昆虫脳では脳の中央部にキノコ様の構造があり、キノコ体とよばれるこの領域が学習などの高次中枢となっています。社会刺激依存的に発現量が変化し、記憶学習に関与する遺伝子を見出すことを目的として、隔離飼育により学習能力が低下した個体と対照区の個体について、脳キノコ体での遺伝子発現を比較しました。
1定量PCR法による遺伝子発現解析
ミツバチの脳の異なる部位で遺伝子発現パターンを比較したkamikouchiらは、細胞内シグナル伝達系に関与する3つの遺伝子、 calmodulin-dependent protein kinase II (CamKII)、 inositol tris phosphate receptor (IP3R)およびprotein kinase C (PKC)がキノコ体選択的に高発現していることを見出し、これらの遺伝子が記憶・学習に関わることを指摘しています(Kamikouch et al. 1998. Biochem. Biophys. Res. Commun. 242、181-6; Kamikouch et al.2000.J.Comp.Neurol.417、501-10)。隔離環境で飼育された個体では、これらの遺伝子の発現が減少していないか、逆転写定量PCR法で検討しました。ミツバチ頭部をRNAlater(Qiagen)中で解剖してキノコ体を摘出し、RNeasyキット(Qiagen)でRNAすることで、分解を最小限にとどめ、安定した回収率でRNAを抽出しました。ランダムプライム法でcDNAを合成し、標的遺伝子に特異的なプライマーと蛍光プローブを用いて定量PCRを行いました。隔離飼育個体で発現量が低下していることを期待して行った実験でありますが、実際には9日間隔離飼育した個体と同日齢の対照区の個体に有意な差は見られませんでした(図5)。対照区の個体について成虫脱皮直前から日齢を追って発現量を測定したところ、出房後の若いハチでCaMKIIの発現量がピークに達することが明らかになりました。 IP3RとPKCでは加齢にともなう顕著な変化は見られませんでした。
図5 ミツバチ脳キノコ体におけるcalmodulin-dependent protein kinase II (CamKII), inositol tris phosphate receptor (IP3R)およびprotein kinase C (PKC)の発現量。rRNAを内部標準として相対定量を行った。
2ディファレンシャル・ディスプレイ法による遺伝子発現解析
隔離飼育個体とコロニー内で育ったハチの脳キノコ体での遺伝子発現の違いを網羅的に比較するために、ディファレンシャル・ディスプレイ法(DD法)に着手しました。9日齢のワーカーの脳キノコ体からRNAを抽出し、cDNAを合成してDD-PCRを行いました。結果の1例を図6に示します。これまでに15種類のプライマーセットを用いてPCRを行い、約600本ほどのバンドを検出しました。これらの中には、コロニー飼育したハチに特異的なバンドが13本、独房バチ特異的なものが3本含まれていました。現在、飼育条件依存的に変化のみられた16本のバンドを再増幅し、塩基配列を決定して遺伝子を同定する作業を進めています。
遺伝子発現を網羅的に解析するDD法とは別の手法として、ゲノム情報が利用できる生物ではマイクロアレイ解析が極めて有用です。我々もマイクロアレイ解析によるキノコ体での遺伝子発現解析を計画していましたが、ミツバチのゲノム解析の完了が当初の予定よりやや遅れたために、まだ実施には至っていません。解析に供する脳キノコ体のRNA試料調製法はすでに確立しており、早急に実施します。