記憶システムを備えている生物は、ある状況に直面したとき、それを以前の経験と比較し、それらを総合して最も適切と考えられる行動をとろうとします。この行動決定には3種類の記憶、すなわち過去記憶、現在記憶(ワーキングメモリ)、未来記憶(予測)を有機的に結びつける脳の働きが必須です。これら3種類の記憶は、脳の別々の領域で作成・保持されていると考えられていますが、それらはどこでどのようなメカニズムで統合されているのでしょうか。我々のグループでは、この問題を明らかにするために、はじめに理論的な学習記憶仮説を提案し、そこから導かれる現象を予測します。つぎに、実験動物(モルモット、ラットなど)を用いた生理実験により、理論モデルから導かれる予測を、単一細胞のシナプス結合強度パターンとしての記憶形成というミクロなレベルから、複数の細胞集団システムにおける記憶形成というマクロなレベルにわたって検証し、いまだ未解決なこの問題に解明の道筋をつける研究を推進しました。
研究項目は、以下の各項目についての実験的・理論的研究です。
過去、現在、未来の記憶を統合する脳の場所は海馬であると考えられます。その海馬神経回路網は、3つのタイプのシナプス結合で構成されています。その一つは、苔状回からCA3を経てCA1の錐体細胞にシナプス結合する大脳皮質から海馬への入力回路です。この回路により大脳皮質から送られてくる信号は、空間的にマッピングされると考えられます。第2は、大脳皮質から直接海馬CA1の錐体細胞にシナプス結合する回路で、第一の回路で形成されるシナプス結合と時空間的インタラクションを起こし、結合強度を修飾するものと考えられます。第3の回路は、CA3内のローカルな回路で、この回路はフィードバック機能をもつリカレントシナプス結合を有する特徴があります。このフィードバック結合を遺伝子的にノックアウトしたマウスでは、行動を適切に判断するに必要な手がかりの数が正常なマウスに比べて桁違いに多くなるという報告(中沢ら、2002)があることを考え合わせると、CA3回路網はリカレントシナプスを含む神経回路で入力情報の時空間系列の文脈を作っているものと想定されます。この文脈がCA1回路網に送られ、CA1錐体細胞のシナプスの加重空間パターンとして写像されるものと仮定し、塚田ら(1996)は海馬神経回路網における新しい時空間学習則(Spatio-temporal Learning Rule; STLR)を提案しました。さらに津田ら(1996、2001)は、不安定な振る舞いをする神経回路網(CA3に対応)がカオス的遍歴をたどることにより入力事象の文脈を形成し得ること、またその文脈は縮小ダイナクスによりカントールコーディングとして安定な神経回路網(CA1に対応)のシナプス加重空間に符号化されるという計算論モデル(カオス駆動縮小システム)を提案しました。
具体的には以下の項目で研究を実施しました。
感覚皮質は、それぞれ特定の物理刺激に選択的に応答する脳の領域とされてきました。しかしながら、最近、神経活動イメージングによって人間の聴覚野は音がなくても活動することが示されました。この活動は事象の想起などのような行為に伴うトップダウン的な入力信号をうけて生じると考えられますが、いかに脳がそのようなトップダウン情報による活動を作り出すかについてはほとんど解明されていません。
我々は、まずボトムアップ情報どうしが大脳皮質でどのように統合されるかについて古典的条件付けを用いて研究し、続いてボトムアップ情報とトップダウン情報の双方を受ける海馬を対象に、両入力がどのように相互作用して記憶が形成されるかについて以下の3項目の研究を行いました。
学習・記憶メカニズムを、単一細胞のシナプスレベルから神経ネットワークや脳の全体システムの働きにわたって横断的に実験研究を行うには、脳の一部のスライス標本を用いたシナプス活動の計測、ローカル神経回路網の活動の計測、行動中の動物の脳活動の計測などが必須です。これを実現するために、以下の計測システムの開発を行いました。
聴覚関連皮質の再賦活(共活性)および海馬領域の活動の特性を、虚再認のパラダイムを用いた実験により検討しました。視覚性再認時の脳活動の計測には機能的MRIを用いました。