嗅覚作用の分子遺伝学的研究は、2004年のノーベル生理学・医学賞の受賞対象となった分野(Buck and Axel:におい受容体および嗅覚システムの組織化の発見)で、いわば脳が嗅覚をどのように理解し、適応的な行動が表現形として発現されるのかという重要な問題を含んでいます。そのような背景の中で、ヒトに匹敵する高度な社会を進化させ、その統御をフェロモンやカイロモンといった嗅覚シグナルで成している社会性ハチ類の種内コミュニケーションと種間インターラクションに関しての解析を実施しました。
1異種社会集団間での情報操作の実体
我々の研究グループは、オオスズメバチが餌場マークフェロモンを分泌して同巣の他個体を誘引し、ミツバチや他の社会性ハチ類の巣に集団攻撃を行うことを報告しました(Ono et al. 1997)。具体的には、その捕食者の分布しない地域から輸入されたセイヨウミツバチは全く抵抗する術もなく殺戮されてしまうのに対して、系統的に近縁のニホンミツバチは捕食者のフェロモンを感知して効果的な防衛行動をとることができます。オオスズメバチのスカウト蜂がニホンミツバチの巣を見つけ周囲でフェロモンによる嗅覚信号を発すると、異種であるにもかかわらず被食者はその信号を傍受し、きわめて特異的な防衛モードをとります。被食者は、捕食者のスカウト蜂を巣内に誘い込み、集団で飛び掛り蜂球内に封じ込め捕食者の上限致死温度を上回る発熱により蒸し殺してしまいます(図6)。その際には刺針行動は認められず、蜂球を形成する働き蜂はしっかりと身を寄せ合い発熱行動をしているのですが、その蜂球の表面から通常では「刺針行動」を誘起する酢酸イソアミル(警報フェロモン)が発散していることが明らかにされました。
同様に同所性の被食者キイロスズメバチの場合には、オオスズメバチの餌場マークフェロモンを感受すると特異的な防衛行動が引き起こされ(Ono et al. 2003)、非血縁の異巣間でさえもが協力して対抗するという、きわめて異例な防衛行動が解発されることも明らかになりました(Ono 2006)。これらの嗅覚信号が入力されてから、適応的な行動発現がなされるに至る経路において、脳内でどのような情報処理がなされ、またそこにどのような分子遺伝学的基盤が存在するのか対して大きな関心が寄せられています。
一方、オオスズメバチの攻撃に無力なセイヨウミツバチも、捕食者が巣門に近づいた際にそれに向かっていく「攻撃蜂」と巣内に逃げ込む「退避蜂」などがいます。それらの事実より、攻撃行動の誘起に関わる遺伝子のスクリーニングが展開されました。東京大学理学部の久保健雄教授のグループに所属する藤幸知子博士を中心とした共同研究により、攻撃蜂の脳内に新規の昆虫ピコルナ様ウイルスが多量に検出され、攻撃行動発現とそのRNAウイルスとの因果関係に関して詳細な解析が展開されています(Fujiyuki et al.2004、Fujiyuki et al. in press)。
2防衛行動解発の解発因となる情報のSynergismの実体
社会性ハチ類は、血縁集団からなるコロニーを形成し通常「巣」という構造物の中で多数の未成熟個体を養育しています。卵、幼虫、蛹といったそれらの個体には、それ自体に膨大な投資がなされており、また捕食者から見れば良質のタンパク質の塊といえます。それゆえ、社会性ハチ類にとっては、ミツバチの項で記述されたような学習能力を駆使しての効率の良い採餌戦略の発達だけでなく、投資を一点に集中させた巣を守り抜く高度な防衛戦略の発達も必須です。ここでは、春先に女王一頭で営巣を開始した当初には20g程度であった巣が、秋には5kgをゆうに超える巨大なコロニーに発達するオオスズメバチの社会で進化した嗅覚信号による警戒情報システムについて取り扱いました。
巣内で多数の生殖個体(新女王蜂と雄蜂)として育つ蜂児が育てられる秋になるとオオスズメバチの巣門周辺には、警戒に当たる門番蜂が常時監視する状態になります。その巣に近づくと、門番蜂が飛び立ち接近者の周りをまとわり付くように飛び回ります。その際に門番蜂は、主に視覚信号で相手を認識しており、動きに対してきわめて敏感に反応します。ホバリングしているその蜂に手で払うなどの動作で刺激を与えると激しく飛び掛ると同時に毒液を噴射します。その後まもなく多数の働き蜂が巣内からスクランブル発進をかけ、標的に対して激しい刺針行動がなされます。スズメバチ類の毒液成分は揮発性の低い高分子物質で、外敵の体内に打ち込まれて激しい生理的な作用をもたらす防衛物質という常識的な概念がありましたが、前述の行動観察より揮発性の高い警報機能をもつ情報化学物質の存在が示唆されました。
そこで、オオスズメバチの毒液を綺麗なガラス管内に集め、ヘッドスペース部にたまった揮発物質を固相マイクロ抽出法とガスクロマトグラフ質量分析計を組み合わせた方法により、精密に分析しました。その結果、2-ペンタノール、3-メチル-1-ブタノール(イソアミルアルコール)、イソ吉草酸1-メチルブチルの3つが主成分として同定されました。それらの揮発物質(1働き蜂当量)をブレンドにして生物検定すると実際の毒液と同様の激しい防衛行動が引き起こされました(図7)。しかし、各々の物質単独では活性はきわめて低く、相乗作用があることが明らかにされました(Ono et al. 2003)。さらに、餌場マークフェロモンの主成分が、この警報フェロモンと同様にイソ吉草酸 1-メチルブチルであること、炭水化物源として利用している樹液や熟れた果実から発散される発酵香気成分にも同様の揮発物質が含まれており、スズメバチはそれらの化合物の組み合わせやそれらの作用する時空間的相違によって、異なる情報信号として認知していることが明らかとなりました。これらの高度な情報処理能力を支えて基盤に関しての基礎研究を進めていくことは大変意義あることと考えられます。