
花菖蒲(Iris ensata)は、日本の伝統園芸植物の中でも特に文化的・歴史的価値が高く、江戸時代から現代に至るまで多くの人々に親しまれてきました。各地で独自に育成された品種群は、地域の風土や美意識を反映し、日本の園芸文化の多様性を象徴しています。
花菖蒲では、育成地の違いに加え、その土地で受け継がれてきた鑑賞様式が花容・花色・形態的特徴に直接反映されるという独自の文化的背景があります。
このように、地域文化と鑑賞様式が品種形成そのものを方向づけてきた点に、花菖蒲の大きな特徴があります。 本ホームページで示す花菖蒲四系統(江戸・伊勢・肥後・長井)の成立史および野生ノハナショウブの遺伝構造に関する知見は、2006 年の初報以降、本学が継続して実施してきた形態学・生理学・生態学・文献史研究と、分子生物学的解析(cpDNA・SSR・MIG-seq・EST)を統合した総合研究に基づくものであり、これらの研究は国内外に先駆けて体系的に実施された先行研究です。
花菖蒲の起源を科学的に解明するためには、品種育成の基となった野生ノハナショウブの遺伝構造を理解することが不可欠です。
本研究は、1930年代の三好学による形態学的研究を源流とし、2006年の「ノハナショウブの変異性に関する研究(第1報)」を起点として、形態学・生理学・文献史・分子生物学(cpDNA・SSR・MIG-seq・EST) を統合した総合研究として発展してきました。
2009:小林(修士論文)による cpDNA 解析―本州とは異なる “大陸系統” の存在を初めて示す
2009年には、小林(修士論文、田淵との共同研究)により、日本各地および韓国産を含む野生ノハナショウブ集団の地理的遺伝構造が、葉緑体 DNA(cpDNA)を用いて初めて分子レベルで整理されました。
当時、九州の真正な野生集団の材料が入手困難であったため、韓国産個体を「大陸系統の比較対象」として解析しました。 この段階では、九州産と韓国産が同一であることを直接示したわけではありませんが、韓国産が本州の集団とは明確に異なる大陸系統(野生ノハナショウブの遺伝的系統)に属することが示されました。
この知見は、後の Mimura et al.(2024)による全国規模の解析と直接つながる重要な基盤となりました。
2010-2011:森・練・田淵・半田によるSSR解析― 「野生種 → 江戸系」の連続性を初めて示す
2010〜2011年には、森・練・田淵・半田らによる SSR(マイクロサテライト)解析が行われ、 野生ノハナショウブと江戸系花菖蒲の遺伝的連続性が初めて分子レベルで示されました。
この研究により、
という長年の伝承が、初めて科学的に裏付けられました。
この成果は、後の Mimura et al.(2024)および Kobayashi and Tabuchi(2025)へとつながる重要な基盤となりました。
2024:Mimura et al. による全国260ヵ所の網羅解析―大陸系統の地理的連続性を確定
2024年には、全国260ヵ所以上の野生ノハナショウブを対象とした網羅的 DNA 解析(Mimura et al., Conservation Genetics)が行われ、MIG-seq による高解像度のゲノム解析の結果、日本の野生ノハナショウブが3つの主要な遺伝的系統(genetic lineages) に分かれることが明らかになりました。
特に、九州産とロシア産が同一の「大陸系統(野生ノハナショウブの遺伝的系統)」に属することが分子レベルで示され、ロシア → 朝鮮半島 → 九州へと連続する遺伝的ラインの存在が明確になりました。
この知見は、cpDNAを用いた小林(2009)が韓国産ノハナショウブを「大陸系統(=九州と同系統)」として初めて位置づけた成果を、MIG-seqによるゲノム解析が強固に裏付けたものです。
さらに、2010-2011年のSSR解析が示した「野生種 → 江戸系」の連続性とも整合し、大陸系統が朝鮮半島を経由して九州に到達したという地理的・遺伝的連続性が、2024年の研究により最終的に確定しました。
2025:四系統(江戸・伊勢・肥後・長井)の起源を国際的に確定
2025年には、国際園芸学会での発表を経て、Acta Horticulturaeに江戸系・伊勢系・肥後系・長井古種の起源に関する2報の論文が掲載され、四系統の成立史が国際的に承認されました。 これにより、花菖蒲四系統の起源は世界で初めて科学的に体系化されました。
近年、湿地環境の変化や開発により野生ノハナショウブの自生地は急速に減少し、園芸品種との交雑による遺伝的影響も避けがたく、真正な野生集団の維持が困難になりつつあります。
古花についても、環境変化や管理体制の変化により維持が難しく、多くが戦後の新花(系統間交雑品種)に置き換わっています。
