前ページの研究テーマおよび研究方針をもとに、脳科学研究施設「生命観」部門の研究活動と連動しつつ、これまで以下のような方向で、脳科学と哲学とのインタラクションをねらいとする学際的な研究活動を行ない、2002-2006年にわたって年2回の研究会を開催してきました。また、研究の一環として、2006年3月4日・5日の2日間に、「玉川大学21世紀COEプログラム生命観ワークショップ」を開催し、それぞれ「高次認知機能の統合的理解をめざして」、「脳科学と哲学‐クオリア・アフォーダンス・科学思想‐」というテーマで、哲学研究者と脳科学研究者双方の間での積極的なインタラクションを試みました。下記に、その研究成果の概要を紹介します。
1「生命観」についての哲学的・科学史的・宗教的視点からの研究
近代科学における機械論的な自然観・生命観を哲学・キリスト教・科学哲学などの視点から検討し、その限界を指摘するとともに、要素や機能に分解しえない全体としての「生」を生それ自身から捉える生の哲学・実存哲学・哲学的人間学の生命観と人間観の意義、また生命を関係性として捉えるキリスト教の生命観の視点の重要性について考察を行いました。それとともに、脳科学を踏まえた「意志の自由」の問題、「媒介としての身体」の問題、脳死やヒト胚の問題、および脳科学の思想史的な意義づけについて考察しました。各研究の概要は下記のとおりです。
近代科学の前提は、機械論的・唯物論的な自然観・生命観であり、対象を部分・要素に分解し、因果法則にもとづいて「分析」する方法です。しかしながら、生命や心の全体はこうした客観的・分析的な自然科学の方法では十分に捉えられません。こうした機械論的な自然観や生命観の視点とは異なって「生を生それ自身から」捉えようとするハイデガーの動物論・生命論の意義と問題点を考察しました。また、人間の精神や心の働きを脳の構造と機能という視点から探究する脳科学の意義を踏まえつつ、ヤスパースの『精神病理学総論』を手がかりに、そうした科学的・分析的なアプローチでは捉えることのできない人間の〈心〉の根源性と全体性について考察し、脳科学の「限界」と〈心の謎〉とをクローズアップしました。その際、自由で自発的な意志の主体である〈私〉が脳の物質的作用の結果に還元されないことを強調し、現在ドイツでW・ジンガー、G・ロート、P・ビエリらの間で最先端の脳科学の成果にもとづいて激しい議論が展開されている「意志の自由」の問題に対して、哲学的考察を試みました。
生の哲学者として知られるディルタイの思想の変遷を辿りつつ、機械論的な自然主義やダーウィニズムと異なるディルタイの生命観と「生」の概念を考察しました。ディルタイが因果法則にもとづく自然科学的な「説明」の方法に対して、「生を生から理解する」方法として「心的生」すなわち「個性的なもの」を捉える「理解」の方法を対置していることの意義を考察しました。さらに、ディルタイが「生」と「環境」との相互作用を重視していることに注目して、こうした「生の作用連関」を「歴史的社会的現実」として捉え直し、新たな生命観の視点として「媒体としての身体」というテーマを考察しました。
A・ゲーレンとマックス・シェーラーの哲学的人間学をもとに、機械論的な自然観を超えた生命観・人間観について考察しました。シェーラーの哲学的人間学では、動物の「環境繋縛性」に対して人間の「世界開放性」が強調されていますが、これに対して、ゲーレンの哲学的人間学では、「行為する生物」という人間の定義が強調されている点に注目し、人間の運動が「シンボル」的性格をもつことが明らかにされました。さらに、シェーラーの後期哲学において、形式的―機械論的自然観と対置して、衝動的―運動型の知覚論が展開されている点についても考察がなされています。
キリスト教という宗教の視点から、近代科学の機械論的な自然観・生命観とは異なる「生命観」および現代の生命科学の問題を考察しました。その際、古代キリスト教思想研究と、それにもとづく現代の生命科学に関する研究という二つの方向の研究を展開しました。キリスト教の生命観は、有機体の物理的現象という視点ではなく、あくまで生きた人格的関係という視点から「生命(いのち)」を捉えることが基本となっています。したがって、「死」とは関係の不在の経験であり、「隣人愛」に基づく他者との生き生きとした人格的関係の中でこそ、「いのち」は真に捉えられます。こうした人格的関係性という視点から、脳死の問題も考察し、脳死状態からの臓器提供を「愛」の名で捉えることを、キリスト教の見地から批判しました。また、クローン胚の利用の可否についての考察でも、ヒト胚が非人格的物質ではなく、「誰かの胚」であるという人格性と関係性を秘めているものであることから、ヒト胚の研究的利用に関して否定的な見解を導きました。
