市・平塚市あたりはのどから手が出るほど欲しかった土地です.

岡崎四郎はそうした三浦氏の戦略の一環として,今日,岡崎城と呼ばれる場所に移ってきました.そしてその子義忠(よしただ)を岡崎城の西方にある真田に配置しました.それが真田城です.ちなみに真田義忠は頼朝はたあげの石橋山の合戦で,大庭一族の俣野五郎と戦い討たれています.(真田義忠を討ったのは長尾定景で,この人は後に実朝を暗殺した公暁も討ちます)

岡崎・真田一族は小田原周辺に力を持つ中村氏一族と手を結びます.これが頼朝軍の中核になるのです・・ここから先は先生が今研究中で,近々何らかのカタチで発表する予定です.

君の住む土地にはこうした歴史が眠っています.面白いでしょ・・あとは自分で調べてみてください.何か分かったら先生にも教えてください.

ゲンボー先生

メール、ありがとうございました。 とても分かりやすく、助かりました!!!


小平第5中学校の光です.武士の鎧は戦以外、どんな時に着ていたんですか?教えて下さい。

ゲンボ−先生

光君.メールをありがとう.

鎧を着るのは戦の時だけです.刈りにでるときは「狩衣」(かりぎぬ)という動きやすい服を着ます.流鏑馬(やぶさめ)という馬の上から弓で的を射る競技もこの狩衣を着て行われます.

鎧や甲(かぶと)は重く,動きにくいので,どうしても身体を守らなくてはならない戦の時以外は身につけなかったのです.そうそう,戦いの練習の時には着ることもあったでしょうね.

それと,警備の侍は胴(はらまき,という胸とおなかを守る鎧),すね当て,小手をつけていました.これはいずれも軽くれ簡単にできているものです.

ゲンボー先生


平塚市立大住中学校の美歩です.鎌倉時代の農民の住居、「掘建て小屋」「方形竪穴住居」についてくわしく教えてください。

ゲンボ−先生

美歩さん.メールをありがとう

「掘建て小屋」は平らな土地に穴を掘って柱を入れる構造で,穴の底に石をおく場合があります.日本の古い建築様式で,後に直接平らな土地に石をおいて柱を乗せる形式に変わります.

「方形竪穴住居」は鎌倉時代に独特の住居で,半地下式の住居です.つまり地面に正方形あるいは長方形の穴(一辺が2〜4メートルと大きさはまちまち)を掘り,その上に屋根をつけた住居です.考古学者は「方竪」(ほうたて)と呼び,弥生時代〜古墳時代の方形の竪穴住居とは分けています.

方竪は特に砂地の由比ヶ浜で多く発見されています.いずれも庶民の家ですね.

ゲンボー先生


こんにちは。 大住中学校1年の唯です。今、私は鎌倉時代の、農機具と今現在の農機具の違いを調べています。鎌倉時代には、どんな農機具があって、どのように使われていたのでしょうか?

ゲンボ−先生

唯さん.メールをありがとう.

鎌倉時代は農業が発達した一つの時代です.一番の特徴はそれまで木製だった「鋤」(すき)や「鍬」(くわ)の刃の部分が鉄になったことです.これは鎌倉時代に鍛冶の技術が日本中に広まったからです.当時の遺物を見ると鋤や鍬以外に「鎌」(かま)「鶴嘴」(つるはし)などがあります.それ以外に「箕」(み).「木槌」(きづち)などがあり,ほぼそれ以後の農具が出そろっているという感じですね.

これらの道具を使って,開墾(かいこん)し水路を開いて新しい耕作地を広げていったわけです.そうそう,水車もこの時代に広まったものです.これによって水面より高い耕地に送水することが可能になりました.特に近畿地方を中心とする西国では水田二毛作が普及しますが,これも農機具や農業技術の進歩がもたらしたものです.※水田二毛作=冬から春にかけて「麦」などを作ること・・

ゲンボ−先生


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