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研究紹介

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長谷川 洋二教授

研究キーワード
教育哲学、歴史的人間学、教育人間学、ミメーシス、像、ゲーテの思想、全人教育思想

玉川大学で学びたいと考えている受験生からインタビューを受けるというリアルな夢を見た。夢の中の自分が実に素直に応じていたのに驚いたのも束の間、数日前にこのページを埋める研究紹介文の執筆依頼があったことを思い出し、これ幸いとばかりすぐさまペンを執って書き留めた。情景描写を省くとこんな会話だったような・・・

――さまざまな分野に渡って研究をなさっていらっしゃいますね。著作物を拝見すればすぐにその方の専門分野がわかる方もおられますが、先生の場合、なかなか掴めません。一体どんな研究をなさっているのですか。

「初めから鋭い切り込みですね。取り組んだのはいいものの、やりっ放しの仕事が多くて自分でも呆れるほどです。彫刻家ならいつまで経っても完成しないトルソー作家と言われそうです(笑)。もっとも私の歩んできたキャリアにも多少関係しているかもしれません。大学教員になって最初の数年間、本学の博物館で学芸員の仕事に携わっておりましたから、やむを得ないかとも思ったりしています。」

「当時本学所蔵資料の中で、アルベルト・シュワイツァー(医師・牧師・オルガン奏者・神学者・哲学者)、ガスパール・カサド(作曲家・チェロ奏者)、オットー・フリードリヒ・ボルノー(教育哲学者)の未整理資料をデータ化する任務に当たっていました。来る日も来る日も資料を一点一点整理していく中で、彼らの思想や活動を一次資料に当たって研究することの重要性に気づかされました。ある人物を知る方法は、何も書かれたものを読むことに限られるものではありません。自筆原稿や校正原稿、その人が収集した品々、調度品などを調べていくと、その人物の日々の生活や時代がモノを通して想像できるようになっていくのですから不思議です。」

「それから、今では遠ざかって久しいですが、当時は博物資料の扱い方や、時代的にも関心が寄せられ始めていた博物館教育に関する研究にも取り組んでいました。」

「その後文学部の仕事に専念するようになってからは、教育のあり方や教育を行なう人間のあり方・生き方を哲学的に探究する、大学院時代以来の研究に再び専念するようになりました。」

――そうだったのですね、存じませんでした。そうしますと教育哲学がご専門ということでしょうか。

「お若いのに「教育哲学」という分野をよくご存知ですね。「教育」にしても「哲学」にしても、どちらか一方を研究するだけでも大変そうなのに、「どうして教育哲学?」なんて思っているのでしょう?(笑)」

――正直に言うと、そう、です。すいません。

「いえいえ、あなたが謝る必要などありません。私自身、どうしてこんな厄介な分野に首を突っ込んでしまったのかと何度も思ってきましたから、そうお感じになっても何ら不思議ではありません。」

「私の場合、自分の子ども時代の実体験によって決定的に方向づけられてしまったようなところがあるのですが、よい教育というものがあるとするなら、そこには教える者が学ぶ者を適切に導くということが実現しているに違いない、という直観から自らの研究がスタートしました。「よい教育」を探究するにしても、この視点から取り組むだけでは決して十分ではありませんが、とにかく教える側が知っておかなくてはならない問題として、「対象を理解するとはどういうことか」「教える者と学ぶ者との間の相応しい関係とはどのようなものか」「何をどのように教えるのか」「教えるとは何か、学ぶとはどういうことか」「教育を行なう人間は自らをどのように捉えてきたのか」などといったことを、ドイツ語文化圏の教育学研究を参照枠として研究を続けて今日に至っています。ゲーテの思考方法、解釈学、ミメーシス、全人教育思想、像(イメージ)の論理など、私のやってきたことが雑多な関心の集積に見えるのはそのためでしょう。それらは自分の課題と向き合う過程で、その都度自ずと私の興味を引き寄せたものの断片に過ぎません。」

「学科の閉設・開設が繰り返されるに伴い、教育学科、人間学科、そして国語教育学科と三つの学科を経験してきましたが、博物館で仕事を始めた時から変わらず文学部所属教員でしたので人文学の重要性についてずっと問い続けてきたようにも思います。そういう点からすると、もう少し別のくくり方、例えば歴史的人間学や教育人間学といった名称を用いてお話しすることもできます。歴史的人間学は人間学批判から生まれてきたもので・・・」

――先生の研究のことを知りたくてお聞きしているのに、スイマセン、私には初めて聞く用語なものですから、そろそろ理解が怪しくなってきました。この続きは私が入学できた後、ゆっくりお聞かせいただけませんか。

「ええ、いつでも歓迎します。あなたが入学なさったら、ぜひ一言声をかけてくださいね、お待ちしています。」

――最後に国語教育学科生の学びと先生の研究の接点を教えてください。

「私の場合、四半世紀前頃から言葉と「言葉にできないもの」の関係に興味が湧いてきまして、双方の極を行き来する人間の学びのプロセスがどのようなものなのか、探究するようになりました。語られたことから対象を知ろうとするだけでなく、語られたことを、語られなかったこと、語ることのできなかったこととの関係で捉えることで、人の学びのプロセスについてもっと知りうることがあるのではないか、と考えたわけです。3年次から開講される私の演習では、学生たちが自分の気になる「像」を対象として選び、その像を読む行為を通して、読むということの、文化的・歴史的文脈を意識した学びを追求しています。読むという行為は人間が日常的に行なっていることですよね。それは言葉だけでない。絵画、映像、身振りなど、形のあるものを見て、そこから創造的に解釈することを行なっているのです。像はそれ自体ではどのように読んでもよいように思われるのに、どういうわけか何らかの解釈が生まれてきてしまいます。それがなぜなのかを探究することで、自分の学びのあり方をいつでも新鮮なものに保つことができるかもしれないと考えています。」

――ご説明いただき、ありがとうございます。今の私にはまだよくわかりませんが、国語教育学科で学べるなら、なんだか、言葉のことだけでなく、学ぶことについてもっとよく考えて、賢くなっていけるような気がしてきました。

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