本学では、環境変化以前の1980年代に採取し40年間維持してきた野生ノハナショウブと、真正性を確認した古花を30〜40年間同一条件で栽培してきた標準個体を用いて研究を進めてきました。 これらの材料は現在では同じ条件で再び揃えることが難しく、当時の遺伝構造を反映した研究は現在では再現が極めて困難です。
花菖蒲四系統の起源を科学的に整理できたのは、 長期にわたり維持・保存されてきた古花と、環境変化以前の野生ノハナショウブという、極めて貴重な研究材料が揃っていたためです。
本研究は、三好学以来、約一世紀ぶりに花菖蒲の起源を総合的に再構築した研究であり、今後の保存・育種・文化史研究の基盤となるものです。
本ページの図表および文章の転載・引用には、本学広報課の事前許可が必要です。 また、研究用として長期維持してきた標準株は、再現性確保の観点から譲渡・交換を行っておりません。
現在の花菖蒲園に見られるような栽培品種の「花菖蒲」を体系的に育成したのは、江戸時代の松平左金吾(号:菖翁)です。菖翁は、各地から入手した野生ノハナショウブの種子を江戸で播種し、選抜・育成を行いました。これらの品種群は後に総称して「江戸系花菖蒲」と呼ばれるようになりました。
江戸系花菖蒲の起源を科学的に明らかにするためには、 「松平左金吾がどの地域の野生ノハナショウブを母体として品種を育成したのか」 を特定する必要があります。
研究に必要な材料は以下の2つです。
2009 年の小林(修士論文)では、田淵が採取・維持してきた野生ノハナショウブを用いて葉緑体 DNA(cpDNA)解析が行われ、 北海道・東北・本州・三重・韓国の野生集団の地理的遺伝構造が初めて整理されました。
この研究により、 江戸系花菖蒲の母体候補が本州中部にあることが示唆されました。
全国260ヵ所以上の野生ノハナショウブを対象としたMIG-seq解析により、江戸系花菖蒲の母体が本州中部(霧ヶ峰・日光)にあることが強く示唆されました。
古花(菖翁花)と全国の野生ノハナショウブ集団を比較した EST(アイソザイム)解析により、江戸系花菖蒲は霧ヶ峰・日光の野生集団を育成基として成立したことが、EST(アイソザイム)解析により分子レベルで最終的に確定しました。

Mimura et al.(2024)と、Kobayashi and Tabuchi(2025)によって確立
伊勢系花菖蒲は、江戸時代の中期〜後期にかけて、紀州藩士・吉井定五郎によって現在の三重県松阪周辺で育成されたと伝えられています。しかし、その起源については長く議論が続いてきました。
冨野(1967)は、参勤交代や伊勢参りを通じて江戸系花菖蒲が伊勢に持ち込まれたと考え、伊勢系は江戸系から派生したと主張しました。 一方、平尾(1981)は自身の交配実生の観察から、伊勢系は江戸系や肥後系とは異なる遺伝的背景を持つ可能性を記録しました(田淵, 2016)。
本学では、
を総合的に検討し、 伊勢系花菖蒲の母体は三重県・斎宮に自生するノハナショウブであることを明らかにしました(小林・田淵, 2020;Tabuchi and Kobayashi, 2025)。
研究に用いた材料は、 伊勢系花菖蒲の栽培品種と、野生ノハナショウブ(現在は遺伝子侵食により研究が困難)を含む、以下の3群に分類されます。
野生ノハナショウブとしては、
を用いました。 これらの多くは国指定天然記念物であるため、 管理当局の許可を得て採取・研究を行いました。研究に用いた個体数は、 実生苗を含めて約 1000 株に及びます。
形態・生理・生態・cpDNA・EST のすべてが一致し、 伊勢系花菖蒲の母体は斎宮の野生ノハナショウブであることが強く支持されました。
肥後系花菖蒲は、江戸時代の天保年間に、肥後藩主・細川斉護が松平左金吾(菖翁)に花菖蒲の品種譲渡を懇願したことに始まります。 当時の記録には「門外不出を条件に菖翁花を譲り受けた」と明記されており、肥後系花菖蒲の品種群は、野生ノハナショウブではなく、江戸系花菖蒲の中でも特に菖翁花(松平左金吾育成品種)を母体として成立したことが歴史的に裏付けられています。
本学では、この歴史的記録を分子生物学的に検証するため、 菖翁花と肥後系品種の遺伝的関係を EST(アイソザイム)解析により明らかにしました (田淵ら, 2023;Kobayashi and Tabuchi, 2025)。
本研究で使用した材料は、すべて栽培品種であり、以下の3群に分類されます。
分子生物学的解析(EST アイソザイム)により、以下のことが明らかになりました。
戦後、肥後系花菖蒲はその豪華な花容から全国的な人気を集めました(田淵, 2016)。 しかし、歴史的記録と分子解析(菖翁花・満月会品種・西田氏育成品種の比較)に基づき、本学では以下のように分類しています。
この分類により、肥後系の歴史的連続性と遺伝的背景を明確に区別することが可能となりました。
山形県・長井地方には、「長井」と呼ばれる独自の花菖蒲品種群が存在します。 本学では、これらを 「長井(例外)」 と表記しています。