近代における科学観と生命観の変遷をダーウィンの進化論の意義づけと絡めて考察し、さらに科学史的・科学哲学的な視点から、脳科学の科学思想における意義を考察しました。科学史にはさまざまな発展段階があります。科学は、初期科学ないし博物学の段階から、「科学革命」を経て、物理学・生命科学の隆盛に続いて、「脳科学」が「環境科学」とならんで新たなタイプの科学として登場しましたが、現在の「脳科学」はいかなる意味で科学なのでしょうか。この問題を検討し、また近年の脳科学が、人間観にどのような新たな見通しを与えているかという思想的意味を考察しました。暫定的な結論としては、脳科学は方法やアプローチが多様で多元的であることに特徴をもち、旧来型の「統一科学」の理念とは異なり、「環境科学」と共通した21世紀的な「モード2」型の科学と位置づけられるのではないかということが明らかになりました。
2認知科学・現象学・心の哲学にもとづく「認知」・「知覚」・「意識」についての研究
従来の「表象主義」の認知観の最も古典的なものは、直列型のコンピュータのようにアルゴリズム的な情報処理を行なう「古典的計算主義モデル」ですが、これに対して、ニューラルネットワークのように複数の情報処理過程が同時に進行する並列型のモデルが「コネクショニズム」の認知観です。しかしながら、双方ともに、認知を主体の内部の「表象」の処理過程として捉えている点が共通しています。こうした「表象主義」の認知観に対して、新たな認知モデルとして「反表象主義」の認知観があります。これは認知主体と環境との直接的なダイナミックな相互作用の中で認知が成立するという「相互作用主義」の認知モデルです。生態学的心理学のJ・J・ギブソンが提唱した「アフォーダンス」の概念は、環境が直接情報を提供することによって生命体の行動を惹起するというモデルであり、こうした「相互作用主義」の認知モデルに対応するものです。本研究では、こうした新たな認知モデルの意義を哲学的に考察し、アフォーダンスとクオリア、意識と生命システムの問題などに検討を加えました。また、現象学と生態学の立場から、色彩と空間の知覚に関する哲学的研究も行いました。
認知科学と「心の哲学」の観点から、古典的計算主義モデルやコネクショニズムの認知観のような「表象主義」の認知観の限界と問題点を検討し、認知を認知主体と環境との直接的な相互作用として捉える「相互作用主義」の新たな認知観の意義を考察しました。環境が直接情報を提供することによって生命体の行動を惹起するというJ・J・ギブソンの「アフォーダンス」の意義を取り上げるとともに、こうした「アフォーダンス」と、われわれが世界を感覚するときの独特な質感である「クオリア」の問題との連関を考察しました。暫定的な結論としては、高難度の技のうちに、クオリアとアフォーダンスの本質的な結合があるということが明らかになりました。
認知が主体の内部の「表象」として、脳の中の情報処理として行なわれるという「表象主義」の認知モデルに対して、主体と環境とのダイナミックな相互作用において認知を捉える「相互作用主義」および「反表象主義」の認知モデルの哲学的意味を考察しました。こうした「反表象主義」の認知モデルとフッサールの現象学との連関を考察するとともに、ヴァレラのオートポイエーシス理論にもとづいて、表象されるべき外的世界が存在するのではなく、世界が認知において「立ち現れる」という見方を提示し、生命システムとしての「意識」の問題を哲学的に考察しました。
生態学的現象学の視点から色彩の知覚に関する哲学的考察を行いました。たとえば同じ花が人間・サル・ミツバチなどの異なった知覚者に対して異なって見えますが、このように色彩・色覚が多次元的であることに注目しました。色彩の多次元性には、色相、明度、彩度の多次元性に加えて、色彩の情動的性格や空間的性格も考慮に入れなければなりません。特定の仕方で情動と運動と結びつき、特定のあり方の空間性の中で実現される色彩体験について考察を加えましたが、色彩を唯一の本質に還元する見方を批判し、色彩と色覚の複雑さ・多様性・多次元性を生態学的現象学の視点から強調することが本研究の結論です。
以上のような生命観研究グループの研究成果にもとづいて、脳科学研究者との共同研究の試みとして、2006(平成18年)度に共同研究書『脳・生命・心‐脳科学と哲学の出会い‐』を刊行する予定です。脳科学の最前線の研究とともに、脳科学の基礎論・脳科学批判・認知哲学・生命観・教育論などを射程に入れ、全人的な人間理解と人間形成という方向を目指して、脳科学の将来の可能性を哲学的に問い直すことを目的としています。
これまでの活動の反省点および今後改善すべき課題は、哲学研究者と脳科学研究者との議論や対話を進めていく際に、両者の思考の枠組みや前提、方法論、ボキャブラリーなどの点でかなりのへだたりがあるため、それらをどのように克服し、両者のあいだで共通の対話の地平を開いていけるかという点です。そのために、今後はいくつかの論点を設定して、それをもとに哲学研究者と脳科学研究者との間で対談を行ない、その対談の成果を共同研究書の中に組み入れることも計画しています。