これらの品種群は栽培種でありながら、
といった性質を持ち、 野生ノハナショウブに非常に近い特徴を保持している点が大きな特徴です。
長井市「あやめ公園」に保存されているこれらの品種群は、 明治時代に金田勝見氏が、杉林跡に近隣の「あやめ」を植え付けたことが由来とされています。
長井品種群の起源については、これまでに
これらはいずれも、長井地方の花菖蒲が野生的形質を強く保持していることから生まれた推測に過ぎず、科学的な検証はこれまで行われていませんでした。
2009年、小林(田淵との共同研究)により、長井市周辺の野生ノハナショウブの cpDNA 型が、他地域とは異なる独自の遺伝型を持つことが示されました。
この解析により、 長井地方の野生集団が独立した遺伝的背景を持つことが初めて明らかになりました。この知見は、後の分子解析の基盤となりました。
本学では、
を対象に、EST(アイソザイム)解析を行いました。
研究材料は以下の2群です。
解析の結果、 長井品種群は、長井市周辺に自生する野生ノハナショウブ同士が自然交雑し、 その中から選抜されて品種名が付与されたものであることが明らかになりました。
つまり、
といった説は支持されず、 長井品種群は「地元の野生集団を母体とする独立系統」であることが科学的に確定しました。なお、一部の品種では、後世の栽培史の中で江戸系品種の遺伝子が混入した可能性も示唆されますが、長井品種群全体の成立史を左右するものではありません。
本研究成果は、 2026年8月に開催される国際園芸学会(International Horticultural Congress)にて発表予定です。
これにより、
が国際的に報告され、 長井(例外)の起源が正式に国際学会で確立されることになります。
本学の研究結果から、 江戸系花菖蒲、伊勢系花菖蒲、肥後系花菖蒲、および長井品種群(例外)の由来は、 以下のように体系的に整理することができます。
これら四系統の成立史は、 2009 → 2024 → 2025 → 2026 と続く本学の研究により、世界で初めて科学的に体系化されました。
今後の課題は、 これらの栽培品種をいかに永年的に維持・保存していくか、 そして育成の基盤となった野生ノハナショウブの保全をどのように進めるかにあります。

本学では、江戸時代に育成された江戸系・肥後系・伊勢系の古花、 および長井地方の品種群について、 株分けによって継承されてきた個体のみを研究対象としました。
株分け(クローン)によって維持された品種は、 育成当時と同一の形質(遺伝子)を保持しているため、 本学では30年以上にわたり開花を確認し、 古文書と照合のうえ、 すべての植物器官において一致する株のみを保存しています。
一方、 種子繁殖により同名で流通している株については、 遺伝的変異が生じている可能性があるため研究対象から除外 しています。
1986年当時、全国には約 260 地域のノハナショウブ自生地が確認されていました。 しかし、地球規模の環境変化や開発の影響により、現在ではその多くが失われ、ごくわずかしか残っていません。なお、現在わずかに残されているノハナショウブ自生地についても、近年の環境変化や人為的な植栽により、遺伝子侵食が生じる可能性が指摘されています。 そのため、環境変化以前の遺伝構造を保持する研究材料の価値は、今後ますます高まると考えられます。
本学では1986年より、管轄当局の許可を得て採取した野生株を株分けにより維持・保存し、 野生種の保全にも継続的に取り組んでいます。
これらの材料は、環境変化以前の遺伝構造を保持する極めて貴重な研究資源であり、 現在では同じ条件で再び揃えることはほぼ不可能です。
本研究は、三好学(1930年代)以来、約一世紀ぶりに花菖蒲四系統の起源を総合的に再構築したものであり、今後の保存・育種・文化史研究の基盤となる成果です。
また、2009(cpDNA)→ 2024(MIG-seq)→ 2025(EST)→ 2026(国際学会発表)と続く一連の研究により、花菖蒲の成立史が世界で初めて科学的に体系化されることになります。
本研究は、野生ノハナショウブの保全と日本の園芸文化の継承に関わる重要な成果として、社会的にも高く評価されています。
2026年には、日本経済新聞(Science 部門)において、田淵俊人「保全で日本らしさ守れ ―『花かつみ』候補植物に危機」(2026年2月1日)が掲載され、野生ノハナショウブの保全の重要性と、本研究が果たす役割が広く社会に紹介されました。 また、本研究の成果は他の報道機関や専門誌でも取り上げられ、花菖蒲の起源研究と野生種保全の重要性が社会的関心を集めています。
Acta Horticulturae(国際園芸学会)
WOLZ / WOTZ Book(国際園芸学会資料)
Conservation Genetics(国際誌)
園芸学研究(園芸学会)
国際会議(IHC)
大学紀要
学位論文